何故カインが記憶を失うことになったのか、その理由はよく承知している。
 クリスタルを起動させ、カオスの闇を払うには、罪と罰に汚れた魂ではそれができない。だから、強制的にでもカインは赦されなければならなかった。
 だが、カインの心に記憶がある限り、絶対に赦しはない。カインの記憶は罪と同意だからだ。
 だからこそ、その記憶を消した。
 誰がそれを消したのか。
 考えるまでもない。

「あなたが、カインの記憶を消したんですね」

 ティナは尋ねた。












PLUS.177

開幕。レクイエム







the last episode






『記憶を失うことは定まっていたことです』
 天竜は申し訳なさそうに言う。だが、その選択を後悔しているという様子はなかった。
 竜と妖精たち、彼らの悲願はただカオスを倒すことのみ。それがかなったのだから、犠牲のことなど気にはしていないということなのだろうか。
『もちろん、カインの記憶を操作することを最初に行ったのは私です。ですが、カインから記憶を奪い始めたのは他でもない。この十六ある世界、そのものです』
「世界が」
『ええ。最初の許しが発動したとき、その赦しにカインは従わなかった。世界は彼を赦したのに、彼だけが罪にこだわって、罰を受けようとした。赦されているというのに。だから、世界は強制的に彼を赦すことにした。記憶を奪う、という方法で』
「どうして、そんな」
『それだけ、彼が高潔だということです。過去を清算するのではなく、過去と共に生きる。それだけの強さを備えた人物です。もっともそれは、彼にとっても、世界にとっても、そして周りの人々にとっても、誰にもいい結果を残すことはありません。ティナ。あなたは、カインが罪と罰で身動きが取れないでいるのを、そのままにしたいと思いますか?』
「だからって、全部の記憶を奪うなんて!」
『彼の記憶は全てリセットしなければならないのです。カインとはすなわち罪、罪とはすなわちカイン。名が体を現すように、彼はもはや罪そのものから逃れることはできなかったのです。唯一、忘却という方法を除いては』
 だからといって、自分のことも、そして大切な故郷の親友や想い人のことまで忘れさせる必要があるのか。
 赦せない。
 カインをこれだけ傷つけて、それでも『仕方のないことだった』と割り切っている天竜が絶対に赦せない。
「私は、あなたを赦しません」
 ティナは泣きはらした目で睨む。
「カインはあなたたちの道具じゃない!」
 天竜もまた目を伏せてその視線を逸らす。
『その通りです。結果的に私はカインを道具として使った。そうせざるをえませんでした。世界を救うということが奇麗事で、あなたにとっては世界よりもカインの方が大切であるということも分かっています。ですが、それでも言います。私は何度でも、世界のためならば誰でも、カインでも、それこそ自分でも、犠牲にします。それが私の宿命なればこそ』
「じゃあ! カインを元に戻して!」
『できません。先ほど妖精からも話があったとおり、何がきっかけで記憶が戻るかは分かりませんが、自然治癒以外に術はありません。それに、ティナ。あなたが言ったのですよ。たとえカインから記憶がなくなろうとも、あなたがカインの記憶になる、と』
「もちろんです」
『では、そうするといい。私の見間違いですか? 少なくとも今のカインは、罪と罰に汚れていたころのカインに比べて、十分に幸せそうに見えますよ?』
 何を、と言いかけたが一度自分が片腕に抱くカインを見る。
 すると。

 その顔が自分を見て、微笑んでいた。

(カイン)
 分かるのだろうか。
 彼にとって、自分が最大の庇護者であるということを。
「カイン、私が分かりますか、カイン」
 目をぱちぱちと瞬かせる。まるで赤子だ。大きな赤子だ。
『彼にはもう罪も罰もない。それどころか、夕焼けを一人で見なければいけない孤独もない』
 天竜が優しく話しかける。
『それは、あなたが常に傍にいるからです、ティナ』
「私が……」
『記憶がない。それは確かに辛いことかもしれません。ですが、それ以上の辛いことを常に心の中にひそませて、心身を削りながら生きるより、これから新しい命を、あなたが愛情を注いで育ててあげる方が、彼にとっては幸せなことではないのですか?』
「それは──」
 だが、ティナは首を振った。
「確かにそうかもしれません。カインの幸せを考えるなら、昔のことはない方がいい。でも、カインはそれでも、記憶を失うことよりも苦しみながら生きることを選ぶと思います。だって」
 ティナは涙を流した。
 その事実を認めるのは嫌だ。だが、事実は事実なのだ。変えようがない。
「その苦しみの中には、カインにとって最も大切なものがあるんだから……っ!」
 セシルとローザ。
 あの二人以上に、カインにとって必要なものなどない。二人に比べたら自分など都合のいい女にすぎない。
 それは自分でもずっと分かっていた。彼の心には別の女性がいて、信頼できるパートナーがいて、自分はそのどちらにもなれない。もしも彼の隣に今セシルがいたら、ローザがいたら、自分は容赦なく捨てていかれるのだろう。
 そんなことは分かっている。
 それでも自分はカインの傍にいると決めたのだ。カインが苦しむ限り、自分の全力で彼を愛すると決めたのだ。
「カインにとって一番大切なものを、返して」
『それは、あなたが教えてあげるのですよ、ティナ。または、思い出させてあげるといいでしょう』
 天竜は首を振った。できない、と。
『いつの日か、彼の記憶が戻るときもあるでしょう。その時には、これを』
 天竜はそうして、一つの武器を生み出す。
『私の牙に似せてつくった武具です。彼の武具は折られてしまいましたが、これはその武具を上回る強度です。いつか彼の記憶が戻った時に渡してあげてください』
 天竜の槍。
「何故、槍を」
『やはり彼には、竜騎士でいることが似合いますから。そうは思いませんか?』
 ティナは言われて思い返す。
 初めて彼が戦ったところを見たのは、あのガーデンの中。土のカオス、リッチに襲われた時。
 そう。彼はその槍で自分を守り、勇敢に戦った。その後は槍を全く使えなくなってしまったが、それでも彼は常に槍にこだわり続けた。
 最後、カオスにとどめをさしたのも、槍。
 やはり彼には、槍が似合うのかもしれない。
「そう、ですね」
『では、渡しましたよ』
 そして天竜はカインに改めて話しかける。

『カイン。あなたは私にとって、最良のパートナーでした。あなたにはその意識がなかったかもしれませんが、私の力をこれほどよく発揮し、そして解放したのは他におりません。それだけでも私にとっては最良だったのですが、あなたの魂はそれ以上に気高く、高潔でした。私は人間であるあなたを、尊敬すらしていました。
 あなたの記憶を奪おうとしたのは世界ですが、それに方向性を持たせたのは私です。あなたの記憶から、カオスを倒すという意識だけは残るように、そして世界があなたの記憶を切り取っていくのを、できるだけ最低限度におさえようと、罪と罰に関するところだけにとどめようとしました。ですが、結局こうなってしまったのは私の失敗です。本当に、ごめんなさい。
 あなたが再び記憶が戻ったとしても、それは罪と罰の記憶が戻るということでしかありません。この状況の方があなたにとっては幸せなことだと私は確信すらしています。忘却は神が与えた最良の赦し。ですが、あなたがその罪にこだわる理由も、その想いの強さも私は分かっています。それなのに強制的に忘却を与えてよいのか。私も悩みました。
 ですが、始まってしまったものは止められません。私は世界を守るという名目上、あなたを戦場へ導き、そして辛い選択を何度もさせました。私こそ赦されるべき存在ではありません。いつかあなたの記憶が戻ったなら、私を殺しに来ても文句が言えないほどに。
 ですが、これだけは覚えておいてほしい。カイン。
 私は、あなたのことがとても好きでした。
 今度は世界や罪と罰といったことを抜きに、ただの友人として会うことができるなら幸いです。もっとも、人間と違って我ら竜族には転生という手段がありません。未来永劫それが叶わないのは残念です。
 せめて、またあなたの手に私の牙が握られることがあれば幸いです。ですが、次の戦いはおそらくまた何万年、何十万年という未来のことでしょう。あなたがそこにいるはずがありません。これから先、あなた以上の使い手が出ることもないでしょう。
 ですから私は、今回あなたと共に戦えたことを誇りに想い、そして未来永劫あなたのことを忘れずに戦い続けます。世界を守るために。それが、自らを犠牲にしてもこの世界を守ってくれたあなたに対して、せめてもの恩返しであり、償いです。
 さようなら、カイン。もう二度と会えないでしょうけれど、私はあなたと戦えて、幸せでした』

 そして、天竜が消える。
 その最後の瞬間。
 記憶をなくしたカインが、確かに天竜の方を向いた。
 そして、あどけない笑顔で、手を振ったのだ。
『カイン』
 かすかに天竜の声は震えていたかもしれない。
『ありがとう。本当に、カイン。ありがとう──』

 天竜は、この世界から去った。






「終わったな」
 ドクターが言う。
 三通りの別れと三通りの結末。
 そしてそれを見届けた何人かの仲間たちは声もなかった。
 スコールだけが唯一幸せな別れ方をしたが、カインとセフィロスにとってはこれほど苦しいこともない。いや、苦しいのは彼らではなく、置いていかれたティナとセルフィか。
「結末というのは、苦しいものなんだな」
 ブルーが苦々しく言う。アセルスも神妙な顔で頷く。
 自分たちはお互いを失うことなくすんだ。もちろん朱雀は死んだし、自分たちにとっても仲間が苦しんでいる状況は見たくない。だが、ブルーにとってアセルス、アセルスにとってブルーという、かけがえのないものだけは自分の手に残っている。
 その自分たちが、セルフィやティナにかけられる言葉がはたしてあるのだろうか。
「さて、それでは私もそろそろ、この生涯にピリオドを打とう」
 そしてドクターが二人に話しかけてきた。
「ドクター?」
「先ほども言った通りだ。私は残念だが、もうこの体を保つことはできない。いや、この魂を保つことはできない。妖精としての力をこの戦いで全て放出した以上、私はもう寿命を迎えたと言っていいだろう」
「そんな」
「嘆く必要はない。カオスを倒した。それで私の悲願は達成されている。この後何が起ころうとも残った十六の世界は続いていく。負けるなよ。吟遊詩人はその残った世界を滅ぼそうとしているのだ。お前たちだけが吟遊詩人を止められる」
 戦いは、続く。たとえどれだけの犠牲を出しても。
「分かった。必ずこの世界は守ってみせる」
「うむ──水竜、いるか?」
 すると、そこにもう一匹の竜が現れる。やはり等身大だ。
『ええ、もちろん。私にとってもミルファがいない以上、これが最後の役目ですから』
「では、後のことを頼む。私はもう限界だ」
『はい。残念です。あなたとは長い盟友同士だっただけに』
「気にするな。盟友など時と場所によって変わるもの。これから先、お前にもいくらでも盟友はできるだろう。それよりも──」
 ふ、とドクターは笑った。
「私が生きている間に、お前と天竜の子が見たかったがな」
 水竜も笑った。
『そうですね。この戦いが終わった以上、少し時間がありますから、次世代の竜を産むのもよいかもしれません』
「お前と天竜の子ならば、良い子に育つだろう。その未来が見える」
 そう言ってドクターは目を閉じた。
「長い戦いだった。だが、そう。未来が見える。これほど安らかな気持ちになれたのは、いつ以来のことだったか……」

 そして。
 この世界を守った影の功労者も、その命の灯が潰えた。






『それでは、皆さん』
 カイン。ティナ。スコール。リディア。セルフィ。ブルー。アセルス。
 七人のメンバーが、世界を渡る。
『最後の決戦の地へ、皆さんを送り届けます。どうか、吟遊詩人をよろしくお願いします』
 そうして、最終決戦場──フィールディへ、七人は飛んだ。


















 目覚めると、空には太陽が昇っていて、優しい風が流れている。
 七人が徐々に起き上がる。もっとも、記憶をなくしたカインだけはその場で空を見ながら笑っている。
 その彼を抱き起こすのは当然ティナだが、さすがに大きすぎる赤子なので、片腕の彼女一人で支えるのはいささか大変そうだ。
 セルフィがその隣に立って手伝う。
「ありがとう、セルフィ」
「気にせんといて」
 セルフィも何か悟ったかのように笑った。もっとも、彼女の中には詩人に対する怒りと復讐心がたぎっているのだろう。
 できれば彼女を手伝ってあげたい。だが、ティナにとってこの世界でやることはもう決めている。
 カインの記憶を取り戻す。
 そう、自分がカインの記憶となるのだ。カインに記憶を取り戻させるのだ。



 その、新たな物語の開幕。
 その一ページ目に記載されるのは、意外な男の登場からであった。



「どうやら無事にカオスを倒したみたいですね。もっとも、私の見込んだ方々です。当然といえば当然なのでしょうが」

 全身漆黒の肌。
 淡い緑白色の髪。
 そして、暗黒騎士の鎧。



『悪しき者』、マラコーダ。






178.暗黒騎士の制約

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