救いというもの。
自分には与えられないもの。
自分が決して求めようとはしないもの。
いつの日か与えられると希望を持つもの。
PLUS.105
救済の日
without partner
医務室にやってきたカインを出迎えたのは、主治医カドワキとリディアの二人だった。
ベッドに横たわるのは右腕をなくした少女。
過去最大の激戦に、命が永らえただけでもよしとするべきだろうか。
(……何を甘えたことを考えている)
自分さえもっとしっかりしていれば。
自分の力が戻ってきていれば、彼女をこんな目に合わせずにすんだのだ。
全て罪は自分にある。
未来永劫、自分は罰せられることこそ相応しい。
「カイン」
目の前にリディアがやってきて、彼の両頬を優しく彼女の小さな手で覆う。
「泣かないで」
「泣く……?」
「泣いているように見えるよ。ティナさんは大丈夫。生きているんだから。それにこれは戦争なんだから。決してカインのせいなんかじゃない」
この少女は、どうしてこうも自分の思考を先読みできるのだろう。
「分かっている」
「分かってないよ。カインの考えていることなんて全てお見通しなんだから。ティナさんの前では強がるべきかもしれないけど、私の前では強がらなくてもいいから。これでも少しはカインのこと、分かってるつもりだよ」
「そうだな」
カインは微笑み、ティナの隣に腰を下ろす。
右腕は、綺麗になくなっていた。
「処置は?」
「増血剤を投与してある。それで十分だよ」
カドワキが答えた。カインは顔をしかめる。
「怪我の処置は?」
「必要ない」
必要ない? 何故?
「この子がここにかつぎこまれた時には、もう治っていたんだよ」
「……治って?」
「カイン」
リディアが彼の疑問に答えるように後ろから口ぞえする。
「多分誰かが、強力な回復魔法をかけたんだと思う。私も気になってたの。ティナが運ばれていくのを見たとき、彼女の腕からは全く失血がなかったから」
さっき言おうとしていたのはそれか、とカインは頷く。
「だが、だとしたら誰が?」
「そればかりは……カインに心当たりは?」
「ない。ずっと一緒だったからな。だとすれば、ティナが自分で回復魔法をかけたのかもしれないな」
それとも、半獣の血のなせる術か。
「とにかく命に別状はないよ。ただ……」
なくした腕は戻らない。
それはどのような回復魔法であろうと不可能なことだ。
「正直、ショックだと思う」
「ああ」
「もう少ししたら意識も戻ると思うから」
「そうか」
とりあえず一息つく。
「カインも、疲れているでしょう?」
確かに全力で戦い続けてきたから、さすがに体力も限界に来ている。
「リディアは……」
「私は大丈夫。スコールが守ってくれたから」
「そのスコールのところには行かなくてもいいのか?」
さきほどのゼルの件を示唆して言ったものだが、リディアは首を振った。
「スコールは大丈夫。今は泣いてると思うけど、泣いてるところはたとえ私でも見せたくないと思う人だから。もう少ししたら慰めに行く」
本当に、他人のことがよく見えている。
「だからカインは今は横になって。ちょうどベッドが空いてるから、そこを使って」
「おいおい、あたしの許可なく勝手に割り振らないでもらえるかい」
カドワキがあきれたように言う。というか、本来ならカドワキもここでは部外者のはずだ。
「だが、あんたに休息が必要だっていうのは同意見だね。今のあんたじゃ悪いけど、何の役にも立たない。肉体労働も頭脳労働も」
「はっきりと言ってくれる」
「これでも医者だからね。というわけで、ほら」
カドワキは湯気の立つカップをカインに手渡す。
「これは?」
「精神安定剤。ぐっすりと眠れるよ」
やれやれ、とカインは苦笑する。そして一気に飲み干した。
「三時間したら起こしてくれ」
「分かった」
そうしてカインはベッドに横になった。
彼が眠りについたのは、それから五秒もたたないうちのことであった。
「寝つきがいいね」
カドワキが言うと、リディアは苦笑した。
「……でも、カインはあまり人前では眠らないんです。昔、一緒に行動していたときも、必ず他の全員が寝静まるのを待ってから眠り、誰よりも早く起きてました」
「へえ」
「寝ている間にやってくる悪夢を、誰にも知られたくなかったからだと思います」
リディアは彼の寝顔を見つめる。
うっすらと汗をかきはじめている。呼吸もかすかに荒い。
「カイン……」
その苦しみを取り除くことは自分にはできなかった。
だが、他の誰かならそれが可能なのだろうか。
ローザではない、別の誰かなら。
「目が覚めたかい」
カドワキの声でリディアははっと振り返る。
ティナが、目を覚ましていた。
「ティナさん。大丈夫ですか」
「……私、いったい」
ゆっくりと体を起こす。なんだか、頭が重い。
「ああ、よかった。ほれ、まずはあったかいものでもお飲み」
カドワキが同じようにカップを手渡そうとする。
ティナはそれを受け取ろうとして手を伸ばした。
だが、その手が一向に出てこない。
(あれ……)
右腕が軽い。何も感じない。
(そうか……)
思い出した。
自分にはもう、右腕がないのだということを。
(あの戦いで……)
だが、後悔はしていない。
マラコーダは強かった。片腕ですんだのなら僥倖といわなければならないだろう。
そして何より大切な人の命を守ることができた。
それで自分には充分だ。
「いただきます」
ティナは左手でカップを受け取り、ゆっくりと飲む。
「分かってるとは思うけどさ」
「はい。自分で選択したことですから、お気遣いなさらないでください。カインを守ることができて、私は誇らしいんです」
そう言って彼女は笑った。一分の曇りもないすがすがしい笑みであった。
「じゃあ聞きたいことがあるんだけどさ」
「はい」
「その怪我、どうやって治したんだい? 私のほかに誰か医者に見てもらったのかい、それとも自分で治したのかい?」
「怪我……」
ティナがなくした自分の右腕を見る。
「先生が治してくださったのではないですか?」
「悪いけどあたしはノータッチだ。何もしてないよ。ここに来たときにはもう治っていたんだ」
「ここは──トラビアガーデンですね」
「ああ。分かっているのかい?」
「はい。最後に連絡が入ったのは、おぼろげですが覚えています」
ティナは自分の記憶を大急ぎでまとめる。確かにそれは記憶に残っている。
だが、自分の腕を治した相手など分からない。
(……誰かがやってきて、治してくれたの?)
だとしたらいったい誰が。
(……分からない。でも)
治ったのなら、問題はないのかもしれない。少なくとも傷口はふさがり、増血剤も投与され、なんとか動き回れるほどに回復している。
それに、
(まだ左手がある)
カップを持つ手に力が入る。
(まだカインさんを守れる)
そして横を見た。
呼吸が徐々に荒くなってきている。
夢の中でも、救いを求めることもせず、その罰をただ受けている。
「これ……」
「ん、ああ」
カドワキにカップを返すと、ティナはゆっくりとベッドから降りて、隣のベッドに腰掛けた。
「カインさん」
左手で、彼の頬に触れる。
「……大丈夫です。私が守ります。私が傍にいます」
リディアはそれを見て、音を立てないようにして医務室から出た。
(カインはもう、大丈夫だよね)
少なくともティナのために、生きることを放棄したりはしないだろう。
カインは少しずつ、ティナに心を開きはじめている。
それでいいと思う。
人には、必ず自分のパートナーになる他人が必要なのだ。
私のように。
カインのように。
(スコール、大丈夫かな)
リディアは姿の見えなくなった自分のパートナーを探しに、トラビアガーデン内の探索に出かけた。
そして同時に覚悟を決めた。
今のスコールを救うにはどうすればいいのか、それは分かりきっていることだった。
自分の本心を相手に伝える。そして、二人で同じ未来を見つめる。
カインのときには失敗した。
ここで、二度と間違えるわけにはいかない。
自分の大切なパートナーを、愛しい人を。
(失うわけにはいかない)
緊張する。
だが、逃げるわけにはいかない。
もう二度と自分は逃げない。そう、誓ったのだから。
三時間後。
彼は少しずつ意識を取り戻していた。
いつも見ていた悪夢はどうしたのだろう。
まるでとは言わなかったが、あまり息苦しさを感じなかった。
自分をそそのかす声。
過去の幻影。
罪。
罰。
そうしたものに捕らえられ、捕らわれて、まるで身動きができず、ただあの惨劇を繰り返す。
そんな夢。
セシルを裏切る夢。
ローザを捕らえる夢。
リディアの母を殺す夢。
すべてのものを裏切る夢。
自分は、救いようのない罪をおかした。
それを許してもらおうなどとは思わない。
だから、今の状態は正しく自分に課せられた罰なのだ。
力もなく。
頼れるものもない。
孤独で、ただ膝を抱えてうずくまるだけの存在。
ちっぽけで、あわれで、みじめで。
そんなものに成り下がったのだ。
風さえあれば、そんな孤独は感じなかった。
だがそれさえも奪われたとき、もう自分には何も残っていなかった。
全てを裏切った男は、全てを奪われた。
今も、自分を責める声が聞こえてくるような気がする。
何故、傷つけるのか。
何故、裏切るのか。
何故、苦しめるのか。
何故、奪い去るのか。
何故、殺すのか。
そう。自分は人殺しの裏切り者。人に思われる資格のない男。
そんな資格はない。
それなのに……。
(カインのせいじゃない)
自分が傷つけた相手は、そう言って笑った。
(私の前では強がらなくてもいいから)
どうしてそんなことが言えるのだろう。母親を殺し、彼女の望みすらかなえてやることができなかった俺を、そこまで許すことができるのか。
彼女の気持ちはありがたい。
だが、その気持ちがいっそう俺を傷つける……。
(大丈夫です)
そんなとき、声が聞こえてきた。
(私が守ります)
優しい声。
その声に抱かれるだけで心が洗い流されていくようで。
(私が傍にいます)
自分の力のなさが彼女を傷つけることになったというのに、まだ彼女はそんなことを言ってくれる。
それが自分には苦しい。
苦しいはずなのに……。
(何故だ?)
自分に問いかける。
(彼女の言葉を、どうしてこうも素直に聞くことができるのだ?)
自分は許されざる存在。
誰に許されても、自分がそれを受け入れない限り、永劫に罰は続く。
だが。
(俺は……彼女を)
分からない。
分からない。
どうしてこんなにも心が乱れるのか。
苦痛の中に差し込む、安らぎの光。
『さあ、起きる時間です』
そうだ。
起きよう。
彼女に会うために。
彼女を守るために。
彼女の傍にいるために。
全てをなくした俺が、唯一手に入れた存在。
それが、彼女なのだから……。
「ああ……おはよう、ティナ」
カインは目の前の女性に微笑みかけ、そして、優しく──抱きしめた。
106.束縛の血
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