一万年という、長い時を生きてきた。
 カオスという無限に広がる闇の中で、自らを律し、会いたい者にも会えないままに、ただ時間だけがせつせつと流れていく無限の時間。
 自分を失わないようにするのは大変な作業だった。
 いつの日か、自分の『願い』をかなえるために。

 ……。
  ……。
   ……。
    ……。
     ……どれだけの月日が流れたのだろう。
      ……どれだけの歳月が過ぎたのだろう。
       ……俺は、ただ。
        ……君に、会いたいだけなんだ。

 ──それだけが、願い。












PLUS.167

幻の剣士







a fighter of illusion






「リックさん」
 貴族が戦場で身につける豪華な鎧と、きらびやかなマント。だが、それらはいずれも形式的なものではなく実戦用のものとして作られているのは見て明らかだった。
 抜き身の刃は天竜の牙。ここに二本の牙があるということになる。
 リックの顔に表情はなく、少女を一瞥しても変わることはなかった。
「私を覚えていますか」
「──知らない」
 リックはぶっきらぼうに答える。そして剣を構えた。
「待っていた──牙の使い手。俺はただ、お前を待ち続けていた。一万年、カオスの中で。操られることもなく、自分を失うこともなく。ただ一つの奇跡をかなえるためだけに」
 言うやいなや、ただちにリックは駆け出していた。速い。カインはミルファを突き飛ばすと、同じ牙で受け止めた。
 空間が、かすかにひずむ。
 本来あることのない『同一存在』が触れ合う。それは決してあってはならないこと。この世の理を歪ませるものだ。
「お前の名はリックというのか?」
 だがその速さにカインは対抗していた。少なくとも彼の目と身体はしっかりとリックの動きをとらえていた。
「リック──そう、だ。俺はリック。リック。リック……確かにそう呼ばれていた。もうずっと、ずっと、ずっと昔のことだ。でも、俺のことなんかどうだっていい。俺は、俺には、その牙が必要なんだ。寄越せ──!」
 剣をずらし、受け流す。そのままリックの左手が剣から離れ、カインの喉を捕らえた。すさまじい圧力で喉を潰しにかかる。慌ててカインは離れた。
 そこへ牙が薙ぐ。飛び退くが、腹部に裂傷を受けた。強い。この戦闘センスはただものではない。
(リック。そうか、あのヴァリナー王の好敵手)
 リディアやブルーが束になってもかなわないヴァリナー王だ。だとしたら自分やスコールが束になってもこのリックという剣士にはかなわないのかもしれない。
「本当、ごほっ、に覚えていないのか。ミルファを」
 潰されかけた喉で声にするのは辛かったが、それでも言わなければならなかった。
 ミルファはずっと願っていたのだ。彼に会えることを。
 見れば彼女は泣きそうな目で自分とリックの戦いを見守っている。
「知らないと言っているだろう……!」
 リックは天竜の牙に力を込める。そして、離れた場所から剣を振る。その衝撃波がカインを襲う。
「くっ」
 回避するが、その瞬間に相手が迫っている。そのまま鋭く突いてくる。身体を開いてかわす──そこにリックの足があった。
 側頭に激しい衝撃。一瞬目が見えなくなったが、すぐに回復する。途端にカインは大きく飛び退いた。続けざまに剣戟が襲い掛かってくるからだ。この休みない攻撃の連続に、一瞬たりとも気が抜けない。
「名前なんか、もう何千年も呼ばれていない。呼んでもいない」
 再び振り上げられた剣をリックは牙であわせる。また空間が歪む。
「そんなものはどうでもいい。ただ俺は、俺の頭の中からなくなっていくあいつの顔と名前とかけてくれた言葉だけがあればいい。あいつを蘇らせるためなら、世界が滅びようがどうなろうがかまうものか……っ!」
 それだけの激しい恋慕の情。
「ミルファ。リックが言う相手が何者か分かるか」
 力比べの体制になりながら声をかける。ミルファはすぐに「分かる」と答えた。その名前を口にしようとする。が、
「言う、なっ!」
 離れ、そして衝撃波をミルファに放つ。彼女はそれを予期していたのか、自分の前にバリアを張ってその衝撃波を散らした。
「ミルファ」
「大丈夫です。自分の身は自分で守れます」
 こう見えても魔導士。ヴァリナーには遠く及ばなくても、十分に身を守ることはできるようだった。
「軽々しく、あいつの名前を口にするな……っ!」
 ここにきて、ようやくカインは目の前の人物が尋常ではないことに気付く。
 目が血走っている。言動も理性的ではない。本能で動いている。
 それは、既に思考能力が劣化している証拠だった。
「リックは、一万年前の人物だったな」
「はい」
 ミルファが悲しそうに頷く。
「仮に一万年を生きる方法があったとしても、記憶は」
「……はい。おそらく、相当の記憶が抜け落ちているのだと思います。ヴァリナーさんは魔導士ですから、記憶に記憶を重ねていくことができますけど、リックさんはそうではありません。竜の武器を使うことができる以外は、普通の人間なんです。私のことも覚えてくださっていないみたいですし、自分の本名も覚えてはいないと思います。リックさんはただ、あの人のことを想っているだけです」
 あの人──ただ一人だけの、最愛の女性。
(なんだ……?)
 その姿を見ていると、心の中がざわめく。
(俺にも、それだけ焦がれる相手がいた、はずだ)
 そして、自分の心の中でざわめく名前に気付く。
(ローザ──それが俺にとって、誰よりも大切な女性の名前なのか? ならセシルというのは何者だ? 俺はいったい、今までどうやって生きてきた!?)
 目の前にいるリックは、自分が歩むかもしれなかったもう一つの自分の姿だ。
 自分は記憶をなくし、そしてリックは記憶の喪失を──
「あい、つは……」
 ぎりっ、とリックは奥歯をかみしめる。
「あいつの名前を言うな……あいつはもう、俺は、俺の中には──」
「忘れているのか」
 カインの言葉がリックを鋭くえぐる。
「だまれ……」
「最愛の女性の名を忘れても、それでも相手を想うか」
「だまれええええええっ!」
 獣のように吠えてリックがカインに突進する。
「全ての記憶を失うことを怖れるのか」
「記憶、記憶。俺の、あいつの──そうだ、あいつへの想いが消えていく。あいつへの想いがなくなる。こんな、こんな怖いことがほかにあってたまるか……っ!」
 無闇やたらと剣を振り回す。だが、そんな理性的でない軌跡など怖くはない。
 カインが怖いのは──そう。
(俺も、怖い)
 記憶を失うこと。記憶を失ったこと。
 既に自分は、この胸につかえているセシルとローザという、大切なはずの記憶を失っている。もしもこの記憶が戻ったら自分はどういう感情になるのかが分からない。本来の自分がここにない。それが怖い。
 そしてさらに自分は忘れていく。そう。この戦いの合間にも。それが分かる。
(力を使えば使うほど、自分の記憶が薄れていく。それだけこの武器が強力だということだが)
 徐々に記憶が失われていく、それほどの恐怖をかつて感じたことはない。
「長い時を、記憶の喪失とともに生きてきたのはこの時のためだ」
 リックは強く踏み込む。
「その牙を、寄越せ!」
「それはできない」
 剣を回避しながらカインは言う。
「お前、この牙の名前すら、覚えていないのだろう」
 リックの顔に驚愕の色が浮かぶ。
「……なんで」
 どうしてそんなことがお前に分かる、と言いたいのだろう。
「俺も、忘れていたからだ」
 自分がパラディンになったことを。そして、この牙を使っていたということを。
「この牙の所持者は、どういう経緯をたどるにしても『記憶』という敵と戦わなければいけないのだな。皮肉な話というべきか」
 彼の苛立ちは自分の苛立ちだ。
 全てを忘れていく中で、唯一すがれる存在。それが自分にとっては現実のティナであり、彼にとっては彼女を生き返らせることができるかもしれないという希望。
 希望は執念となり、怨念となり、そしてこの場までたどりつくことになった。
「渡すことはできない。俺も、自分の正体が知りたいからだ」
 この牙はその手がかり。
 カオスを倒し、そして自分を探す旅に出なければならない。
「……分かった」
 リックの目が据わった。
 今までの焦燥や苛立ちが消え、体内で気を高める。
 来る。
 一撃で勝負を決し、強引に奪い取るつもりなのだ。
(天竜。力を貸してくれ)
 向こうも全力で来るのなら、こっちも全力を出さなければいけない。
 この先にカオスがいるとか、そんなことを考えていては目の前の敵は倒せない。
 温存して倒せる敵など、この神殿の中にはいないのだから。
「だ、駄目です、カインさん!」
 ミルファが叫ぶが、既に集中している二人の耳には届かない。
 ぎりぎりまで張り詰め、そして──馳せる。
 必殺の一撃が、互いに繰り出される。
 剣同士がひしぎあい、そして二人のいる空間ごと、歪む。
 何かが、欠落する。
 だが、そんなことには構っていられない。ただ、目の前の敵を倒す。倒す。倒す。
 まがい物の牙は消えうせ、本物だけが残る。
 そして、彼の心臓を、牙が貫いた──

『……嫌なものだな。かつての所持者を、自分の牙で貫くというのは』

 天竜の声が聞こえた。いったいどのような気持ちで、それを呟いたのだろう。
「あ……」
 リックは自分の目の前の光景を信じられない思いで見つめる。
「そう、か。お前だったのか、天竜」
 その衝撃で思い出したのか、リックが牙の名前を呼ぶ。一瞬、それに応えるように牙が青白い光を放つ。
「ごめんな。お前に苦しい想いをさせて。もっと早くに諦めているか、死ぬことができていればよかったんだけど……」
 こふっ、と血を吐く。
 剣を抜くと、彼の身体が前に倒れてきた。うつぶせに床に落ちる。
「リックさん!」
 ミルファが泣きながら駆け寄り、彼の身体を一生懸命に起こす。
「ラピスラズリの、指輪」
 彼の手が彼女の手に触れる。その瞬間、悟った。
 ──思い出した。
「……思い出した。君は、ミルファ、だね」
 彼は笑って、手を彼女の頬にあてる。
「大きくなった。見違えたよ」
「リックさん──私、リックさんに会いたくて」
「うん。ありがとう。でも、ごめん。そろそろ、もう……」
 リックが目を閉じる。彼の名を呼びかけても、それに応えることはない。
 だが、最後に彼が呟く。
「見えるよ。彼女が、来ている……やっと、会えた。会いたかった……」
 至福の笑みを浮かべた彼が、その身体を亡くしていく。
 やがて光に溶け、闇に溶け、彼の身体は始めからなかったものであるかのように消滅した。
「リックさん。私も、会いたかった。会えた、のに」
 こうなる運命は変えられなかっただろう。一万年という時を生きた彼にとっては、もはや元に戻ることは不可能だった。時の流れに置き去りにされたものというのは、リックにせよ、ヴァリナーにせよ、決して幸福とはいえないのだろう。
 と、そこに、カラン、と乾いた音が響く。
 見上げると、両手で頭をおさえたカインが苦しそうに顔をゆがめ、そして、ゆっくりと両膝をつく。
「頭、が……っ!」
 ミルファの顔色が変わる。やはり、天竜の牙を全力で使ったから、記憶の欠落が早まっている。
「カインさん、カインさん! 私がわかりますか、私を見てください。カインさん!」
 だが、ようやく焦点があった彼の表情には苦悶の色しかない。
「ミ、ミ──」
 必死に、自分の名前を呼ぼうとしている。だが、そこから先が出てこない。
 もう、忘れているのだ。自分の名前すら。
「ミ、ミ、ミ──すまない、君のことも、話したことも覚えているのに、名前が、出てこない」
「いいんです」
 ミルファはその小さな身体で、大きなカインをしっかりと抱きしめる。
「もう一度私の名前を呼んでください。私は、ミルファ、です」
「ミルファ──そうだ。くそっ、記憶が、混乱して……」
 思い出せることが、また、減った。
 今、目の前の敵を倒そうとした瞬間、この牙を全力で振った瞬間、何かが欠落した。大切なものがたくさん詰まった何かが。
 だが、忘れれば忘れるほど、一つの意識だけが鮮明になっていく。
「カインさん」
「大丈夫だ。俺は……何があっても、これだけは忘れない」
 そしてようやく、カインは立ち上がる。その表情は、内心はどうあれ、いつものカインであった。
「行こう。カオスを、倒しに」
 だが、それを聞いたミルファは泣きそうになった。
(もう、カインさんも戻れないところまで、喪失している)
 このままいけば、さきほどのリックと同じになる。
 想いだけが彼の体の中に残って、理性がどこにも残らない。
 それでも。
「はい。行きましょう。この先にきっと、ティナさんもいるはずですから……」
 カインは頷いた。ティナのことはまだ覚えてくれている。それがミルファを安心させた。

 だが、頷きながらカインはさらなる恐怖におびえていた。


















 ティナ──誰だ?






 それを表に出さなかったのは、ミルファを心配させたくなかったからだ。
 だが、その余計な感情が、カインとミルファとの間に決定的な溝を作っていた。






168.吟遊詩人

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