何故、記憶がなくなるのか。
 それは、世界がその者を赦しつつあるから。
 赦しが得られているのに、本人はそれを認めようとしない。
 ならば、世界はどうするのか?

 簡単なことだ。
 その人間を、強制的に赦してしまうのだ。

 記憶をなくすことによって。
 過去に犯した罪を忘れることで。
 世界は彼を赦そうとしているのだ。












PLUS.156

色あせた記憶







When did I meet you?






「記憶が、ない?」
 カインはその言葉に根源的な恐怖を覚えた。
 明らかに動揺していた。それが自分でも分かる。
 記憶をなくすということは、過去の自分の全てを忘れるということだ。
 過去に犯してきた罪。リディアの母を殺し、世界を混乱に陥れ、そして自分の大切な仲間たちを傷つけた。
 セシル。
 ローザ。
 自分にとって何よりも大切な、あの二人のことまで、忘れてしまうということだ。
「ふざけるな」
 落ち着いた声のように、近くにいる者たちには聞こえた。
 だが、そんなことはない。
 意識していなくても、その事実が存在することを、どこかで納得している自分がいる。
 同時に、認められない自分がいる。
「ふざけてなどいるものか。当代の変革者よ。お前の精神は脆い。もはや全てが赦されているというのに、それを認められない。何故か。非常に簡単だ」
 ドクターの言葉は、あの黒き部屋でのローザとの問答より、はるかに凶悪で威圧的だった。
 それだけ自分に対して手加減をしていないということでもあるが、それ以上に。
 自分ですら意識しようとしなかった、自分の心のもっとも汚い部分を、あからさまにされるのが怖かったのだ。
「そう。お前は自分が赦されたくなどない、そう感じている。なぜならお前の罪は、友人と愛する者を傷つけた罪」
「やめろ」
「その罪が存在する以上、お前は」
「やめろっ!」
 カインが踏み出そうとするが、ドクターが右手をかざしただけで、彼の身動きが取れなくなる。
「何を──」
「言われて動揺するようでは、それが真実だとお前自身が認めているようなものだ」
「くっ」
 そう。もうカインには分かっていた。いや、気付かされた。
 自分がいかに、汚い人間であるか、ということが。
「そうだ。認め、懺悔せよ。お前は、罪を赦されたくなどない。何故なら赦されることというのは、お前が親友たちとの唯一の絆を失うことだと考えているからだ」
 リディアの表情が険しくなる。
「親友と愛する者が結婚し、もはやお前に居場所はなくなった。そのお前がすがりつくことができる唯一の居場所が『二人に罪を償うこと』なのだ。罪の償いが完了すれば、もはやお前は二人と関わる理由は何もない。お前は二人の傍にはいられない。距離の問題もそうだが、何よりお前の心が二人の近くにいられなくなる。お前の中で『罪』とはなくてはならぬもの。二人の傍にいるために必要なものなのだ」
 リディアは唐突に気付いていた。そう。カインは確かに言っていた。
 あの、生と死の狭間で。
 カインは、確かに言っていた。
『時がたつほどに、二人との距離は遠ざかる。どんなに前に進んでも、遠くなる』
 存在しない罪を追い求めて、でも存在しないがゆえに二人との距離が遠ざかる。
 罪の意識は強まっても、罪そのものが存在しない。
『死んだほうが楽なんだ』
 二人の傍にいられないのなら。
 だが、そんなものはカインの一人よがりだ。
 それがカイン本人にも分かっているだけに、もはや処置のしようがない。
 自分の殻の中で思考はループし、時が経つほどに二人に会うことができなくなっていく。
「カイン」
 リディアは涙を流していた。
 きっと、自分の言葉は届かない。
 あの精神世界でも届かなかったのだから。
 だが、それでも言わなければならなかった。
 仲間として。
 大切な、大切な仲間として。
「カイン……セシルも、ローザも、カインのこと、ずっと待ってる」
「ああ」
「自分を赦してあげて。罪なんかなくても、二人とも、カインに傍にいてほしいと思ってるんだから」
「そうだな。あの二人ならそう思っているだろう」
「カイン!」
「分かっているのだろう、お前も」
 カインはようやく、落ち着いたように笑った。
 それは、全てを受け入れたものの笑み。
 そして、赦しは得られても許しを得られないものの笑みだった。
「俺はあいつらのところへは帰れない。それが俺自身のケジメであり、俺が、俺自身に課した罰だ」
 もっとも大切なものを傷つけたが故に、もっとも大切なものと会えない罰。
「カイン」
 その手を、ティナがそっと握った。
「あなたが、それを望むなら」
 大きな手を小さな左手で持ち上げて、自分の頬にあてる。
「私も一緒に罰を受ける。そう、約束しました」
「そうだったな」
 カインはそのままティナを抱き寄せる。
「俺が記憶を失くしたとしても、一緒にいてくれるのか?」
「はい。たとえ私のことを忘れてしまっても、カインがカインである限り、私を拒むことはありませんから。それに、拒まれたとしても、私にはもうカインしか見えません。カインの傍にいることが私の喜びです」
「迷惑をかけてしまうな」
「かまいません。それに、カインのことは迷惑なんかじゃないですから」
 そうして優しい笑顔を、カインはティナに向けた。
 それを見て、リディアは純粋に思った。
 ティナが、すごいと。
 あれだけ頑なだった彼の心を、いったいどうやって溶かしたのだろう。
(かなわないな)
 元より、愛という感情が別の方向へ向いている自分には、カインの心など溶かすことは最初からできなかったのだろう。ティナのように、カインのことしか考えず、カインのことに命をかけるような女性でなければ、彼の心を溶かすことはできなかったのだ。
「現状に満足してもらっているところ悪いが──先に、王。お前はさっさと儀式の準備をしろ。ブルーが戻ってくる前に、全て準備を整える」
 尊大な言い様にヴァリナーも苦笑する。
「分かった。だが、彼らのことは」
「任せてもらえるかな。こう見えてもドクターなんでな」
「いいだろう」
 ヴァリナーが肩をすくめると、謁見の間から出ていく。そしてドクターは頭をかきながら言った。
「クリスタルを使うには、最後の赦しが必要だ。だが、その赦しを手に入れれば、お前はほとんどの記憶を失う──と、推測される」
「具体的には?」
「名前も、彼女のことも、それにお前の罪のことも、全てだ」
 さすがにそれをはっきりと告げられると、全員の表情がこわばる。
「それでカオスを倒せるのか?」
「おそらくお前の心には、カオスを倒すという感情しか残らんだろうよ」
 ドクターは何の感情もこもらない声であっさりと言う。なるほど、とカインは頷いた。
「死ぬわけでないのなら、それでもいいさ」
 カインは苦笑しながら答えた。
「随分と楽観視しているようだが、お前の記憶は既にかなりの量が失われている。記憶喪失の自覚がない奴はやっかいなものでな。その事実の重大さを全く分かろうとしない」
 そう言われるとさすがにカインも不安を感じずにはいられない。
 自分にとって大切な何かを忘れてしまうことほど、辛いことはない。
「カインが記憶を失っているというのは、本当なんですか」
 リディアが尋ねると「間違いないな」とドクターは答えた。
「確かめてみるといい。お前たちでなければ分からないことなど、いくらでもあるはずだ」
 カインとリディアとの間で、動揺したように視線が絡む。
「……いい?」
 リディアがおそるおそる尋ねる。カインはそれでもしっかりと頷いていた。
「私と精神世界で話したこと、覚えてる?」
「ああ。そのことははっきりと覚えている」
「どうして精神世界で話したのかは?」
「俺が土のカオスに殺されて、生き返るためにそれが必要だったからだ」
 この辺りは大丈夫のようだ、とリディアが安心したときのことだった。
「どうしてそうなったか、覚えてる?」
 隣から、ティナが割り込んできた。
「どうして……」
 カインが少し悩み始めた。
 必死に思い出そうとしているのに、言葉が出てこない。
「私、実は今の記憶を失くしているということ、心当たりがあったんです」
 ティナがさらに続ける。
「F・Hを覚えていますか」
 カインはつい最近、そんなことを尋ねられたような気がする。
「エアリスさんやリディアさんと、合流した場所です」
「合流?」
 急速に、カインは自分の体が冷え込んでいくのが分かった。
 ティナが、何を言っているのか、分からない。
 エアリスやリディアとはずっと一緒にいた。確かにいた。
 ──だが、いつ、仲間になった?
「……いつ、俺は」
 そうだ。
 何も、分からない。
 自分は今ここにいて、ティナと、リディアとがいる。
 だが。
「俺はいつ、お前と出会った……?」
 ティナと、初めて出会ったときのことが、全く思い出せない。
「俺はあの世界でいつ、リディアと再会した? ブルーに会ったのは? アセルスは?」
 カインの両手が、ティナの両肩を掴んでいた。
「……エアリスに、いつ出会った?」
「カイン」
「エアリスは俺に言った。自分が俺の思い出になると。あいつは、あいつも俺が記憶を失くしていることに気付いていた……?」
「自覚、したようだな」
 だが、そのドクターの言葉も、既に混乱しているカインには届いていない。
「俺は、いったい、どれだけ、何を、忘れている……?」
 その声が震えていた。
 動揺している。
 怖がっている。
 肩を強く掴まれるほど、それが痛いほど、ティナに伝わってくる。
 だから、ゆっくりとカインを抱きしめた。
 左腕の、一本だけで。
「大丈夫。落ち着いてください、カイン」
「これが落ち着いて──」
「大丈夫です。たとえカインが全てを忘れてしまっても、私が全てを覚えていますから。何度忘れても、何度でも私が教えてあげますから。私がいつまでも、傍にいますから……っ!」
 どうして。
 どうして、こんなにもこの人ばかりが苦しまなければならないのだろう。
 それも、今まではカインが半ば望んで、そして罪と罰を受け入れてきた苦しみ。
 だが、これは違う。
 自分自身の存在を揺るがす、根源的な恐怖。
 それが、今の彼から伝わってくる。
 こんなに弱い彼を、今までに見たことがない。
「だが、俺はお前さえ忘れるかもしれない」
「それでもあなたの傍にいます。あなたが私を邪魔にしても、何をしても。それが、土のカオスから私の命を救ってくれたあなたへの恩返しであり、あなたを愛する私の心からの気持ちなんです」
 カインは、さらに驚愕で表情が固まる。
「……そうか、俺は、お前をかばったのか」
「はい」
「この、腕は?」
 ああ、と心の中で大きな落胆があった。だが、カインが何から忘れるのかすら特定できない以上、この先自分の名前や存在すら忘れる日がきっと来る。
 それも彼の罪であり、彼と同じ罪を負うことにした自分への罰なのだ。
「あなたをかばって、受けた怪我です」
「そうか──」
 カインはティナに抱きしめられながら、天井を仰ぐ。
 白い天井が、やけに憎たらしかった。
「俺は本当に、忘れているんだな……」
 この分では、いったい他にどれだけのものを忘れてしまっているのかなど、想像することもできない。何しろ、忘れているという事実そのものを忘れているのだから、思い出しようもない。
 きっと、誰かから何か言われるまで、その忘れているという事実に気付かないのだろう。
(そんな状況で、戦えるのか?)
 カオスと。
 全ての世界を滅ぼそうとする者と。
「お前が自分の罪を、自分で赦すことができればそれですむ話なんだがな」
 ドクターはさも簡単なことのように言う。だが、それができれば記憶が失われてなどいない。この段階まできても、カインはその罪を赦すことはできなかった。
 当然だ。既にその罪は、カインの一部なのだから。
「だが、記憶を失ってでもお前には三つ目の、最後の赦しを受けてもらわなければならない」
 三人の体に震えが走る。
「そして、既に最後の赦しを与えるものは、ここにいる」
 すっかり蚊帳の外に置かれていた、口をきかぬ少女、サラの肩にドクターが手を置く。
「この子が『赦す者』だ」
「サラが」
「そうだ。だが、この状態では無理だな。口もきけないようでは、お前の罪など赦しようもない。彼女のどこに口がきけない原因があるのかを突き止め、そして彼女から罪を赦してもらわなければならない。だが、これは──」
 ドクターが腕を組んで言う。
「案外、難しい」
 きょとんとした目で、サラは自分を見つめる四つの視線を受け止めていた。






157.目覚めの儀式

もどる