「さて、始まるか」
ドクターと呼ばれた妖精は、本来の姿に戻っていく。
人間の姿から、本来の妖精の姿へと。
「やれやれ、この姿に戻るのも久方ぶりだな」
大きさはせいぜい、人の顔くらいだろうか。小さな手足、透明の四枚の羽。それでも精悍な顔つきは変わらない。何でも知っているという、ふてぶてしい顔だ。
「名前のない状態は不便だったな。まあ、仕方あるまい」
名前がないということは万能であると同時に、強力な力が使えないということでもある。
名は体を表す──そう、自分も昔、名前を持っていた。二つの名。自分の力を高め、そして自分そのものを表していた名。
「その名は、罪と天を表す。カイン・ハイウィンド。死ぬなよ」
妖精はそう言い残して、神殿から消えた。
PLUS.168
吟遊詩人
a minstrel song
神殿の内部で転移の魔法を使う。望みの場所へと向かう。そう、きっとあの竜の武具を使う三人の騎士たちであれば、必ずやカオスを封じることができるだろう。
だが、それはまだ早い。今カオスを倒すのは得策ではない。その前にやっておかなければならないことがある。
それは──あの偽りの吟遊詩人を倒すことだ。
「見つけたぞ、ハオラーン」
竪琴を持つ吟遊詩人のもとへついにたどりつく。
大きくはない部屋。その中に椅子が一つ。そして、吟遊詩人がひとり腰掛けていた。
「ヴァリナーか」
ハオラーンが竪琴を奏でる。だが、ヴァリナーはその音を自分の意識から遮断した。
この音を聞いたら自分の身体を操られることになる。
音だけではない。彼が竪琴を奏でているという事実そのものを意識から逸らす。竪琴を決して見ないようにする。たとえ目に入っても、自分の脳裏にその竪琴が映らないようにする。
そうしなければ、結局は頭の中で勝手に音を作り出して、自分の体が言うことをきかなくなる。
「それほど警戒しなくてもよい。私は別に、そなたと争うつもりはないのだしな。私はただ、願いをかなえるだけだ」
「本性を出したな、ハオラーン。失われた世界の神よ」
ハオラーンが立ち上がる。
「──第四幕が、降りる。第四楽章は、物語の帰結。もう私は歌う要なし」
「そうだな。お前はずっと待っていた。この時を。カオスが滅びる時を。だが、そうはさせん。お前の目的は分かっている。それは──」
その、吟遊詩人の表情は変わらない。
「そう。私は物語を愛する。人の数だけ物語はある。その物語がもっとも輝く時。それは、死を目前にした人物の、絶望。死を目前にした人物の、安らぎ。死の瞬間には最大の物語がある。私はそれをもっと、もっと見たい。カオスの力を手に入れれば、今までよりも多くの死に立ち会える。そう、私が自ら死を運ぶことができるのだ」
「お前の考えは知っていた。だからこそ、この一万年の間、己を高め、お前を倒すことだけを考えてきたのだ。今の私ならば、貴様に勝てる」
「何度も言うが、ヴァリナー。私にはそなたと争うつもりはないのだ」
「戯言を。ただ単に、カオスを取り込む前に戦うつもりがないだけなのだろう。せっかくカオスを取り込むためだけにあらゆる争いを避けてきたのだからな」
「──知っていたのか」
言外に、意外な、という響きがあった。
「当たり前だ。お前のことはお前以上に分かっている。お前の狙いは、カオスに取り込まれることなく、逆にカオスを取り込むこと。そのためにはカオスの純粋な『無』に耐えられる一点の曇りもない感情──『死への渇望』で己を満たす必要があった。それ以外の一切の感情も自分の中に浮かべることはできなかった。だからこそ感情が渦巻く戦闘で、死を見ることで自分を充足させることはあれど、自分から戦闘に参加することはなかった。そうすれば自然と、違う感情が自分に生まれるからだ」
「然り。だからこそ、今はそなたと戦うつもりはない」
「そう。お前は戦うことはできない。それが勝機だ」
ヴァリナーは護身用の剣を抜く。
ハオラーンは自分の身を守るために絶対魔法障壁を持っている。そのハオラーンに魔法で勝負をかけても勝ち目はない。だからこそ、この剣で勝負をつける。
逃がさない。いや、彼は逃げられない。何しろ、逃げるというのは命を守るという行為だ。そのようなこだわりの感情を持つことすら彼には許されない。
だからこそ、絶対に勝てる。
「さらばだ、ハオラーン」
ヴァリナーが動いた。そして、剣を振り下ろせばすべてが終わる──その瞬間だった。
自分のまっすぐ前にいたはずのハオラーンが、斜めにずれた。
おかしい。
自分の視点がずれていく。
ゆっくりと、詩人の顔が上にずれていく。
なぜ?
なぜ?
何故?
「……ばかな。何故、私が、死ぬ?」
今や、完全に自分の頭は床に転がり、横を向いて目の前の詩人の足だけがくっきりと見えていた。
魔法により自分の体を守っていたヴァリナーには分かった。
自分の体が、気付けばバラバラになっていたことに。
そして、今は魔法で延命ができているが、すぐに自分の身体も動かなくなり、意思も消え去るだろう。
一万年生きてきて、最後は案外、憐れなものだ。
誰も看取るものなく、そして何も成さず、朽ちていく。
だが。
一万年の間、自分の力を高め、カオスと、この目の前の詩人を倒すことをずっと考えてきた。
それなのに。
「何故だ。何故……」
最後の力で、自分の解けない謎に挑む。
何故、自分は突然、四肢と頭までもを切断されたのか。
戦う意思のないハオラーンが、いったいどうしたというのか。
「理由は、今のそなたには分からぬ。意識を広げることができるのなら、見るがよい、私の琴を」
その言葉に引かれて、意識がハオラーンが手にする琴へと動く。
その、琴。
「弦が……ない」
そう、意識から逸らして見まいとしているのではなく。
全く、その琴には弦が張られていなかった。
「そなたが私を攻撃してくることは予想していた。だから、罠を張らせてもらった。そなたのことだ。我が琴を聴くことも観ることもないだろう。だからこそ琴から弦を外し、私の周囲に張り巡らせた。そして、私に害を成そうと近づくものを自動的に攻撃するように命じておいたのだ。そなたが後一歩の距離まで来た瞬間、私の十九本の弦は、そなたの身体を二十に分断したのだ。さあ、戻れ、私の可愛い弦たち」
空中に浮かんでいた見えない弦が、竪琴に戻る。
「……なるほど、先手を打っていたというわけか。お前がここにいたのは、私をおびきよせるため、戦いを避けるためか」
「戦いを避ければそなたの命が尽きることはなかった。残念だ。こんな簡単なことにも気付かぬとは。私がそれほど策を持たないと思っていたのか」
「ふん」
だが、ヴァリナーは、笑った。
そして目を閉じた。
──そして、この魔法王は一万年の生涯を閉じた。
「何故、笑った」
それはヴァリナーの負け惜しみか、それとも謎が解けたことによる満足か。
それとも、自身の死すら、何らかの布石だとでもいうのか。
「まあいい」
そうした疑問を抱くことも、怖れることも、自分にあってはならない。
渇望するのは、死を前にする者の存在。それのみ。
「さあ、いよいよだ。私が無を取り込む。カオスを取り込む日がついにやってきた」
そして、吟遊詩人は竪琴を持って、消えた。
暗黒神殿の外側。ただ闇の空間に一体の妖精がいる。
これから始まる戦いを前に、この闇の空間から十六の世界へ竜の武具の力が影響を及ぼさないようにしなければならない。それほどあの力は危険なものだ。
(全開で使われたなら、私の身体も持つまい)
それは覚悟している。だが、それでも自分はその任を果たさなければならない。
名前がほしい、と痛切に思った。そうすれば、きっと誰にも迷惑をかけずに自分の任を果たすことができるのに。
そう思っていたときのことだった。
ふう、と自分の近くに何者かの気配を感じる。だが、この神殿の外には誰もいない。暗黒神殿はあくまでも、神殿単独で存在している異空間だ。それを外側から見ることは自分のほかには誰もできないはず。
(──ドクター)
だが、その意識は確実に自分に語りかけてきた。
まさか、と自分を疑う。
ずっと一緒にいた相手だ。当然、分からないはずがない。
「ヴァリナー。お前、死んだのか」
自分の回りにヴァリナーがいる。最後の別れをしようと自分のところまで来ている。
「馬鹿が。無茶をするから」
ヴァリナーは自分にとって唯一の相棒といえる存在だった。ずっと長い年月をともに過ごしてきた間柄だった。
(お前に、渡すものがあった)
ヴァリナーの意識は緩やかに自分の頭に話しかけてくる。
「なんだ? お前に預けているものなど何もなかったぞ?」
残念さをまぎらわせるように苦笑する。だが、次のヴァリナーの言葉が自分を硬直させた。
(私と、そしてお前の姉から預かっていた『名前』だ)
妖精にとって、名は体を表す。
名前を取り外すことは簡単にできることではない。一族の長老が名を定め、一族の長老のもとでなくば名の交換はできない。
だが、例外がある。
かつて四つ名をもったドクターの姉も、その例外によって四つ目の名前を手に入れたのだ。
それは、妖精と人間が、命を通わせた時。
ドクターの姉も、あの天竜の牙持つリックの恋人であった女性と心を通わせ、新たな名前を手に入れたのだ。
「馬鹿な、ヴァリナー。お前、そのために死んだとでもいうつもりか。私に名前を与えるために死んだとでも」
(それこそ、馬鹿な、だ。私は自分の命が亡くなることがあった場合には、お前が最大限の力が使えるようにと、予め細工をしていただけだ。お前の姉の力を借りてな)
「お前」
(受け取れ。お前の姉から私が譲り受けた名が『ファーウ』。そして、私自身の名『ヴァリナー』。この名前をお前に渡す)
「ヴァリナー!」
(その名はもう、お前のものだ)
そして、意識が遠のいていく。
「待て! いくな、ヴァリナー!」
(お前に渡すものは渡した。さらばだ、ファーウ・ヴァリナー。それだけの力があれば、きっとあの男にも負けはすまい。あの悪質な吟遊詩人を頼む──)
そして、魔法王の命は完全に消滅した。
「あいつ……」
名前を得た妖精は、自分の髪をくしゃりと掴む。
ファーウ──その名が示すものは強化。あらゆる力を増大させる。
ヴァリナー──その名が示すものは魔法。あらゆる魔法を利用できる。
これほど妖精として強き名はなく、これほど今の自分にとってありがたいものはない。
「姉から譲り受けただと。だったら、魔法王よ。お前が姉に最後にあったのは、一万年も昔のことか。あの時から、お前に会ったときからずっと、お前はこの時のことを考えていたということか」
悔しい。
あの魔法王がそれほどまでにずっと自分のことを考えていたということが。
そして自分がかの魔法王に何も返すことができないということが。
(いや、返せる)
そう、彼の望みを最後にかなえればいい。
カオスを封じ、ハオラーンを倒す。
今、この時からそれは自分の使命となったのだ。
(だが、今は)
自分がこの場を離れるわけにはいかない。これからカオスとの戦いが始まる。自分は竜の武具が他の世界に与える影響を防がなければならない。
バリアを展開する。この暗黒神殿の全てを包む。
(ありがとう、魔法王。お前のおかげで、なんとかすべてうまくいきそうだ)
ハオラーンのことだけはどうにもならないが──ファーウ・ヴァリナーの意識が一瞬そのことをとらえたが、やがて彼はバリアの維持に全力を注ぎ始めた。
戦いが終わった小部屋。
二十に分断された死体がそこにある。
「魔法王、みーつけた」
その部屋に入ってきたのは、浅黒い肌をした女性だった。
169.暗黒騎士
もどる