この罪が許されることなどないとずっと思っていた。
罪を犯すのは自分。
罪を裁くのも自分。
だから許されない。
許す心を持たない。
だが、罪は贖わなければならない。
そのために自分の命をかけることは厭わない。
それが当然なのだから。
永遠に許されることのない、自分への罰なのだから。
ＰＬＵＳ．９２
一つ目の赦し
broken heart
幼子のイリーナはその黒の中に溶け込んで消える。
そして、この黒の世界にあったもの。
それは、絶望。
「こ……」
カインは震えた。
自分の精神世界とひけをとらないほどの絶望。
「これは、子供の頃のイリーナの世界か……」
想像はつく。
こんな精神となってしまったイリーナが、どういう状況に置かれているのか。
『お兄ちゃん』
黒い世界の中に、白い線で幼子のイリーナが現れる。
「イリーナ」
『お兄ちゃん……死んでなかったんだね』
両手をだらりとさげ、俯いているイリーナ。前髪で顔が隠れて、どのような表情をしているのかは分からない。
「俺は死なない。お前に謝るためにここに来たのだから」
『そう……』
その白いイリーナの絵に、赤い絵の具が飛び散るようについた。
「イリーナ」
『どうして？』
少しだけ顔を上げたイリーナの顔には笑みがあった。
悪魔の笑み。
『お兄ちゃんは、私が殺したのに』
息を飲み込んでいた。
（イリーナが……殺した？）
『二度と生き返らないように、何度も何度も刺したよね』
黒い世界に、無数の銀色のナイフが生まれる。
『二度と、二度と』
「待て、イリーナ！」
ナイフが一斉に動き始めた。
カインめがけて。
「くっ」
カインはそれを必死に避けるが、なにしろ数が数だ。十や二十ではない。百の単位の数だ。
『死んじゃえ』
白い輪郭線は次第に赤く染めあがっていく。
それは血の色だ。
『死んでしまえ』
「そうはいかない」
カインはナイフを避けながらイリーナに向かって突進する。
『来ないで！』
「そうはいかない」
カインは幼子のイリーナを抱きしめた。リディアのときと同じ、絶望する痛みがカインの全身を焼く。
『やめて！ さわらないで！ くるしめないで！』
「イリーナ」
『もう私を犯さないで！』
カインの心に衝撃が走った。
（……イリーナ）
そうか。
そういうことだったのか。
「イリーナ」
『さわらないで！ これ以上、私を壊さないで！』
「俺はお前を傷つけない」
腕の中で暴れるイリーナを必死に抱きとめる。
ここで離したら終わりだ。
二度とイリーナと会うことはできない。
「俺はどんなことがあってもお前を守る。お前を傷つける全てのものから守る。それが俺の……」
俺の──？
カインは一瞬戸惑った。それが命取りとなった。
『いやああああああああっ！』
イリーナの体が輝く。赤い、にび色の光を放つ。
その光に押し出されて、カインは弾き飛ばされた。
「イリーナ」
『ゆるさない……』
イリーナの髪が逆立っていた。
『お兄ちゃんも、カインも、絶対に許さない！ あたしを傷つける者は許さない！』
イリーナに変化があった、とカインは判断した。今、イリーナは自分の名を呼んだ。そして、一人称が幼子の『私』から成人したときの『あたし』に戻っていた。
だが、その先が続かない。
（俺は、どうしたい？）
イリーナを助けたいとは思う。だが、それはいったいどういう理由からなのか。それがイリーナに届かないことには心は通じない。
精神世界だというのに、まだ自分の心がどういう考えをしているのか分からない。
イリーナを助けようとするのは何故だ？
使命だからか？
役割だからか？
そんな理由で、助けられる方は満足できるのか？
『許さない！』
ナイフが暗黒空間に浮かび上がる。先ほどよりも数は多くなっている。
「くっ」
今度は不用意に近づくことはためらった。同じことの繰り返しになってはいけない。
カインも槍を握った──精神世界なのだから、思い描いた武器はすぐに現れる仕組みのようだ。
（戦えるのか、この俺が？）
戦闘能力が落ちて久しいカインである。高く飛ぶだけではなく、槍の使い方すらままならない。
（くる！）
ナイフが一斉に動き始めた。いきなり飛びかかってくるもの、旋回して隙をうかがうもの、弧を描いて襲いかかってくるもの、さまざまだ。
（やっかいだな）
槍でなんとか弾くが、それもいつまでもつかは分からない。
全ては、イリーナを助けられるかどうかにかかっている。
ナイフの一つが、突然軌跡を変えた。
それは明確に、カインの心臓を狙ってきた。
「しまっ……」
声にする間もない。
カインの胸にナイフが突き刺さる──
ダンッ！
──はずが、そのナイフは寸前で弾き飛ばされていた。
「やれやれ……危機一髪だぞ、と」
聞き覚えのある声。
「レノか」
「まったく、見ていらんないぞ、と」
レノは短銃でナイフを次々と打ち落とす。
『先輩……』
幼子のイリーナは厳しい視線でレノを睨む。
「イリーナ。帰るぞ」
『いやっ！』
「いつまでこんなところにいるつもりだぞ、と」
『レノ先輩には分からない』
「お前の気持ちなんか知らないぞ、と」
『あたしがどんなにツォンさんを好きだったかなんて、レノ先輩には分からない！』
ナイフが一斉にレノの方を向く。
「やれやれ……まだ気にしてたのか」
『絶対に許さない。レノ先輩だけは許さない』
「死んだやつのことをいつまでも考えている必要はないぞ、と」
『その口を二度と叩けなくする！』
次々に襲いかかるナイフを、レノは短銃で打ち落としていく。その合間を縫って、レノはカインに視線を送った。
この隙に、イリーナを助けろ。
目がそう語っていた。
カインは頷くと、完全に自分を無視してレノに向き直っている幼いイリーナを見つめた。
（俺は、どうしたい？）
槍はもう手にない。
戦わないのなら武器は必要ない。
誰かを助けるために必要なもの。
それは、
『カインと、一緒にいたいから……』
あの誘いを自分は拒否した。
それがどれほど彼女の心に傷をつけただろう。
謝っても、謝りきれない。
だが、あれほどの気持ちを持ってしても自分の心は変わらなかった。
心を変えるというのは、それほど難しいことなのだ。
自分にそれができるだろうか。
相手にとって、一番必要な言葉を選び取れるだろうか。
（俺は、イリーナを助ける）
それは使命でも任務でも役目でもない。
（それが俺の願いだ）
決まってしまえば、あとは実行するだけだ。
カインはゆっくりとイリーナに歩みよる。
「イリーナ。俺を見てくれ」
レノに集中していたイリーナが、横目でカインを見る。
カインは、二つの掌を開いたままイリーナに向けた。
「この手はお前を傷つけることはない。俺はお前を傷つけない。お前を守る」
『白々しい』
イリーナの目が鋭くなる。
『その槍であたしを傷つけたのはいつ！？』
「そうだ。俺は自分の殻に閉じこもって、誰からの干渉もほしくなかった。だからお前を傷つけてしまった。それを過去のことだと割り切るつもりなどない。俺はお前に謝りたかった。そして、お前を今度こそ守りたい」
『その言葉が信用できると思うの！？』
「ああ。俺はお前に約束をしよう」
『約束？』
「そうだ」
カインは一度言葉を区切った。
「俺がお前を傷つけようとしたら、お前は俺を殺していい」
幼子の表情が凍りついた。
『……な、何を』
「俺の命をお前にやろう。お前はいつでも俺を殺すといい。お前に対しては、絶対に抵抗しないと誓う」
『ふざけないで』
「魂の世界で嘘が言えるとでも？ これは俺の本心だ。イリーナ、俺はお前を守りたい。お前を傷つけてしまった償いとして、そして俺の心からの願いとして、俺はお前の兄になりたい」
『……あ、ああ、ああああああ！』
黒い世界に、無数のヒビが走った。
「イリーナ」
カインは最後の数歩をゆっくりと詰めた。
『こ、こないで』
「大丈夫だ。俺はお前を傷つけない。だから……俺の妹を、抱きしめさせてくれ」
『いや』
「大丈夫だ。お前を傷つけるものから全て俺が守る」
『いや』
「前にも言ったな……俺には妹がいない。妹にするならお前がいい。お前のような妹がほしい。お前を妹にしたい。俺はお前を守る兄になりたい」
『いや……』
「だから……お前も、俺に心を開いてくれ。イリーナ」
『いや……』
幼子は俯いて、さらに搾り出すように続けた。
『……じゃ、ない』
「イリーナ」
カインは最後の一歩を詰めた。そして両腕を開く。
イリーナが最後に、カインの胸に顔を埋めた。
『ひっ……ひっく、ひっく……うわああああああああっ！』
「イリーナ」
『ごめんなさいお兄ちゃん、ごめんなさいお兄ちゃん、ごめんなさい……』
「大丈夫」
優しくカインはイリーナを抱きしめた。
「大丈夫だよ、イリーナ」
『うわああああああああああっ！』
目が覚める。
なんだか鈍い感覚。
（……ああ、そうか）
カインは目の前の光景にようやく思い至る。
「目が覚めたようですね」
ハオラーンの声で少しずつ意識が覚醒していく。
「ああ」
見ると、レノもちょうど目を覚ましたところだった。
「おつかれさん、と」
「ああ」
カインは答えてイリーナを見た。
まだ目が覚めない。だがもうじき、目を覚ましてくれるだろう。
「カイン！」
気がつくと、部屋の中にはリディアやティナたちもやってきていた。
なかなか帰ってこないので不安になったのだろう。
「……リディア」
あの精神世界での出来事。二度とも自分は鮮明に覚えている。
リディアを傷つけたことも。
「リディア……ずっと俺は、君に謝りたかった」
リディアに向かって、カインは深く頭を下げた。
「ちょ、ちょっとカイン」
突然の行動にリディアの方が逆に戸惑う。
「お前の誘いを拒否してしまったこと。どんなに謝っても謝りきれないことだとは思う。だが、俺は」
「……もういいよ、カイン」
リディアは優しく微笑む。そして近づいて、カインの頭を優しくなでた。
「カインが誰を一番大切に思っているかなんて、最初から分かってたことなんだから」
そういう許し方を、カインは優しさだと感じた。
『許す者は眠りから覚め、空は一つ目の罪を許される……』
ハオラーンが竪琴を鳴らした。
それに伴い、ようやくゆっくりと、眠りから目覚めた。
「イリーナ」
「カインさん」
イリーナは起き上がり、にっこりと微笑んだ。
「カイン──お兄ちゃん！」
カインは目と耳を疑った。そしてイリーナは、カインの胸に飛び込んできた。
「あっ」
それを見たティナが思わず声をあげる。リディアはくすっと笑った。
「ただいま、お兄ちゃん」
イリーナはようやく、安堵の笑みで囁いた。
９３．嵐の前
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