……三時間、百八十分という時間は、寝ている者にとっては一瞬だったかもしれないが、起きて活動している者にとってはあまりに長い時間であった。
 この三時間には、いくつもの出来事が複雑に絡みあい、何がどうなっていたのか後で整理してみるまで当事者たちですら状況が把握できていなかった。












PLUS.106

束縛の血







purple blood






(人間に戻ってどうするというの……)
 ふと、声が聞こえたような気がして彼女──アセルスは足を止めた。
 あたりを見回すが誰もいない。だが、幻聴と割り切るにはあまりにもその声は現実的だった。
 トラビアガーデンに移乗して、彼女が最初にしなければいけなかったこと。それは、ブルーを待つことだった。
 ルージュとの戦いの結果はどうなったのか。勝ったのか。負けたのか。少なくとも邪龍はこの場を去った。ということは少なくとも追い払ってはいるはずだ。
 それなのにブルーが帰ってこない。
 彼女はトラビアガーデン内を、意味もなく歩き回っていた。
(なんか、前にも同じことを言われたね)
 前の戦いの時だ。自分を半妖にした張本人が言ってきた言葉だ。
 ──人間に戻って、何をするつもりだ?
 人間に戻ることだけが目的で、そこから先のことは考えていなかった。
 一瞬動きの止まった自分を身を挺してかばったのがブルーだ。
 彼は自分の仲間は大切にする人だ。たとえ自分が嫌っていようとも。
(どうして、助けた?)
 彼は、こう答えた。
(ルージュとの決戦の時に、邪魔をしないでくれた。そのお礼だ)
 彼は優しさを見せようとしない。優しさを見せることができない。その能力がない。何故なら、彼は自分が優しい人間ではないと頑なに信じ込んでしまっているからだ。
(ブルーが優しい、か。誰が聞いても卒倒するね)
 でも、自分だけは知っている。
 彼が常に仲間に気を配っていることを。仲間が苦しんでいるときは、そっとその手助けをするのだということを。
 自分も最初は分からなかった。高慢な男だと第一印象からして好きになれなかった。幼馴染のスーパーヒーローの方がはるかに頼りがいも魅力もあった。
 ブルーとの出会いは、自分が本気で人間に戻ろうと考えた矢先のことだった。
 相棒にゾズマ一人をつけ、伝説の聖獣朱雀を自分の剣に封じ込めようと考えた。
 だがブルーは自分より早く朱雀に出会っていた。当時、彼の仲間にいたのは旅のくされ縁といっていたリュート一人だった。
 ブルーが連れていた朱雀を奪おうとしたが、彼はそれを理をもって押しとどめた。
 朱雀は自分の大切な相棒であり、もし実力で朱雀を封じるというのであれば受けてたつとまで言った。
 その上で朱雀と協議し、最終的に三体までの力ある者を封じることができたなら、最後の一体になることを取り付けてもくれた。
 それから、旅が始まった。
 ゾズマは途中でいなくなったが、それ以外にたくさんの仲間ができた。エミリア、ヒューズ、クーン、レッド、T260、その他多くの仲間たちと共に旅をした。
 ブルーは自然とリーダーとして、全員の行動を決定する立場となっていった。
 自分やヒューズがそれを補佐して、全員の目的を達成しようと計画を練った。
 ブルーの最初の目的が達成されたのは、旅の半ばのことだ。
 ルージュとの一騎打ち。それが行われる直前、それを認めることができない仲間たちと激論になった。
『僕はマジックキングダムで育った。その教えに背くことはできない。僕は弟を殺す。理由なんかない。ただ、僕にとってはそれが必要なことで、誰にも申し開きをしなければならないようなことでもないと思っている』
 自分は、それでいいと思った。
 弟の存在を許せないのなら、自分一人で決着をつけたいと思っているのなら、そうすればいい。ブルーは誰にもその理由を認めてもらおうなどとは思っていない。
 だから、見届けようと思った。
 それなのに、エミリアが言ったのだ。
『あなたはそれを、運命だとでも言って逃げるつもり? 弟を殺すという大罪、いいえ違うわ、あなたは弟を殺すということを本気で考えていない。キングダムの命令だから、運命だから、そんな言葉でごまかして、自分でその意味を考えようともしない。それで本当にあなたは幸せになれるの? 私にはそうは思えない。弟を殺して得られる幸せなんて、間違ってる!』
 絶対に行かせない。エミリアは体を張ってブルーを止めようとした。
『そんなの、ブルーの勝手だろっ!』
 自然と、口にしていた。
『行きな、ブルー』
 アセルスはブルーと全員の間に割って入り、ブルーを急かした。
『だが』
『ああもう! お前はルージュと戦うためにここに来たんだろうが! だったらそれをしっかり果たして戻って来い! 死んだら許さないからな!』
 そしてブルーはルージュを倒し、全ての魔力を手にして帰ってきた。
 そのかわりに失ったものもあった。仲間たちだ。
 ほとんどの仲間たちは既に自分の目的を達していた。まだ達していなかったのはそれこそブルーとアセルスくらいだった。
 エミリアは『弟を平気で殺すような人と旅はできない』と言って去った。
 クーンも、T260も言葉にはしなかったが、同じ気持ちを抱いたようだった。
 リュートは『なんか気がぬけちまったな』と言ってぶらりとどこかへ消えた。
 ヒューズは新たな任務が入ってきたとのことでいなくなってしまった。
 幼馴染のレッドは、自分がブルーをかばったことで気を悪くしたのか、故郷へ戻っていった。
 ……全員口にはしなかったが、自分はこのあとオルロワージュと戦わなければならなかったから、命を惜しんだのかもしれない。
 それは仕方のないことだ。
 それぞれ自分の旅の目的を果たし、それに協力してくれた相手に借りを返すためだけに彼らは『同行してくれていた』のだ。
 無論、その借りを返す相手には自分も含まれている。
 だが、ブルーに味方し、実力でエミリアたちを止めようとしたアセルスのためにこれ以上命をかけて戦う気にはなれなかったというのが本音だろう。
 人間でもない半妖。
 クーンみたいに人好きのする性格でもなければ、T260のように使命感にあふれるタイプでもない。
 人間でない自分、強大すぎる敵。そして、決裂した友情。
 ……自分が見捨てられるには、十分すぎる状況だった。
『おめでとう、ブルー。これで目的を果たせたね』
 一人になってしまったパーティ。帰ってきたブルーに一人微笑んだ。
『……みんなは?』
『帰ったよ。だってもう、全員の目的果たしたじゃん。これにて、めでたく解決ってね』
『まだ君が残っている』
『ああ、私から断ったよ。やっぱさっきのは気まずかったからさ。あとは私一人の問題だからみんなはもう帰ってくれって。ブルーによろしくっていうのは私から伝えておくからって』
 涙がこぼれないようにするので精一杯だった。
 仲間に見捨てられた。
 自分がまいた種とはいえ、みんなのために協力してきて、最後で自分の番になって誰もいなくなってしまった。
 いったい自分は何のために今までがんばってきたのだろう。
 悔しかった。
 涙が出そうになった。
 だから。
『それじゃ、これでお別れだね』
 自分から切り出した。
『お別れ? 何故?』
『だって、もうパーティは解散したからさ。一緒にいる意味はないだろ』
『朱雀の力は必要ないのか?』
 予想外の返答だった。
 そうだ、確かに自分は朱雀の力を手に入れるために一緒に旅をしていたのだ。
『それに僕は、君に借りがある』
『借り?』
『さっき、僕が戦うことを君だけが理解してくれた』
 ブルーは微笑んでいた。
『嬉しかった。罪深いことなど最初からわかっていたんだ。でも、どうしようもなかった。双子の弟がいるという違和感は消しようがなかった。誰にも理解されないのは分かっていた。でも、君だけは理解してくれた』
『だから、ブルーの勝手だって、それは……』
『ありがとう』
 自分は、もう言葉がなかった。
『嬉しかった。僕のことを理解してくれる人がいるなんてことがあるとは思ったこともなかった。この恩を返さずに、僕は生きていくことはできない』
『そんな、おおげさな……』
『オルロワージュは強い。僕なんかでもいるだけで、一人で戦うよりはずっとマシだ』
『ブルー……』
『だから、僕を連れていってくれ。僕だけは君の傍にずっといるから』
 もう、何も言えなかった。
 孤独感はどこにも消えてなくなり、目の前の美形魔術師の思いもかけない優しさに心を打たれた。
『ブルー』
『なんだい』
『今から起こることは、忘れろ。いいな』
『分かった』
 そう答えると、ブルーは自分の肩を抱き寄せた。
 そして、私はその胸で泣いた。
 彼は、自分の優しさから『一緒に行く』などとは絶対に言わないだろう。それは自分が優しい人間ではないと信じ込んでいるからだ。
 だから理由を必要とした。それが朱雀だ。彼は朱雀という大義名分をもって自分の優しさを隠した。
 でも、傷ついた自分の心にはその優しさはきちんと伝わった。
 相手をいたわり、いつくしむその心に、自分は……そう、惹かれたのだ。
(人間に戻ってどうしたいかって?)
 そんなものは決まっている。
 あの日のブルーの優しさに触れたときから、自分はずっとそれだけを願っていたのだから。
(ブルーに……告白する)
 それは、ずっと秘めていた恋心。
 半妖という立場が誰にもその気持ちを明かすことを許さなかったが、もし人間に戻れたなら、自分はブルーに並んで立つことも許されるだろう。
 自分の気持ちを伝える。ただそのためだけに、自分は人間に戻りたいのだ。
「アセルス!」
 と、その時。聞きなれた声が耳に届いた。
「ブルー! 無事だったか、よかった」
 喜びを表現する。だが必要以上に顔に出ないのは半妖ゆえの特性か。だとしたら相手に気づかれることもなくなるので、逆に感謝しなければならない。
「ああ、探していたんだ。よかった、会えて」
「探して? 何かあったのか?」
「いや、特別は。ただ、アセルスの声が無性に聞きたくて」
 聞きなれない台詞を聞いた。
 一瞬紅潮しかかるが、それを理性で押しとどめる。
「意外に甘えん坊だったんだな」
「いじめないでくれ、アセルス」
「これからブルーちゃんと呼んでやろう」
「アセルス〜」
 不思議だ。
 こんな会話が今までの自分たちにあっただろうか。
 会話のほとんどが自分たちの旅の目的のためだったから、逆にこうした会話が非常に新鮮だ。
「で、倒せたのか?」
 いいや、とブルーは答えた。
「今回は逃げられた。それも……」
 ルージュは戦わずして去った。それはいったい何のためなのか、ブルーには予想がつかない。
 ただ、力を今以上にあげるためだとルージュは言った。
 お互いに戦う宿命であることは分かっている。それなのに戦うこともなく退いたのは、あるいは何か目的があってガーデンを沈めに来たということなのか。
 おそらくそうなのだろう。
 何が目的だったのかは、ついに分からなかったが。
「でも、これでまた当分決着は持ち越しってわけか」
「ああ」
「お互い早く、身軽な体になりたいもんだな」
「全くだ」
 ブルーがうなずく。ふふ、と笑ってアセルスは壁によりかかった。ブルーも同じように隣に並ぶ。
「なあ、ブルー」
「なんだい」
「アタシは、あんたの力になりたいと思うよ。正直にね。何がなんでもルージュには勝ってもらいたいと思っている」
「どうしたんだい、急に」
「アタシの素直な気持ちさ。少なくともアタシはあんたを単なる同盟者だとは思ってない。長く旅してきたしね。パートナーとして愛着だってある。お互いの目的を達するまで、お互いに死ぬわけにはいかない。あんたがルージュを倒すまで、アタシが人間に戻るまで。そのときまで、アタシはあんたを全力で守るよ」
「そのときまでか……いつになるんだろうな」
「さあね。でも、早くこの戦いは終わらせたいね」
「そうだな」
 会話が途切れた。
(……気取られてはいけない)
 アセルスは必死に理性を保とうとする。
(アタシは半妖。彼の隣に並んで立てる資格なんてないのだから)
 人間に戻りたい。戻って、彼と共に歩んでいける資格を持ちたい。
 そのときは、いったいいつになったら来るのだろう。
「なあ、アセルス」
 ふと、ブルーが尋ねた。
「ん、なんだい」
「アセルスは……その、人間に戻ったら、何をするつもりなんだい?」
 アセルスの表情が変化した。
「ご、ごめんアセルス! 今のはなんでも──」
「あんたには関係のないことだよ、ブルー」
 冷めた口調でアセルスは突き放した。
「どれだけ心を許していても、踏み込んではいけない領域があるって……分かってなかったのか」
「いや、本当にすまない、アセ──」
 パン!
 アセルスは容赦なくその頬を張った。
 自分で、泣き出さなかったのが不思議なくらいだった。
(あんたにだけは、その質問をされたくないんだ)
 アセルスは踵を返して歩みさる。
(だって、甘えてしまいたくなるじゃないか!)
 だから、冷たく突き放すしかない。
(ブルーの……馬鹿野郎!)
 自然と、アセルスは走り出していた。






107.混乱の庭

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