『人間が、この私を使役するというのか』
遠い過去、まだこの身が古き都の守護の任を帯びていたころから、たった一人の人間に仕えたことなどなかった。
だが、目の前にいる男は自分をいとも容易く捕らえてしまった。
「使役などしない」
『では如何にする』
「お前の協力が欲しいだけだ。もしもの時は僕を守ってほしい」
一度敗北を認めた相手に、その条件は悪くない内容だった。
『よかろう。汝が守護役となろう』
契約は成立した。
PLUS.101
三度目の対峙
avoid combat
「くっ、くくくくくくっ」
煙を上げて傾くガーデンを前下方に見つめ、ルージュは邪龍の上でくぐもった笑いをおこす。
「マリリスの件といい、アビスの件といい……どうしてこうも僕にとって都合のいいように動いてくれるんだろうね、誰もかれも」
ルージュは右手で邪龍の長い角を優しくなでた。
「魔獣は僕の数少ない駒だ。あの二人に出張られて倒されるわけにはいかない」
あの二人=マリリスと戦ったスコールとリディアのことである。
ガーデンを沈めるために魔獣を放ちはしたが、相手次第では倒される可能性もあるのだ。
その点、マリリスは現在のガーデンの最大戦力ともいえるスコールとリディアをひきつけてくれた。それだけでも大いなる感謝をカオスにはせねばなるまい。
「カオスの力か」
はじめからルージュの念頭にはカオスのことなどない。
ただ頭にあるのは一つ、自分と同じ顔をした『怪物』を倒すだけなのだ。
「もうすぐ、着水する」
ゆっくりとガーデンは海へ降下している。いち早く脱出した者たちはボートを陸に向かって漕ぎ出している。
「早く逃げないと、着水の衝撃で波をかぶっちゃうよ……ほらほら、急がないと」
くすくす、とルージュは笑った。
「そして僕も……目的を果たさないとね」
「お前が何をたくらんでいるのかは知らないが、この僕を出し抜くことができると思うなよ、ルージュ」
声が聞こえてきた。上だ。
ルージュが見上げると、そこに赤き鳥がいた。
「……朱雀!」
輝ける赤き鳥。そしてその上に立つ一人の青年。
「ルージュ。まさかこんなやり方で攻めてくるとはな」
「ブルー。やはり僕の行く手を阻むのは貴様か」
お互い、視線だけで相手を殺せるほどの殺気をぶつけあう。
「それにしても朱雀までがこちらの世界に来ていたとはね。驚いたよ」
『私は汝らの戦いに手を貸すつもりはない』
朱雀の口から人間の言葉が放たれた。
『だが、パートナーたるブルーの窮地を救うのは私の役目。それに汝が邪竜を従えるというのなら、私が加勢して五分というところだろう』
「僕は朱雀と契約をした。リディアが幻獣を守護役としているように、僕もまたいつでも朱雀の力を借りることができる。お前が邪龍を従えているのと同じ、というわけだ」
『我は今は滅びし古き都の南方守護獣。たとえ邪龍が相手であろうと、力負けはせぬ」
ルージュにしてみればうかつだった。ブルーは今までの戦いで朱雀の力を借りようと思えば借りれた。そうしなかったのは、今まで常に一対一の勝負を続けてきたからだ。
だがそれがなくなったのなら、ブルーはどんなことをしてでもルージュを倒しに出てくるだろう。特に今はルージュが空にいるのだ。朱雀の力を借りない限り、戦うことはおろか会うことすらできなかったのだ。
「やれやれ……貴様も罪つくりだな、ブルー」
ブルーの眉がひそむ。
「朱雀ならばアセルスが人間に戻るのにうってつけの素材だろう。そのことをアセルスや朱雀が知っているのか?」
『知っているとも』
朱雀がこともなげに答えた。
「朱雀とは既に契約済みだ」
ブルーは苦笑する。
「アセルスが必要とする最後の一体に朱雀がなることを。そしてそれまでの間、朱雀は僕に力を貸してくれることを」
「……」
ルージュは何も言わなかった。何も言えなかった、という方が正しいかもしれない。
「ばかな」
ルージュは我を取り戻してから、ゆっくりと頭を振る。
「四神ともあろうものが、どうしてそこまで人間に肩入れする?」
『言ったはずだ。それが契約だと』
「自らが消滅したとしてもか!」
『消滅などせん。一度妖魔武具に封印されるだけのこと。全てがすめば解放される。何も問題はない』
ルージュはため息をついた。
「……四神にここまで言わせるとはね、兄さん。あの戦いのとき、僕にはここまで言ってくれるものは誰もいなかった……僕が負けたのはその差かな、兄さん」
「運の問題だろう。僕は朱雀に会った、お前は会わなかった、その差だ」
「だとしても、やっぱり僕は兄さんにかなわなかったんだね、あの時には」
ルージュは紅の瞳に力をともした。
「こっちの世界に来てから対峙するのはこれが三度目。一度目は邪魔が入ったけど、兄さんが優勢だった。二度目はいたみ分けだったけど僕が優勢だった。言うなれば、完全に僕たちの力は現在互角」
「何が言いたい?」
「今戦っても、勝つ確率は半分しかない、ということさ」
ルージュは邪龍の角をなでた。
「次の戦いが僕らの最後の戦いとなるだろう。僕はその戦いに万全の準備を整えて臨む。僕がガーデンを破壊したのは、それが理由さ」
「なに?」
「まだ兄さんとは戦えないよ。こうして目の前にいると殺したくて殺したくてうずうずするけど……でも、完全に勝てるという自信がない以上、今はまだ駄目だ。この場は退いてでも、次の戦いの準備をしなければいけない」
「ルージュ!」
「さよなら兄さん。次に会うときは、僕は今の倍以上強くなっているからね。覚悟を決めておきなよ」
ふっ、とその姿が消えた。
「待て、ルージュ!」
だが次の瞬間、残された邪龍が動いた。
『どうやら、邪龍を足止めに使うようだな』
朱雀が冷静な分析を行う。
「朱雀だけで持ちこたえることは?」
『無理だな。契約主がこの場からいなくなれば、我はこの場に留まることができなくなる』
「ということは、僕らで倒すしかないということか」
『そういうことだ。汝には不本意であろうがな』
ブルーは朱雀の上で魔力を高めた。
「邪龍が突進してきたときがチャンスだ」
邪龍は口に炎を溜め、そして突撃の機会を狙っている。
そしてその体が一度、少しちぢんだ。
「来る!」
邪龍がトップスピードで動いた。
ブルーの追撃を振り切ったルージュは中庭へとやってきていた。
ラグナロクが飛び立っていく。
あとに、二つの死体を残して。
首を刎ねられた女性と、胸を貫かれた少年。
ルージュは少年の死体に近づき、膝をついた。
「ふふ、ふふふ……」
傷口が、ぼんやり紫色に輝いている。
間違いなく少年は死んでいる。だが、死んでなおこの体は活動を行っているのだ。
それは一体何なのか?
「やはり凄いね、君は……サラが封印していたアビスを、全部自分が引き受けるなんて」
この体には今、アビスが宿っている。
本人の意識は既になくとも、この体自体がアビスを封印する媒体として使われている。
サラとゼロ。アビスを抑えることができる二人だけに許された力。
「アビスの力か……」
この力が。
この力があれば、ブルーを超すことができる。
「君には悪いけど、この力、もらうよ」
アビスを制御する自信はある。
それだけの力を既に前の世界で手に入れている。
邪龍の力と、混沌の力。
それをあわせもつことができれば、自分は魔力を全て極めたブルーとはいえ、それを大きく上回ることができる。
ルージュは右手を、その塞がりかけている傷口に突き刺す。
そして穴のあいた心臓を、死体から引きちぎった。
ここだ。
ここに、アビスがある。
「これで、僕は兄さんを超える……」
血まみれの、どす黒いその心臓を。
ルージュは、歯を剥き出しにして食べた。
何度も、何度もかぶりついた。
顔面が血にまみれても、狂ったようにその心臓を食べつくした。
「く……」
顔が、次第ににやけてくる。
「く……くく、あははははははははははははははっ!」
体内に闇の波動が流れていくのが分かる。混沌の、アビスの力だ。
「これがアビスの力。すごい。こんな力を手に入れることができるとは……」
このガーデンすら、一瞬で消滅できるのではないかと感じるほどの力。
今までの自分とは比較にならぬほどの、圧倒的な力。
龍の力どころのさわぎではない。これは完全に、桁が違っている。
だが。
「……ぐ」
そのルージュの表情が、次第にこわばっていく。
「ぐ……あ、あ、あ、あああああああっ!」
そのルージュの紅の瞳が、うっすらと闇色に変化する。
(こ、これが、アビスの……)
アビスの力が、体内を駆け巡る。
この体が、支配されようとしている!
(混沌……そうか、この感覚は、カオスの……)
アビス=混沌=カオス。
すなわち、アビスとは。
(カオスの分身……いや、カオスから分かれた細胞片、といったところか)
冷静に自分の体を巡る力を分析するルージュ。
だが次第に、アビスの力が自分の力を上回っていくことを理解していた。
(このままでは、まずい)
ローブの中を探る。『もう一つの目的』は既に手に入れている。
(……一度戻り、この力を完全に制御する)
本来なら、今すぐにでもブルーを殺してやりたい。
だが、この状況では自分の意識を全て奪われかねない。
アビスの力が自分の体内で本格化する前に、完全に制御してしまわねばならない。
(一旦……引き上げる!)
ルージュの体が、その場から消えた。
空で邪龍と戦っていたブルーは、ルージュの気配がこの場から消え去ったことを悟った。
「いなくなったか」
それを確認したのか、邪龍は戦闘をやめ、北の空へと向かって去っていく。
『追撃はしなくてもいいのか?』
朱雀が問い掛ける。ブルーは頷いた。
「ああ。例え追いかけても、僕の力だけでは倒せないだろう」
『賢明な判断だ』
戦いには目的というものがある。相手を殲滅する戦いもあれば、負けないための戦いもある。
勝つことができないのなら、相手を疲労させて引き上げさせることも、また戦い方なのだ。
「すまないな、朱雀。滅多なことでは協力をあおがないと契約したのに」
『汝の目的のためにはやむをえないことだ。気にはしていない』
「ありがとう」
『かまわぬ。また用があれば呼ぶがよい。それより、気にならぬか』
ブルーは顔をしかめた。
「何がだ?」
『ガーデンの降下速度がわずかながらに増した。着水まで、もう時間がない』
「……」
確かに、言われてみると間違いない。
それまで最後の浮力を保ちつづけていたガーデンだったが、それすら完全に失われて今や海面ぎりぎりまで落ちてきている。
「もってあと二、三分といったところか」
ブルーはその秀麗な顔に苦悩の色を見せた。
102.惨劇の続き
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