「──クリスタルを持つ者が近く現れる」
神官服をまとった男が、その暗黒の神殿の中で発言する。
どれほどの大きさだろう。その神殿は巨大な空間に他ならなかった。入口から奥の祭壇まで、あまりにも遠くて霞んでしまうほどに。
その祭壇が奉っているものは無論、暗闇が覆い隠す存在──カオス。
この世すべてを無に帰し、すべての秩序を破壊するもの。
「我らは、混沌に還らねばならぬ。すべての形あるものを壊し、すべての存在を無とする」
その巨大な暗黒の空間で、暗黒のローブをまとった司祭が、祭壇の何も無い空間に向かって祈りを捧げる。
「マシンマスターとマジックマスターは敗れた。混沌より生み出された土水火風の元素カオスも失われた。あとは我らが残るのみ」
神官の後ろには二人の男女。
一人は男性。浅黒い肌と、鋭い眼光を備え持つ長身の戦士。
一人は女性。純白の肌と、妖艶な瞳を備え持つ長髪の術士。
「暗闇の雲に、永遠の闇よ。カオスの降臨を阻む障害を、お前たちの手で取り除け」
「はっ」
暗闇の雲と呼ばれた男が膝をつき、恭しく答える。
そして永遠の闇と呼ばれた女が無表情に尋ねた。
「ガーランド様はどうされるのですか?」
暗黒のローブをまとう神官、ガーランドは答えた。
「決まっている。降臨の儀式を執り行い、集いし八つの世界を虚無に帰す。それにしても皮肉なものだ」
神官は少し息をついた。
「カオスのヨリシロに選ばれた者が、カオスを消滅させる可能性を持つ変革者だとは──正直、予想外の展開だ」
PLUS.158
三つ目の赦し
He will be injured in mind and body,in fact.
「水竜よ、一つ聞きたい」
ミルファの自己紹介が一段落ついたところでヴァリナーが尋ねた。
「なんでしょう」
「カオスとの戦いが迫っている。問題は我々がその場所へ行くことができるのかどうか、ということだ。カオスがこの世界にいるのは分かる。だが、肝心要のカオスの所在がはっきりしない。この星にはいないような気もするが」
「その辺りはミルファに尋ねるのがいいでしょう。彼女はカオスのことをよく知っていますから。ミルファ」
こくり、と頷いたミルファが一同に向かう。
「正確には──」
「カオスはこの世界にはいないのだろう?」
ミルファの言葉を遮るようにして言ったのはカインだった。
その発言にリディアやティナは無論、ヴァリナーやドクターまでもが驚いた様子を見せる。
「どうして、それを」
ミルファが少しとまどったように言う。
「マシンマスターの部下に『紅』という男がいた。そいつと戦ったときに、カオスの正体に気付いた」
そう。カインは既に気付いていた。カオスとは何者なのか。そして、カオスの正体は何なのか。
紅は言った。『この世界にいるカオス』は『本来のカオス』の『ほんの一部』にすぎないと。そしてそれはあくまで『カオスの力を実体化』したものにすぎないと。
「カインさんは、カオスが何だとお考えですか?」
ミルファの問に、カインが顔をしかめて答えた。
「カオスは生命体などではない。カオスとは、全ての存在を無に還すだけの存在──いや、存在というのもおかしいな。カオスとは『虚無』そのものだ。その『虚無』が爆発的に膨れ、全ての世界を無と同一化させる。おそらくはそういったシロモノなのだろう」
カインの推量に、誰も声が出てこない。
「驚きました。ほとんど正解です」
ミルファが感心したようにしてカインを見上げる。
「カオスはその虚無の力の一端を具現化することができる。それが元素カオスであったり、マスターと呼ばれる者であったりしたのだろう。だが、カオスそのものはこの世界に現れたことはない。何故なら、現れた時にはそのカオスそのもの、無そのものが世界を支配し、消滅してしまっているはずだからだ」
「その通りです。よくそこまで、お一人でお分かりになりましたね」
「情報提供者がいたからな。だが、お前はそれよりもさらに多くのことを知っているようだ」
もちろんです、といわんばかりにミルファが胸を張る。
「カオスは悩む者を魅き寄せます。そしてカオスを降臨させようとしています。カオスが降臨することで、重なる世界は最終的に崩壊に導かれるのです」
「なるほど。つまり手下がいるということか」
「はい。一万年前から変わっていなければ、その人の名前はガーランドといいました。その人はかつて三二世界から十六世界に数を減らした時にも、いえ、それよりもずっと昔から、カオス降臨の儀式を続けてきた人です」
カオスを降臨させようとしている人間。そんな者が存在するとは。
「前に聞いたことがある」
リディアが発言する。そう、あれは確か、幻界でルナと話したときだ。
「前に滅びたときの代表者の中には、世界の滅びを願った人がいたって……」
「うん、そう。それがガーランド。その人も代表者だったから」
世界に最も愛されていながら、その世界の消滅を願い、それを実行した。
「どうして」
「それは本人に聞くしかないのだろうが、既にそいつは何度も世界を崩壊させている。話し合うだけ無駄だろうな」
ヴァリナーがリディアの疑問を封じる。確かに、それを議論していても仕方がない。要はそのガーランドという男を倒せるかどうかという話だ。
「この世界に実体化しているカオスは二体です。一つが『暗闇の雲』、もう一つが『永遠の闇』。どちらも人間の姿をしていますが、ガーランドに仕えている『カオスの一部』です。虚無へ誘う戦士と術士。その力は、今までに戦ってきた元素カオスやマスターたちよりもはるかに強いでしょう」
何しろカオスの力を具現化したカオスの一部なのだ。弱いはずがない。それに不要なものも存在しない。カオスにとって障害となるものがいれば、何のためらいも迷いもなくそれを実行するだろう。
「その、ガーランドがいる場所がこの世界の『暗黒神殿』と呼ばれる場所です」
「地図」
ヴァリナーが控えていた司祭たちに命令して地図を持ってこさせる。湖岸に備えられた祭壇は急遽戦略会議のテーブルと化した。
「このエウレカから北東の方角──この辺りです。相当遠いですけど」
ミルファが差したところは大陸の北の海岸すれすれのところだった。
「歩けば四十日はかかるな」
ヴァリナーが呟く。
「四十日も歩いていたら、世界が全て重なってしまう」
「そうだ。だから通常の方法での移動は不可能だ。これはまた、ブルーの朱雀に頼るしかないだろうな」
もっとも、それも朱雀の気分次第だから必ずできるというわけではない。それに、ブルーが戻って来られるかどうかもまだ定かではないのだ。
「それはブルーが戻ってきてから考えるとして、もう一つ気になっていることがある」
カインはそれを口にすべきかどうか迷った。
だが、それを共有しておかなければ、いざという時に問題になる。
先に解決できる問題があるのならばその方がいい、と考えた。
「俺は、カオスに話しかけられた」
ヴァリナーやミルファの顔が強張る。
「おそらくカオスは、俺を降臨するためのヨリシロに使いたいらしい。いや、カオスそのものなのか、それともガーランドなのかは分からないが」
その言葉は、意外なほど二人を沈黙させる効果があった。
ヴァリナーは右手で頭を抱えるし、ミルファはどうしていいのか分からないと辺りをきょろきょろと見回す状態だ。
「それはまた難儀なことだ」
結局口にしたのはドクターだった。
「難儀というのは?」
「簡単なことだ。お前さんがクリスタルを持ってカオスの下までたどりついたとしても、お前さんの体をヨリシロに使われたならその時点で全てがアウトだ」
確かにその通りだ。クリスタルを使うのが自分の役割で、それができない状況になってしまったら全てが終わりだ。
「どうすればいい」
「どうもこうもない。お前さんが気をつけるしかない問題だ。お前さんの意思が強ければ取り込まれることもないんだろうが、まあ勝率は低いだろうな」
あっさりとドクターは言う。確かに精神的に強い自信など全くないが、そこまであけすけに言わなくてもよさそうなものだが。
「確かに、悩んでいる時間はあまりないんです」
ミルファが困ったように言う。
「それに、カインさんがクリスタルをちゃんと使えるようにならないといけないですし」
「分かるのか」
ヴァリナーがミルファに尋ねる。
「はい。まだカインさんは赦しが得られていないんですね」
ミルファは目覚めたばかりだというのに状況が完全に把握できているらしい。
「どうして分かる?」
「眠りに着く前に、目覚めた後に何をすればいいのかは大体把握していましたから。それに」
ミルファは優しい、慈愛の笑みを浮かべて言った。
「カインさんは昔、私が好きだった人によく似ていますから。その人も赦しが得られていなくて、迷われていましたから」
その神秘的な姿で話しかけられるのは困る──ローザを思い出してしまうから。
カインは首を振った。相手は少女ではないか。
「君の好きだった人というのは」
それもまた変革者だった、ということなのだろうか。
「いえ。あの人は『守護者』。全てのものを守る人でした。でも、今の世界には守護者は必要ありません。必要なのは、滅びの未来を変えられる人。変革者の方です。クリスタルを使うことができる人です」
そしてミルファはその小さな手を、カインが抱いていたサラの頭に置く。
「カインさんの罪を癒すことができるのは、この子、なんですね」
カインに抱かれていたサラが、びくん、とはねた。
「そっか。全部、分かってるんだ」
少し寂しそうな顔をミルファが見せる。そして優しく撫でる。
「分かっている、とは?」
「自分が『赦す者』で、カインを赦さなきゃいけないっていうこと。そんなこと、したくないのに」
そのサラの気持ちまで完璧に読み取っている。サラは言い当てられたくないのか、カインにぎゅっとしがみついてきた。
「どういうことだ?」
「どうしてこんな小さな子が、全部分かってるのかが分からないんですけど……ねえ、サラさん。そんなに、自分のことを言うのはイヤ?」
だが、サラは何も言いたくないというように目を背けてカインの胸に顔を押し付ける。
「カインさんを赦すと記憶をなくすかもしれないのが辛いの? それとも、その先の理由?」
サラがぴたりと止まった。そして全員の頭に疑問符がつく。
もう一つの理由。
「そっちが理由か。うん、分かった」
ミルファだけが納得しても仕方がない。カインが話に割り込む。
「すまないが、状況が見えない。お前は俺が記憶をなくしているということを知っているのか」
「知っています。私はそうした記述を全部読みましたから。『偉大な賢人』が記し、この世界に一万年前に存在した『魔神の書』を、私は全て暗記しています」
「魔神の書、だと」
ヴァリナーが呻くように言う。
「はい。魔韻の書や魔影の書と同じ『偉大な賢人』によって記された七つの書の一つです。私はそれを眠りにつく前に読みました。カオスの居場所もその書に書かれていました。『赦し』のことも全て知っています。今、変革者であるカインさんは赦されようとしている。でも、カインさん自身がそれを認めようとしないから、罪を犯したという過去の記憶もろとも、世界がカインさんを赦そうとする。それは全て理解しています」
カインは少し耐えるようにその言葉を聴く。
「問題は、そこから先です。今はまだ、カインさんの心が強引に赦されるだけで話はすんでいます。でも、記憶を失くした状態でその武器、天竜の牙を振るうことは多大な負担をカインさん自身にかけるんです。ただでさえ剣は使用者の体力を著しく奪います。それは竜の武具ですから」
「はっきりと言ってくれ」
この際、何を言われても覚悟はできている。自分にとって、ローザやセシルのことを忘れること以上に辛いことなど、何もない。
それが伝わったのか、ミルファは顔に翳りを見せて答えた。
「はい。カインさんの体が耐えられなくなります。記憶が無くなるだけではなく、体も満足に動かなくなる、いわば植物人間。その状態になってしまう可能性が、とても、高いんです」
沈黙が降りる。
カインにとっては確かに、それほど衝撃的というわけではなかった。記憶がないのなら自分がどうなろうが問題はない。この場合、問題になるのは──
「そんな……」
震えているのは、ティナだった。
心だけでなく、体まで壊されるなど。
どれだけ一緒に罪を負うと誓ったとはいえ、カインばかりが傷つけられていくこの現状が、たまらなく苦しい。
「サラさんはカインさんのことが大好きで、カインさんをそうさせたくはないんですよね」
サラはゆっくりと顔を上げる。
「その気持ちは私も分かると思うし、カインさんが世界のために人柱になってもらうっていう考えも決してよくないと思う。でも」
ミルファも近づいて、カインの腰に腕を回して思い切り抱きしめる。
「私たちは、カインさんしか頼ることができないんだもの」
カインは空いていた手で、そのミルファの頭を撫でる。
「俺なら問題はない」
カインは側にいるティナを見つめて言う。
「何があっても、俺にはティナがいる。いてくれると信じている」
「はい」
ティナが涙を流しながら頷く。
「だから大丈夫だ。サラ。もしお前が……自分から話すことを閉ざしているだけなら、俺の言葉に答えてくれ。俺は大丈夫だ。俺は、何があってもカオスを倒す」
カインの言葉に。
サラの喉から、ひっく、と泣き出すような声が聞こえた。
「ご、ごめ……」
ひっく、と、もう一度しゃくりあげる。
「ごめんなさい、お兄ちゃん……」
──三つ目の赦しが、発動する。
159.失くした記憶
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