……三時間、百八十分という時間は、活動している者にとってはあまりに長い時間であったかもしれないが、寝ている者にとっては一瞬であった。
そうしていよいよ、物語は次の展開へと動き出していくことになる。
PLUS.112
終幕の時
sin against the Holy Ghost
(──え?)
突然抱きしめられたティナは、いったい何が起こったのか分からずにただただ頭の中は疑問符を並べるばかり、顔は真っ赤に染まり湯気が出そうなほどだ。
最愛の男性に、抱きしめられている。
その認識は彼女をひどく混乱させた。
彼は、待っていてほしいとすら言わなかった。
それなのに、これはいったい自分に何を求めているのだろう。
分からない。
分からない。
これほどの熱い感情。
「カインさん」
彼女は左腕をそっと彼の背に回した。
こんなことはもう二度とないかもしれない。
彼のぬくもり。鼓動。息づかい。
そうしたものがリアルに感じられる。
「ティナ」
一方で、抱きしめてしまった方のカインもまた、自分が何故こういう行動をとったのか分からずに混乱していた。とはいうものの、動揺を見せるようなことはない。いや、動揺はしていなかった。
偽らざる自分の気持ち。
(そうか……)
彼女を抱きしめる腕に力をこめる。
(俺はこの少女を)
信じられないことだった。
そう、何があったのかは分からない。自分の中に占めるローザの割合は今でも一番に高い。だが、その占有率は落ちてきていると考えなければならない。
彼女の存在が、ローザに変わって高まってきている。
自分にとって、彼女が必要になりつつある。
(風……そうだ、風だ)
誰かを急に意識するようになったのは、風を失ってからのことだ。
自分には誰もいなくても風だけは常に傍にいた。だから他に何もいらなかった。
セシルを模倣してリーダーらしく振舞ったのも、風をなくした自分が何かしらの絆を手に入れたかったから。
(代わり、にすぎないのか?)
彼女の熱が、鼓動が肌を通して伝わる。
(分からない)
まだこの気持ちに決着をつけるのは早い。
だが、他の誰よりも一番大切だという意味では、この少女がまさにそうだ。
「無事で良かった」
彼は左手でそっと彼女の肩口に手をあてる。
「痛むか?」
「ううん。傷口はもうふさがってますし、痛みはないんです」
「そうか、すまない」
自分が戦うことさえできていれば。そう思ったカインに、ティナは首を振って応える。
「謝らないでください。私は私の思ったように行動しただけです。私はあなたのためなら、命だってかけられますから」
強い笑顔だった。
「私は自分を誇りに思います。愛しい人を助けられる喜びを感じています。そして、カインはこうして私を抱きしめてくれている。こんなに嬉しいことはありません」
「ティナ……」
「私は謝られるより、感謝される方が好きなんです」
そう言って彼の瞳をじっと見つめる。
彼もまた真剣な瞳で答えた。
待っているのだ、彼女は。
「ありがとう」
感謝の言葉。
こんなに素直に、この言葉を伝えたことがあっただろうか。
常に自分に業を背負わせ、自分の罪を感じながら生きてきた。
誰かの助けが嬉しいだなどと感じたことはなかった。
ただひたすら、自分を痛めつけて、自分に罰を課して。
「カインさんが無事でよかった」
そして、ティナが微笑む。
目の前の女性は、ただ自分の安全だけを考えてくれている。
命がけで。
それほどの愛情は、自分は一度しか見たことがない。
セシルに対する、ローザの愛情だ。
(俺は……)
不意に、カインの心の奥底から押さえきれないほどの熱情が溢れる。
(それほどに愛されているというのか)
命がけの愛情。
そんなものを得られるほど自分は無垢ではない。
欲しいとは思っていたが、同時に永久に得られないものだとも思っていた。
なぜなら、ローザの気持ちは自分に向けられることは絶対にないのだから。
だが。
(この感情は不快ではない)
目の前の女性はローザではない。
だが、この女性を愛することに、自分は異論はない。
ただ愛することだけを求め、与えている少女。
そう。
もう隠すことはできない。
自分はこの少女を、守りたいのだ。
「ティナ」
自然と、彼は行動に出ていた。
ゆっくりと顔が近づく。
ティナは顔を真っ赤に染め上げていたが、その雰囲気に逆らうことなく、目を閉じた。
その唇に、カインは自分の唇を重ねる。
触れ合う唇のぬくもりが、二人に愛情を伝えた。
(愛おしい)
それはカインが初めて得る感情。
奪うでもなく、一方的なものでもなく。
お互いに、気持ちが通じ合ったときの幸せ。
(こんな……)
こんな幸せを、自分が手に入れていいのだろうか。
友を裏切り、多くの人を自分のために死なせてしまった。
その自分が。
『いつか、幸せになれるから』
俺はお前がいなければ幸せになどなれないと思っていたのに。
これが幸せなのか?
俺が幸せになれるのか?
なることが許されるのか?
駄目だ。
許されるはずがない。
許されるはずがない。
カインは、ゆっくりと唇を離す。
熱に浮かされたように、潤んだ瞳を向けられたが、既にカインの心の中は冷え切っていた。
この瞳を向けられる資格を自分は持っていない。
それに相応しい何物も自分にはない。
「すまない」
カインは立ち上がると、医務室を逃げるように出た。
後には、突然の行動に戸惑うティナだけが残された。
(え……)
突然のことが立て続けに起こり、ティナもまた混乱していた。
何故、キスされたのだろう。
何故、謝られたのだろう。
彼の気持ちが、分からない。
「どうして」
ティナは哀しげに目を細めた。
「どうして、謝ったりするんですか……」
だが、その言葉を受け取る相手はもう、この部屋にはいなかった。
カインはしばらく行ったところで、大きく深呼吸をした。
自分はいったい、何をしでかしてしまったのか。
いくら相手が自分のことを好きでいてくれるからといって、自分にそれを受け取る資格がないことは最初からわかっていたはずなのに。
幸せになれる、だと?
なれるはずがない! そんな資格は、自分にはない!
自分が少しでも許しを請おうとしたことが腹立たしい。
自分に許しなどない。
それだけの大罪を犯してしまっているのだから。
心の中が、ようやく静まってくる。もう一度かれは大きく息を吸い込んだ。
それから改めて、自分が今いる場所を確認する。
トラビアガーデン。
ラグナの機転(というよりは運)でなんとかバラムの人間はこちらへ移動してくることができた。当初の予定ならば、ガーデンはこれから地獄に一番近い島を目指すことになる。
とはいえ、今回の戦いでは犠牲者も出ている。しばらく休息が必要になるだろう。
結局、F・Hへ向かうのが理想的ということになりそうだ。そこで物資の調達を行い、自分たちはラグナロクで天国に一番近い島を目指す。それが一番だろう。
移動期間は概算で七日。
何もなければしばらく平穏な時間が流れるだろう。F・Hからセントラへやってきたときのように。
(何もなければ、か)
問題は山積みだ。
バラムとトラビア間で軋轢が起こらないとも限らない。現実、以前トラビアの青年同盟が反乱を起こしたことだってあったのだから。さらには乏しい食糧・物資しかなかったはずのトラビアガーデンにバラム勢が全員乗り込んだのだ。いくら七日間の道のりとはいえ、少し切り詰めていくことが必要になる。
F・Hにさえついてしまえば、あそこは食糧・物資の宝庫だ。その問題は解消される。
もっともラグナロクで一足先に物資・食糧を買い込んでくるという手はある。ガーデンには金だけはあるのだから。
(とにかく、今後のことを検討することが先だな)
話し合いは誰と行うべきか。
ラグナ、スコール、ブルー。今後のことを考えるなら、このあたりが妥当か。
そうと決まれば、まずはブリッジへ向かうべきだろうと判断し、カインは足を向けた。
途中、あわただしくガーデン生たちが動き回っているのを見かけた。活気があるというよりは、混乱しているというような状況だ。無理もない、バラム生がこちらに移ってきてからまだ三、四時間しかたっていないのだ。混乱がない方がおかしい。
部屋割りといっても全員に個室があたるほどガーデンが広いわけでもない。しかもいくらガーデンの浮遊装置が生き残っているとはいえ、建物自体はほとんどが崩壊してしまっているのだ。一部屋に三、四人どころか、七、八人が同居するような形になったとしても仕方がない。
「あ、カイン発見!」
と、その時明るい声が聞こえてきた。聞き覚えのあるこの声は、アセルス。
「無事だったか。よかった」
「アタシを誰だと思ってるのさ。あんな魔獣相手に遅れを取るとでも思った?」
「いいや。相手が誰であれ、お前は負けないだろう」
「ふうん?」
「信頼できる相手がいる。それは大きな活力を与えてくれる。お前にとって、ブルーはまさにそういう相手だろう」
すると、途端にアセルスの表情が険しくなった。
「ブルーのことなんか、どうだっていいだろ!」
意外な言動に、カインが少したじろぐ。
「喧嘩でもしたのか?」
「そんなんじゃない」
そっぽを向いて、まるで答えようとしない。
(やれやれ)
こういう場合、セシルならどうするだろうか。
(結局俺は、セシルの行動がベースになるのだな)
だが、リーダーとしての資質がない以上、誰かを模倣することはやむをえない。
セシルなら、どうする。
「余計な世話を焼いてもいいか」
「全然よくない」
にべもない。だが、カインはひるまなかった。
「それでもだ。お前たちに何があったのかは俺にはわからない。だが、お前がそれだけ怒っているということは、相手のことを大切に思っているからだろう。その裏返しにすぎない」
唇を尖らせるアセルスの姿に、思わずカインは苦笑するところであった。
「時には、素直になることも必要なのではないか?」
しばらく悔しそうに唇をかみしめていたアセルスであったが、何かに気づいたようにクスリと笑った。
「その言葉、そ〜っくりアンタに返してやるよ」
「俺に?」
「だって、ティナにラブラブなんでしょ?」
ティナに?
思いもよらない言葉を浴びせられて、カインは正直に戸惑う。
「何故、そうなる?」
「見てれば分かるよ。会議の時なんかもね、なんとなく視線が一番向けられてるのがティナちゃんだったし。それに決定的な理由が一つ」
「?」
「ティナ、あんたの好みだろ?」
そんなことは今まで考えたこともない──いや。
(そうだな。確かに意識はしていた)
何度も、彼女の優しさが心地よくて。その優しさに甘えて、溺れて。
自分の罪を忘れそうになる。
ティナの許しは、赤子の許しだ。彼女自身が無垢で、善悪によって人を差別することをしない。
ローザに近い、のかもしれない。
「いずれにしても、次の戦いでお前たちは戦う場所が異なる。そのとき、後悔しないようにした方がいい」
ふふっ、とアセルスは笑った。
「アタシね、案外アンタのことを気に入ってるよ」
「それはどうも」
「アンタは自分でそうとは思ってないだろうけど、アンタは優しいよ。アンタは自分のどこが優しいのかなんて、絶対に気づかないだろうけどね。それがどこか、教えてほしい?」
カインは顔をしかめた。他の人にも言われた。優しい、と。だが、自分は優しくなどない。優しかった人間を真似しているにすぎない。
だが、アセルスは自分のどこが優しいのかということを知っているような口調だ。
「ああ。教えてくれると嬉しい」
だから素直に尋ねた。
だが、アセルスは小悪魔のように笑って答えた。
「教えてあげない」
くすくすと笑うアセルスに対して、憮然とするカイン。
「でもね、アンタは優しいよ。たとえ別の人が同じような行動を取ったとしても、優しさっていうのは勝手ににじみ出るものなんだ。それが相手に伝わるんだよ。だから、アンタは優しいんだ」
「理解ができないが」
「それこそ、ティナに聞いてみれば?」
からかうようなアセルスの口調。だが、今度ばかりはカインも苦笑して首を振った。
113.『完全な人間』
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