「一つ、壁を超えたみたいね」
 腕の中で眠るリディアを優しく抱きしめ、女性は呟く。
「リディアは大丈夫なのか」
「精神崩壊が起こるほどの負荷を私がかけるとでも思ったの、バハムート」
「そんなことはない。だが、リディアは傷つきやすい」
「全て、計算のうちです。あなたは余計な心配をなさらなくてもいいの」
 さて、と女性はディオニュソスの方を振り返った。
「一つだけ聞かせてくれるかしら、ディオ」
「なんだい、別嬪さん」
「初めてリディアと会ったとき、あなたはこれほどの美人は他に私くらい、と褒めてくださったわね」
「ありゃりゃ、聞いてたのか」
「あなたがそこまで、リディアのことを綺麗だと思った理由は何?」
 この獣は、自分が美しいことをよく理解している。その上での台詞であった。ディオニュソスは思わず肩をすくめる。
「簡単なことさ。あんたは別嬪だが生きてる感じがしねえ。絵画の美しさってやつさ。でもリディは違う。彼女は生きている炎の美しさだ。あんたに分からないとは言わせねえぜ」
「そうね」
 女性は頷いた。
「私もそう思うわ」












PLUS.72

戦場へ







She returns to the battlefield, again






 しばらくして、リディアは目覚めた。暖かい肌の温もり。それが目覚めを緩やかにしていく。
「起きた、リディア?」
 お母さん?
 またしてもその幻惑がリディアを襲う。違う。彼女は母親ではない。
「はい。すみません、気を失ってしまいました」
「いいえ。あなたは試練に打ち克ったのです。あなたの魔法力は格段に跳ね上がっていますよ。一日前と今とではね」
 女性は言った。はい、とリディアは答えたがふと首を傾げる。
「一日?」
「そうです。あなたが気を失ってから一日がたちました。もちろん、あなたにそれが分かるはずはありませんが……」
「一日!」
 さすがに驚いた。睡眠は多く取る方だという自覚はあったが、まさか一日も気を失っていたとは。
 まさにその一日も早く向こうの世界に戻りたかったのに。
「焦っても仕方がありません、リディア」
 だがそれを見透かしたかのように女性が言う。
「まだ向こうの世界に戻るまで、半日はあります。もう少しゆっくりしていきなさい」
「半日?」
「ええ。こちらと向こうの世界が接するまで、あと半日です。あなたを、あなたが望む場所へ連れて差し上げます」
「望む場所?」
 リディアは首をまた傾げる。
(……そう。まだ、無意識のものでしかない、ということね)
 くす、と女性は笑った。
 彼女はまだ、自分の気持ちに気がついていないのだ。
「つまり、元の世界に、ということです」
「はい」
「そして、その前にやらなければならないことがありますね」
「やらなければ……」
「契約、です」
 あ、と間抜けな声をあげてしまい、リディアは赤面した。
 そうだ、何のために今試練を受けていたのか。それは自分のレベルアップはもちろんだが、まずはなんといっても契約を結ぶためなのだ。
「私は生まれて初めての契約を主とかわします。我が名はルナ。主のおんために、我が力の全てを差し出さんことを誓います」
「はい」
「ですが、一つだけ。我が力を使うことは問題ありませんが、私を召喚することは可能な限りさけてください。全ての世界には我が化身、月が存在しています。月のある世界で私を召喚するとどういうことになるか……正直、私にも分からないのです」
「はい」
「そのかわり、我が魔法のいくつかを差し上げます。月の光、我が力、存分にお使いください」
「ありがとうございます」
 こうして、リディアはこの地方における最後の獣と契約を果たすことに成功した。
「ところで、バハムートたちはどこに行ったのですか?」
 先ほどから、ルナ以外には回りには誰もいなくなってしまっている。気になっていたことだが、一段落ついたところでようやく話を切り出した。
「大切な契約の儀式、横から口をはさまれたくはありませんでしたので」
 たおやかな笑み。それを見て何が言いたいかは理解できた。
 要するに、ジハードとバハムートの二人がかりでディオニュソスを遠ざけておいた、ということだ。
「すぐに戻ってくるでしょう。契約を結んだということが分かれば」
 そう言っている間にも、遠方から三つの影が近づいてくるのが見えた。
「戻ってきたみたいですね」
 先頭をきってくるのはディオニュソス。そのあとからバハムートとジハードがやってくる。
「よっ。お目覚めだな」
「心配をおかけしました」
「なあに、命に別状ないって分かってんだから何事もねえよ。それよか、ちょっと相談があるんだけどよ」
「相談?」
 ディオニュソスが楽しそうに言う。
「ああ。俺をお前の守護役にしてくれ」
「なっ」
 ジハードが怒気をはらむ。それこそジハードが名乗りをあげたいところであったのだ。
「気持ちはありがたいけど、私はずっと昔からタイタンが守護役だったから」
「そのタイタンも、お前を守るために重傷を負って今もまだベッドの上。今のお前は守護役なしってわけだ」
 ジハードが名乗りをあげられなかったのは、ここに理由がある。そのタイタンを半死半生の憂き目にあわせたのは他ならぬジハードなのだ。
「この先の戦いは守護役なしじゃきっついぜ。何しろ、相手はカオスなんだろ?」
「そう……だけど、でも」
「俺とタイタン、どっちの方が強いと思う?」
 それは答えるまでもないことだ。分かりきっている。
「だったら、是非俺を使ってくれよ。タイタンの守備力は俺も分かるけどよ、現実に召喚士の守護役がほしいのは『今』なんだぜ。せめてこの今だけでも俺を使ってくれないか、リディア」
「待て、ディオニュソス」
 割って入ってきたのはバハムートであった。
「なんだよ、バハムート」
「貴様、随分とリディアに入れ込んでいるようだが……何が目的だ?」
「目的?」
「大胆にして緻密。お前の本性を知るものはそう多くあるまい。奔放に見えつつお前の行動には必ず何らかの目的がある。お前の目的はいったいなんだ」
「おいおい、なんかおおげさだなバハムートのおっさんよ。俺がそんなに賢そうに見えるかい? 俺は単に面白そうなことには首を突っ込みたいだけさ」
「そう言いながら、お前は対立する獣を駆逐し、今の力を手に入れた。あるときは自分にとって都合の悪い相手を同士討ちにさせた。またあるときは自分より強い相手を罠にかけて自滅させた」
 ディオニュソスは肩を竦める。
「お前には仲間も主もない。お前にあるのは、その相手が利用できるかどうかだけだ」
「ま、それほど間違っちゃいないけどね。でもだからといって俺はリディアの不利になるようなことはしないぜ」
「その言も信用はできん。最初からお前は勝手に我々についてきて、今また勝手にリディアについて行こうとしている。今までは私の監視があったからよかったが、この先まで同行させることはこの私が許さん」
「何だい何だい、俺がそんなに信用ならないってのも気にくわないけど、まさかして俺を倒そうってんじゃないだろうな」
「必要とあれば」
 ぴりぴりとした空気が流れる。
「お待ちなさい、二人とも」
 ルナがそれを制した。
「全てはリディアが決めること。そうでしょう、リディア」
「はい」
 そしてリディアはディオニュソスに向き直った。
「タイタンの守護役を解くことはできない。ずっと子供の頃から、タイタンには守られていたから。今になってタイタンと別れるなんてできない」
「ええ〜。なんでだよ」
「でも」
 反論しようとするディオニュソスをリディアが封じる。
「タイタンの怪我が治るまでなら、一時的にディオニュソスを守護役にすることは不可能じゃない」
「じゃあ」
「リディア」
 ディオニュソスとバハムートが同時に声をあげる。
「大丈夫、バハムート」
 リディアはにっこりと笑った。
「私、ディオニュソスが他の目的があって近づいてきたこと、最初から分かっていたから」
 場が、凍りついた。リディアのその言葉は、他の四体の獣に与える衝撃はあまりに大きかった。
「姫……ならば、どうして」
 ジハードがうめくように答える。
「ディオニュソスの目的が何なのかはわからない。でも、ディオニュソスが私のためにならないことをすることがないって分かったから」
「何故そう言いきれるのだ?」
 バハムートがもっともな質問をしてくる。
「それだけ、契約という行為が神聖なものだから。少なくとも私は契約がただの口約束じゃないっていうことを知っている。バハムートもジハードもルナも、みんな契約をしたっていうことは、私に命を預けてくれる、そういうことだよね」
「もちろんです」
 ジハードが勢いづいて答えた。
「……ディオニュソスも、同じ。ディオニュソスだって獣なんだから、無意味な契約はしない。私はディオニュソスが契約をしてくれたから、同行しても何も文句はなかった。これからも一緒」
「話がわかるねえ、リディア」
 にやり、とディオニュソスが笑う。
「でも、できればディオニュソスには何のために私に近づいてきたのかは教えてほしい」
「そりゃ無理な相談だぜ、リディア」
「どうして?」
 ディオニュソスの口元が綻ぶ。
「俺は、興味本位だけでお前についていくからさ、リディ」
「そう」
 ディオニュソスは平然と嘘をついている。それは分かる。
 だが、リディアはそれを『否』と言うつもりはなかった。
 彼には彼の立場がある。何をなそうとしているのか、何をなすために行動しているのか。それは自分が知る必要のないことだ。
 そして、何より。
「……それが嘘じゃないってことは、分かるから」
 ディオニュソスは確かに自分に惹かれている。興味を持っている。
 その事実があるならば、それで充分だった。
 裏切るつもりがあるのか、など聞いても意味のないこと。
 裏切られないという自信がある。そして裏切られたとしても、傷つかない自信がある。
 頼り切るつもりもないし、あてにしないわけでもない。
『同行者』だと割り切ってしまえばいいだけのことだ。
「これから少しの間だけになると思うけど、よろしく、ディオニュソス」
「オーケー。頼むぜ、リディア」
 ディオニュソスはウィンクをして答えた。非常に喜ばしい様子だった。
「では……あと半日の後、リディアを第十六世界フィールディに戻します」
 リディアは力強く頷いた。
「あと半日、待たなければならない理由は何なのでしょうか」
「今、月が移動している最中なのです。月と大地との接点、絶望と希望が合わさる時間まで、あと半日なのです」
「絶望と、希望?」
「月が約束の場所に来るまで……もうしばらくの辛抱です、リディア」
 くす、とルナが最後に笑った。






73.奪われた力

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