「僕が戦っている間に、そんなことになっていたのか」
 そして、時は戻る。
 戦いに勝利したブルー、そして彼の生還を祈り続けたアセルスが、そこまでの状況をヴァリナー王から知らされ、困惑したように表情を険しくした。
「それで、カインは」
 そう。一番の問題は彼が無事なのかどうかということだ。結局、記憶は失ったのか、そうでないのか。
「分からん」
「分からない?」
 ヴァリナーの言葉を反芻する。
「何しろ、赦しが得られた直後、カインは倒れた。いまだに目覚めん」

 状況は、かなり深刻なものだった。












PLUS.159

失くした記憶







His soul is defiled by the guilt.






 ブルーとアセルスは倒れたカインが運び込まれたという診療室へやってきた。
 ティナとリディアが、カインの傍に付き添っている。疲れてしまったのか、サラは別のベッドで眠りについていた。そしてドクターは長いすに体を投げ出していた。
「随分な格好だな」
 ブルーがそのドクターに声をかけると、リディアやティナも疲れた表情に笑顔を見せた。
「ブルーさん!……よく無事で」
 ティナが立ち上がろうとするのを手で制したブルーは、意識のないカインに近づく。
「状況は聞いた。既に赦しが発動してしまったんだな」
「はい」
 ティナがすぐに表情を消す。
 ということは、次に目覚めた時にはカインはもう誰のことも覚えていないということになる。
「三つの赦しか。前から何となく変な感じはあったけど、まさか記憶を失っているとは思わなかった」
「お前さんと別れる前までは、まだ赦しは一つしか与えられてなかったからな。気付く奴の方がおかしいのさ」
 ドクターが立ち上がって背後に立つ。妖精族だけあって、気配の消し方がうまい。
「エアリスも逝ってしまったのか」
「ああ。二つ目の赦しを与えたと同時にな」
「やれやれ。僕が決着をつけている間に、本当にいろんなことが起こったみたいだね。マジックマスターも倒したって?」
 リディアが頷く。もっともそれは、何日も前の話だったが。
「問題は、カインがパラディンとして戦えるかどうか。すべてはそれにかかっているということか」
 ブルーは表情なく眠っているカインを見下ろす。周りにこれだけの心配をかけさせて安らかに眠るこの男を一度殴ってやりたい気分にかられた。
「それからもう一つ。その、ミルファという少女はどこに?」
 部屋の中にはそれらしい少女がいないことを確認して尋ねる。
「そういや、さっき北の塔の方に向かっていくのを見たな」
 東西南北の塔はエウレカの要だ。中心部の王の間からこの四つの塔へマジック・パワーが送られて結界を張り巡らせている。この塔の存在なくしてエウレカは機能しない。
「分かった。ちょっと行ってみる。アセルスはここに。もし僕がいない間にカインが目を覚ましたら」
 ちらり、と眠っているカインを見る。
「僕のかわりに一回殴っておいて」
「ん、分かった」
 物騒な会話だ。だが、周りにいる人間たちにその気持ちは伝わる。
 何でも自分一人で抱え込み、他人を頼らず、過去に犯したという罪に対する罰だけを求める男。
 赦しではなく罰を求めるあたりがこの男の良さなのだが、自分を苦しめてまで罰を求めてどうしようというのか。
 誰もが彼に対して憤っていた。そして、誰もが彼を見捨てられずにいる。
(リーダーか。まったく、無鉄砲なのはリーダーの素質からは大きく外れるというのに)
 ブルーはため息をついて診療室を出る。
 一人になったブルーはゆっくりと北の塔を目指した。
 彼女に聞きたいことがあった。これまでの経過を聞いて、どうしてもブルーが一つだけ納得がいかない点があったのだ。






 それから、数分。
 それまで何も変化がなかった彼の体が、ぴくり、と動いた。
 そのかすかな動作だけでも、何時間も待ち続けたティナやリディアは体を浮かせた。
 期待と不安とで、言葉も出てこない。
 やがて、ゆっくりとその男の口から呻きに近い声が漏れてから、徐々に目を開け始めた。
 だが、それでも二人は何も言葉にできない。
 カイン、と呼びかけたとき。

 彼は、それが自分の名前だと分かるのだろうか──?

 強大な不安に圧迫される。その二人の様子を見てか、アセルスもドクターも何も口を挟むことができずにいた。
 そして完全に目を開けた彼が、ゆっくりと起き上がる。
 瞬きを二度。
 そして、周りの様子を確認する。
「ここは……?」
 言葉を話す。
 だが、彼はここがエウレカだと認識できるのだろうか。自分たちが認識できているのだろうか。
「く……頭、が」
 カインは右手で頭を押さえる。
 その手に、ティナは思わず左手を重ねた。
「カイン」
 思わず口にしてしまった。
 緊張の一瞬。

「……ティナ、か」

 だが、彼の口からは意外にも知っている名前が飛び出てきた。
 それも、誰より早く、自分の名前を。
「カイン。カイン、私のことが分かりますか?」
 カインは一瞬、不思議そうな顔をする。
「当たり前だろう。ここはどこだ。俺は、どうして……」
 どうして──その先の言葉が、続かない。
「カイン。私のことも、分かる?」
 リディアがおずおずと尋ねる。カインは不思議そうな顔を浮かべる。
「ああ。どうしたんだ、リディアまで」
 リディアはほっと一息つく。だが、何かがおかしい。
 それにいち早く気付いたのはドクターだった。彼は二人に一言断り、カインに向き合う。
「いくつかお前さんに聞きたいことがある。はっきり言うが、お前さんにとってはかなり苦しい事実になるが、かまわないか」
「ああ」
 カインは冷静に頷く。
「自分が記憶喪失だっていうことは分かっているか?」
「なに?」
 何を言われたのかが理解できないという様子でカインは首をひねる。
 だが、その様子を見ていれば分かる。ティナにも、リディアにも分かった。
 カインは、自分が記憶を失いつつある事実を、覚えていない。
「先入観を抜きにして答えろ。お前はこれから何をする?」
「カオスを、倒す」
 それははっきりと答えた。
「じゃあ、ここはどこで、これからどこに行く?」
「ここは第九世界プラスで、これから暗黒神殿へ行く」
「なるほど。じゃあ、この城の名前は?」
 エウレカ──その名前が出てこない。
「後は、お前さんがこの世界で共に戦う仲間の名前を、片っ端から列挙してくれ」
「待ってくれ」
「待たない。こういうことはスピードが命だ。早くしろ」
 カインは動揺しながらも答えていく。ティナ、リディア、ブルー、アセルス。そしてエウレカのドクターとヴァリナー王。それにミルファ、サラ。この城にいる者たちは全員をきちんと答えた。
「ならば、さらに聞こう。お前さん、他にどれだけの名前を覚えている?」
「他に?」
 すぐに口を開く。が、また閉じる。
 目が虚空を泳ぐ。次第に焦りのような表情が浮かび始める。
「カイン」
 リディアが声をかけた。
 聞きたくない。
 これだけは確認したくない。
 だが、それでも彼女は確認せざるを得なかった。
「カインの幼なじみ──覚えてる?」
 カインは顔をしかめた。そして、答えた。

「俺に──幼なじみなど、いない」






 ミルファは、北の塔の上にいた。
 城の外をじっと見つめている。さらに北──正確には北東に、カオスの信者であるガーランドがいる、暗黒神殿が存在する。
 じっと見つめているのは、それなのか。
「ミルファ」
 声をかけると、小さな女の子が振り向いて微笑みを浮かべる。
「あ、ブルーさんですね。はじめまして。私はミルファといいます」
 丁寧にお辞儀をした少女に、印象と随分違うなと面食らう。
「何故、僕がブルーだと?」
「目が青くて、態度が偉そうだと聞きました」
「……誰に」
 ティナやリディアがそんなことを言うだろうか。そんな表現はしないだろう。だとしたらおそらくドクターが吹き込んだのか。
「それは企業秘密です。でも、ブルーさんが無事に戻ってこられたら、絶対に私に会いに来るっていうことは分かっていました」
「分かっていた?」
「はい。ブルーさんは知的で冷静で、物事がよく分かっているとおっしゃってました。だとしたら、ここまでの話に一つの矛盾があることに気が付かれると思ったんです」
 なるほど。どうやらこの少女は確かに色々なことをよく知っているらしい。
「ああ。なら聞きたい。僕らは今まで、十六ある世界のうち半分が重なり、そのために世界が消滅すると言われてきた。でも話を聞けば、その重なった世界にカオスを蘇らせ、全てを無にするという」
「はい」
「なら、世界が集まっているのはカオスのせいではなく、カオスを蘇らせようとするガーランドという男のせいなのか? それならばどうして半分ずつなんていう、中途半端なことをするんだ? そして、無=カオスにはそもそも──」
 そう。
 それを認めるのは覚悟がいる。だが、矛盾を見つけてそのままにはしておけない。
 自分たちはこれから、カオスと戦うのだから。
「カオスにはそもそも、意思なんていうものがないんじゃないか?」

 そうだ。
 カオス=無そのもの、というのであれば、カオスは何の望みも無い。世界を無にしようだなどと思うはずがない。その意思すらあるはずがない。
 カオスそのものが無なのだから、無(カオス)に有(意思)が存在するはずがないのだ。

「カオスそのものには、意思と呼べるものは存在しません」
 ミルファはそれを肯定した。だが、それだけでは終わらない雰囲気がそこにはあった。
「教えてくれ。君が読んだというその『魔神の書』と呼ばれるものに何が書いてあったのか。そして、カオスの正体とは何なのか」
「はい。皆さんはもうそれを知ってもいい頃だと思います。特に、カオスとの戦いをこれから目前に控えているのですから」
 ミルファは少女に似合わぬ毅然とした態度で接する。神々しい、といえばいいのだろうか。このような少女をブルーは見たことがない。
「カオスは、何も存在しないただの『無』そのもの。ブラックホールのように触れたものすべてを『無』の一部としていきます。そして絵の具の水のように、もともと無色透明だったものが、取り込んだものによって徐々に色づいていく。幸せな色、哀しい色、そして、破滅の色」
 ──そういう、ことか。
 ブルーはそれでようやく理解した。そして、カインとカオスにまつわる話もすべてそれで理解できた。
 確かにもともと、カオスそのものに意思と呼ばれるものは何も存在しなかった。だが、カオスに取り込まれた──無と同化した者たちが、さらに多くの『同化すべき存在』を求めるようになった。
 それが二五六の世界。カオスに取り込まれた者たちが、すべての存在を同じカオス=無にしようとしているのだ。
 だから、そこに意思はある。カオスではない、カオスに取り込まれた者たちの意思。いや、その者たちの『志向性』と言うべきもの。
 その志向性こそが、カオスの意思。
「だから、カオスはカインに話しかけたというわけか」

 黒い罪に汚れた魂が欲しい。

 それこそが、カオスをさらに成長させるもの。
 ヨリシロに相応しい魂の持ち主。

 ──カインが全てを、消滅させるのだ。






160.記憶の断片

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