何故自分が彼女を守っているのかなど、考えたことはない。
 ただ、あの泣いている少女をどうにか救いたかっただけ。
 もう、彼女は充分に成長した。自分がいなくても一人で生きていける。
 自分は。
(……私は、どうしたいのだろうな)
 考えても答は見えなかった。












PLUS.140

カオスの正体







reds






 紅という男を一言で表すのならば、強い、であった。
 ティナとブルーの魔法攻撃をまるでものともせず、カインがふるう天竜の牙も軽々と回避する。もちろん当たれば致命傷を与えることができるのだろうが、どんな名刀であっても触れなければ切れないのは当たり前のことだ。
 これでまだ、両手のダガーを使ってもいないのだから、防御から攻撃に転じたときにどれほど苛烈なものとなるか。
「マスターには指一本触れさせません」
 紅は微笑むと、ついにその剣を構える。ある程度こちらの力は把握したということなのだろうか。
「いきますよ」
 右手の剣は水平に、左手の剣は垂直に構える。そして、動く。
(試練だな)
 この強敵は、マラコーダに匹敵する。強さだけならば全く同じだろう。早く、そして強い。雰囲気もどことなく似ている。
(──普通に戦えば、死ぬ)
 相手には殺気がない。それは一目瞭然だった。
 紅は、ただ目の前の作業をこなすだけ、そうとしか思えない様子だ。
(どっちから来る?)
 だが、その剣が目に入った時点でカインは既に負けていた。
 最初の攻撃は左右、どちらの剣でもない。紅の右足であった。
 鎧でガードしているというのに、カインの体が大きく蹴り飛ばされる。なんとかこらえようとしたところで、さらに紅の剣の攻撃が続いた。
「マジックチェーン!」
 だが、ブルーの魔法がそれを阻む。紅の動きを封じるかのように魔力の鎖が紅の両腕にからんでいく。
「フレア!」
 ほんの一瞬、動きが鈍くなった紅にティナの爆炎魔法が飛ぶ。その間に体勢を整えたカインは間をおいて紅の様子を確認した。
(やはり)
 その魔法を受けた紅は、それでも全くダメージを受けた様子がなかった。
 おそらく、高度な対魔法防御が彼自身に備わっているのだろう。それも、あらゆる属性魔法に対するものをだ。
「魔力の腕はなかなかです」
 紅は二本のダガーを構えた。
「ですが、私の相手はあなたがたではない。カイン、ただ一人。戦いの邪魔はされたくありません」
 そのダガーが飛ぶ。咄嗟にブルーとティナは逃げようとする。が──
「縛!」
 紅の呪法が発動する。そのダガーは弧を描いてブルーとティナの真上に位置すると、剣先を上にしたまま不動となる。
「くっ」
 その瞬間、二人は自分の体が動かなくなっていることを理解した。あの剣は自分たちを攻撃するためのものではなく、二人の動きを封じるための結界を作るための道具だったのだ。
「さあ、これで邪魔をするものはおりません」
 紅は両手に何も持たないまま、ゆっくりとカインに近づく。その圧力にカインは屈せず、剣を構えて向き合う。
「だが、得物がないだろう」
「得物なら、ここに」
 紅は素早く右手を縦に振ると、手品のようにその手に剣が生まれていた。先ほどのダガーよりも長い、刃渡り七十センチほどの小剣であった。
「では、いきます」
 言い終えた瞬間、紅はスピードを上げた。
 もちろんカインも決して油断などしていなかった。それでもなお懐にもぐりこんでくるスピードはカインの技量で捕らえられるものではなかった。
 気配すら感じさせない紅は、すぐ傍にいるというのに、そこにいるということを感じさせない。ただ『この場にいては命の危険がある』という勘だけを頼りにカインは下がった。その場所を小剣が鋭く通過していく。
 そのまま紅が剣の軌跡を変えて、カインの足を払ってくる。だが、その動きはカインには読めていた。トリッキーな動きをするこの剣士は、通常とは違う攻撃をしてくる。その勘が当たったのだ。
 天竜の牙で、しっかりと小剣を弾く──つもりが、あまりに鋭い打撃に剣が耐え切れず、紅の剣が折れる。
 体が泳いだ紅の体をカインが蹴りつける。意外にその体は軽く、あっけなく飛ばされる。
「なかなか、やりますね」
 だが、紅が立ち上がった時には既に別の剣がその手の中にあった。今度は長剣だ。一メートル以上はある。
(どれだけ武器を隠し持っているというのか)
 こちらから決定的なダメージなど与えられていない。相手はまだまだ余裕いっぱいという様子だ。このままでは追い詰められて、最終的には敗れる。
「あなたには、色々と聞きたいことがあったのです、カイン」
 紅は、今度は素早く切り込んでくるのではなく、ゆっくりと間合いを計るようにしてくる。カインもその微妙な位置取りを確認しながら相手との呼吸を合わせる。
「聞きたいこと?」
「ええ。あなたがどうして、私のマスターを倒そうとするのか、ということをです」
 マシンマスターを倒す。
 それは全ての世界を守るためでもあり、連れ去られた少女サラを助けるためでもあり、そして最終的にはカオスを倒すためでもある。
「世界の滅亡を防ぐ。それが俺の信じる道だ」
「その答はあなたにとっては正しい。ですが、私にとっては世界よりもマスターが大事なのです。これもまた、正しいのです」
 紅が目を細める。
「何が言いたい?」
「あなたの望みは、本当に世界の平和なのか、と」
 世界の平和。
 言われて、カインの心に動揺が走る。いや、動揺などしていなかったのかもしれない。それは最初から分かっていたことだったからだ。
 そう。自分は世界の平和など望んでいない。
「望みは、何ですか?」
 それは、最初から分かっていることだった。

 ──自分は、断罪されたいのだ。

「それなのに、あなたは逆行しようとしている。それであなたの望みは本当に叶うのですか?」
「俺にとって望みは望みであり、望みは望みではない。俺はこの道を行けば決して断罪されることはないだろう。だが、断罪されることがないことこそ、俺にとっては何よりも断罪なのだ。それは、決して許されることがないということだからな」
 罪を償う機会すら与えられない。それが自分への罰。
「そんなことよりも、あなたも考えたことはあるでしょう」
 紅は、さらにカインの急所をついてくる。
「あなた自身がカオスの手下となり、全ての世界を破壊する。そんな欲望にかられたりはしないのですか?」
 ない、ともいえないし、ある、ともいえない。
 それは、どちらも自分にとっては望みだ。
「あなたは明確ではない。存在自体が矛盾に満ち溢れている。全てを内包し、一つもその内にはない。あなたは、全てが歪んでいる。あなた自身の存在が歪んでいる。そう、あなたは誰よりも最もカオスに近い。そのことが分かっているのですか?」
「──そう、なんだろうな」
 カインは苦笑した。

『オマエ、ガ、スベテ、ヲ……』

 カオスの声が頭をよぎる。
 カオスが欲しがっているもの。それは自分だ。自分を取り込み、さらなる混沌を手に入れたがっている。
 お前が、全てを。
 ──全てを、何だというのだろう。

「行きますよ」
 その声で、カインは我に返る。
 鋭く長剣が振り下ろされる。だが、カインもそれを黙って受けるつもりはない。剣をあわせて受け流そうとする。
 だが、その剣の軌跡はカインの予想通りの動きはしなかった。振り下ろされる途中で角度を変え、カインの腕を裂く。
「これで──」
 紅の剣が胴を薙ぐ──が、カインは左手で咄嗟に鞘を手にして、その剣を防いだ。さすがにそれは予想外だったのか、紅の顔に驚愕が見える。
「くらえっ!」
 その紅に向かって天竜の牙を繰り出す。紅はやむなく剣をあわせるが、その甲斐なく剣は砕かれ、その肩に天竜の牙が刺さった。
 ぐっ、と呻いた紅は身を引いて間を取る。
「さすがに、竜に選ばれただけのことはありますね」
 紅は傷つきながらも笑っていた。
「ですが、あなたはまだ迷っている。自分がこのままでいいのか、進むべきか、退くべきか。どうすればいいか分からない袋小路に迷い込んだ子供。あなたはこれから先、道標の一つもなく、ただ彷徨い歩き続けるだけ。その不安を抱えている」
「紅」
「全てに身をゆだねて、その苦しみから解き放たれようとは思わないのですか」
 一昔前の自分なら、あるいはその誘惑を魅力的に感じたのだろうか。だが、今のカインにはそんな言葉はあまりに陳腐に聞こえた。
「残念だが」
「何故」
「俺の願いは、解き放たれることではないからだ」
 ただ、償うこと。
 それだけが、自分とセシルを、自分とローザをつなげている。
 たとえ合わせる顔がなかったとしても、自分にとって最も大切な存在であるあの二人との絆、それをなくすつもりは毛頭ない。
「紅、逆に一つ聞きたい」
「何でしょう」
「何故、お前はそんなにも俺のことに詳しいんだ?」
 紅が微笑む。
「世の中には、何と分からないことが多いのでしょうね」
「どういうことだ?」
「この黒の部屋で、あなたがたはどのような質問をされたか、それを思い出せばすむことです」
 ティナが、そしてカインが受けた質問。
 それは、自分の深層心理に関するものだ。
「さっきの罠は、お前が?」
「そうです。マスターが容易したのは青と赤の部屋まで。この部屋は完全に私のオリジナルです。私の得意とする、相手の心を読み取る術を使って。いえ、術といってはおかしいですね」
 さらに、紅が続けた。
「──私は生まれつき、目にした人の心も記憶も、全てが読み取れる“力”を持っていたのですから」
 紅という男が寂しそうな顔をする。
 いったい、この人物はどれほどの経験をしてきたというのか。特に自分のような相手を見て、いったい何を感じたというのか。
「なるほど、それで俺のことも詳しいというわけか」
「ええ。あなたは私の見る限り、過去に一人の例もないほど矛盾、混沌に満ち溢れています。もしもあなたがカオスに取り込まれるようなことがあれば、カオスは完全復活すら可能でしょう。そうすればこの世界を救う方法はありません」
 カオスが──完全復活する?
「待て、紅。まさか、カオスというのは──今まさに、復活しようとしているところだというのか? 既に力を兼ね備えた存在としているのではなく」
「そうです。本来のカオスのほんの一部、それがこの世界にいるカオスです。ですが、それはあくまでもカオスの力を実体化させたものにすぎません。カオスの本性はもっと別のものです」
「別の」
「そうです。混沌としている様子を表す言葉が『混沌』というのは、矛盾に満ちていると思いませんか。そう、言葉とは便利なもので、カオスは言葉が生み出す矛盾に常に満ちている。そう、カオスの最大の矛盾は『存在すること』そのものなのです」
 その言葉で。
 カインには、カオスの正体が見えた。
 確かに、それは。
 矛盾以外の、何者でもない。
「だ、だが、そんな……」
 明らかにカインは動揺していた。
 そんなものが、いや、そんなものと呼んでいいのか分からないが、それが完全に覚醒するのならば、確かに世界など消滅する、いや、消滅しないものは何もない。
 カオスの正体。それは、
「そこまでです」
 紅は既に新たな剣を手にしていた。
 幅の広い両手剣、長さは一メートルと八十ほどもあるだろうか。その両手に大剣が握られていた。
「いきます」
 カインは首を振って自分を現実に呼び戻す。
 考えるのは後でいい。
 今は、目の前の敵を倒すのが先だ。
(次が最後だ)
 おそらく、紅は渾身の力でくるだろう。だが、天竜の牙をあてることさえできれば、武器などいくらでも砕くことができる。問題は──
 紅が動いた。
 今まで以上の鋭さで剣を叩きつけてくる。
 カインは、覚悟を決めた。ここまできて傷つくことを恐れている場合ではない。
 剣を下から振り上げる。勢いよく振り下ろされる大剣に天竜の牙を合わせることで、その武器を破壊する。
 その瞬間、紅の右手に刃渡り十センチほどのナイフがあった。
 そのナイフが、正確にカインの首元を狙い──

「カイン!」

 ティナの悲鳴が響き、鮮血が刃を濡らした。






141.変わらないもの

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