カインはティナと共にテラスに出た。
『槍を知らないか』の質問は全員に衝撃を与えた。それがどういう意味なのかはゆっくりと説明してもらった。
 すなわち、自分はもう、竜騎士ではないということ。
 風を感じる力などないのだということ。
(パラディンか)
 竜騎士でない自分が自分ではないような気がするのは当たり前のことなのだが、それ以上に『パラディン』という職業があまりに自分に似つかわしくないように思える。
 理由は全く分からないが、だいたい予想はつく。それは、自分のなくした過去に問題があるのだ、きっと。
(パラディンを避けたくなるような過去を持っているということか)
 嫌なことならば忘れてしまって幸せなのだろうか。
 いや。
(幸せ……これが幸せであるはずがない)
 自分が何者か分からない。
 過去に何をして、何を感じて、どう生きてきたのかも分からない。
「どうして俺は、竜騎士ではなくなったんだ」
 唯一安らぐことができる場所、風すら失って。
「俺はどうやって今まで、生きていたんだ」
 生きてきたのではなく、生きていたのか。それすら分からない。
 冷静な表情とは裏腹に、彼は混乱の極致にいた。












PLUS.161

『赦し』の正体







I belong to you.






「またすれ違いか」
 戻ってきたブルーとミルファを見るリディアたちの表情は暗かった。既にカインとティナの姿はなく、サラだけがまだすやすやと寝ている。よく寝る子だ。
「何があったのか、状況だけ教えてくれるかな」
 ブルーの問に頷いたアセルスが答える。やりとりの全てを聞き終えたブルーは、まずリディアに質問をした。
「リディアが尋ねた人物っていうのは、本当に知らない人ばかりだったのかい?」
 アセルスとドクターが驚いた様子を見せる。リディアは「全員、カインが知ってるはずの人」と答えた。
「……俺の言葉を逆手に取ったわけか」
 ふう、とドクターが息をつく。リディアが表情も変えずにそれだけの芸当をしでかしたのに意表をつかれたのだ。
「どう思う、ブルー」
 リディアが尋ねると、ブルーは与えられた情報の中から、現在のカインの状況についてほぼ間違いないだろうという推測が出た。
「おそらく、カインの『罪』に関する知識が、そのまま抜け落ちているんだと思う」
 控えめな表現だったが、ブルーには自信があった。
「罪と赦しについてはヴァリナー王から聞いていたけど、カインの罪っていうのは具体的にどんなものなんだい?」
 ブルーが尋ねると、少し答えにくそうにリディアが言う。
「一つは私のお母さんを殺した罪」
 いきなりヘヴィな内容に、ブルーとアセルスが口を塞ぐ。
「それから、世界を混乱に落とした罪。でも、この二つは多分、カインの中ではそこまで大きいわけじゃない。問題は最後の一つ」
 世界の危機よりも重たい罪とは。だが、それは二人が考えたようなものとは大きく違った。
「カインの幼なじみ、セシルとローザを裏切った罪です」
「裏切った? それだけ?」
 アセルスが思わず尋ね返す。だがリディアは真剣な様子で「はい」と頷く。
「カインにとっては、世界よりも二人の方が価値が高いんです。別にセシルやローザのことを殺したわけじゃない。戦いにはなったけど、お互いそんな重傷っていうわけでもなかった。でも、カインにとっては自分の命よりも大切な二人を裏切ったことが、永遠に心残りになってしまってる」
 おそらくその感覚はカインを見続けてきた自分にしか分からない。きっとティナにも分からない。
 あの精神世界でカインの本質に触れたのは自分だけ。カインのことを一番良く知っているのは自分だけ。
 だから、今の彼は──本来の彼ではないのだ。
 セシルやローザのことを忘れてしまっているカインは、カインじゃない。
「なるほど。それに関する知識は残さず削ぎ取られ、それでいてこのPLUS世界で必要とされる知識だけは残されている……それもかなり、意図的に」
 ブルーが呟くように言う。だが、その言葉は聞き捨てならないものだ。
「意図的に?」
「ああ。そんな都合のいい偶然があるはずがない。ドクターの話では、カインの記憶は僕らのことも含めて、残らずなくなるはずだった。そうだな?」
「少なくともあの状況から判断したらそう判断するのが妥当だろうさ」
「それなのに、わざわざ記憶が残っているところを見ると、何者かが介入して、わざと記憶を残したように見える。今の彼はもう、彼がもともといた世界のことやガーデンのことなんて、何も覚えていないだろう。ただ、僕らと一緒にいたことだけが記憶の片隅にある程度で」
 ブルーの言う通り、ほぼその考えに間違いはない。
「私のことも忘れてしまっている?」
「そう考えないとおかしい。だから、君のお母さんのことは忘れてしまい、君と仲間だったことだけが記憶に残っているんだ。どうやって出会ったのかとか、どのような冒険をしてきたのかとか、そういったことは全部忘れてしまっているんだよ。それは僕らの方も同じだけどね。彼にはただ、カオスを倒すという意識と、そして一緒に戦うこのPLUS世界にいる仲間のことしか記憶を残されていないんだ」
「誰かが意図的に」
「そう。誰の仕業かはわからないけど、きっとそれを裏で操っている奴がいる」
「敵か?」
 だが、そのドクターの言葉には首をひねった。
「分からない。敵かもしれないし、そうじゃないかもしれない。カオスを倒すために誰かが手を貸してくれているのかもしれないし、その逆かもしれない」
 つまり、現段階ではブルーには分からないということだ。だからなのか、彼は振り返って少女を見る。
「ミルファ、君になら分かるかい?」
「私にも分からないことはありますよ。基本的に魔神の書に書いてあること以外は何も分かりませんから」
 と、そこへ──
「う……ん」
 ようやく眠り姫が目を覚ました。
「……カインお兄ちゃん、どこ?」
 そして真っ先にカインの名を呼んだ。






 カインが考え事をしているときは、ティナはできるかぎり邪魔にならないよう、黙って静かにしている。
 彼が考えなければならないことは膨大で、その中には自分には到底力を貸すことができないものも含まれている。
 だが、自分は彼の傍にいなければならない。
 彼の苦しみは自分の苦しみであり、そして彼一人を苦しんだ状態にしておくことはできない。
 苦しんでいるのなら少しでもそれを和らげてあげるのが自分の役目だし、彼ばかりを苦しめたくない。
(どうして、この人ばかりが……)
 カインばかりが苦しめられる。それが彼がおかした罪に対する罰なのだろうか。それほどのことを彼はしてきたのか。
 自分で、自分が赦せないくらいに。
(私にできることがあるのなら)
 自分でできることなら、何を引き換えにしてでもいい、彼の力になりたい。
 だが、現実に記憶を失い、そのことに苦しまなければならないのは彼自身なのだ。
 彼女は左手で、そっと彼の手を取る。
 それまで、ティナがいることをすっかりと忘れていたのか、驚いたように少し跳びあがる。
「ティナ」
「カイン。辛いことがあるなら、苦しいなら、少しだけでも口にしてください」
 そうでなければ──自分の方が苦しくなってしまう。
「どんなことでも、私はあなたと一緒にいる、あなたの苦しみは私が半分背負うと、そう言ったことまで忘れてしまいましたか?」
 だが、その言葉は彼の記憶に深く根付いているのか、彼は首を振って答える。
「いや、覚えている。その言葉がなければ、今頃俺はまるで身動きが取れていなかったと思う。俺が唯一頼れるのはお前だけだ、ティナ」
「カイン」
 こんなことでは駄目だ。
 これではまるで、記憶を失う彼に自分が戸惑い、そして相手にもたれかかろうとしているようなものだ。
 自分がしっかりしなければならない。カインのために、カインの受け皿となれるように。
「もっと、頼ってください」
 ティナは左腕を大きなカインの後ろに回し、そして彼の頭をかき抱く。
「私が、すべて受け止めますから」
「ティナ」
 するり、と彼の両腕も自分の後ろに回る。そして、ゆっくりと抱擁に力がこもる。
「俺は、誰だ」
 搾り出すような声。
「本当に俺はカインなのか。それとも何か違うものなのか。俺の記憶の断片が、今の自分が自分ではないと告げてくる。俺はいったい、何を忘れてしまったんだ。俺の中のもっとも大切な何かが、そこだけが真っ白だ」
「何を忘れても、カインはカインです」
 強く、彼を抱きしめる。片腕がないのがもどかしい。もっと強く抱いてあげたい。彼がここにいてもいいのだと教えてあげたい。
「カインの見たもの、聞いたもの、すべて覚えていますから。だから──」
「じゃあ」
 自分の体が壊れるのではないか、というくらいに強く抱きしめられる。
「誰なんだ、セシルと、ローザというのは」
 噛み付かれているのではないか、というくらいに全身が痛い。
 それくらい、カインは今、自分にすがっている。
「その名前を聞いた瞬間から、俺の心の中は焦燥でいっぱいだ。俺とその二人との間に何があったんだ? 俺にとってその二人は、どういう位置づけなんだ……」
 くる、しい。
 たとえ記憶を失ったとしても、その体が覚えている。二人のことを。忘れてはいけないのだと、彼の根幹を成すものなのだと。
「俺が思い出してはいけない相手なのか」
「そんなこと──」
 声がかすれる。苦しくて呼吸が思うようにできない。
「分からない。何も、何も、何も思い出せない。知っているのに、俺は間違いなくその二人を知っているのに、どうして思い出せないんだっ!」
 彼の手が私の頭をつかむ。そしてそのまま──唇を合わせられた。
「うっ」
 むさぼるように、助けを求めるようにしてくるキス。
 初めての、唇を合わせただけのものとは違う。
 これは、カインが自分を思ってしているのではない。
 ただの逃避だ。
(それでもいい)
 彼が藁にでもすがる気持ちだというのなら、できるだけいい藁になりたい。
 自分を壊されてもいい。
 それで、少しでも彼が救われるのなら。
「わた、しは……」
 ティナは涙を流した。その表情が、カインに罪悪感を思わせる。だが、自分のことなんかで彼が悪く思う必要はない。
 自分も、罪人なのだから。
「イヤな、女です。こんな時ですら、カインが苦しんでいる時ですら、カインが私にすがって、頼りついてくれているのを、嬉しく思っている……」
「ティナ」
「そして、カインがこんなに苦しんでいるのに、心の奥底では喜んでいるんです。カインが二人のことを忘れてくれているから、カインにとっての一番が私でいられることに。もしもカインが二人のことを覚えていたら、きっと私のことをそこまで頼ってはくれません。本当に、イヤな女です」
 その左手を、カインの頬にあてる。
「でも、私はあなたの傍にいます。いつまでも。私があなたの記憶になる。そう決めましたから」
「お前こそ」
 カインは少し腕の力を緩める。
「こんな、記憶も定かじゃない、お前とどうやって出会ったのかも覚えていない、そんな相手で本当にいいのか」
「はい。カインがすべてを忘れても、私が全部覚えていますから。カインは、どうですか? 私と一緒にいて、少しでも安らぐことが、できていますか……?」
 安らぐ──
 そんなことを考えたことがかつてあったのだろうか。どうもそんなことはなかったような気がする。何かに追われ続けていたような気がする。
 だが。
「この気持ちを、どう表現すればいいのだろう」
 また、腕の力が強くなる。
「こう言えば、伝わるだろうか」
 強く、強く。
「お前が、愛しい」

 これは、逃避だ。
 忘却の果てに、自分へ逃げてきているにすぎない。
 それが分かっていても。
 自分はそれを振り払うことなどできない。
 それが、望みだったから。

「私も、愛しています、カイン」
 そして、もう一度二人は唇を合わせた。






162.想い人

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