「つまり、記憶というものは一種の物質だ。それを取り除けばなくなるし、ブロックをかければ引き出すことはできない。でもこうしてカインは日常会話を少しずつ取り戻してきている。もし記憶がなくなっていたらまだ会話なんかとうていできないはずだ。だから、世界がカインの記憶を奪ったというのは、きっと後で回復することを考えてのことだと思う」
ブルーの考察にティナはがんばってついていこうとしたが、アセルスは二文目くらいで既に考えることを放棄した。カインは何を言われているのかまったく分からずにぽかんとしている。
「じゃあ、そのブロックを取り外せば」
「理屈でいえばカインの記憶は戻る。問題はそのブロックが何で、ブロックを取り外すものが何かということなんだ。天竜が言っていたように、彼に縁のある人物に会わせたりするというのは、何がブロックを解く鍵なのかが分からないからだ。だから、こういってはなんだけど、彼の記憶を回復させるには、元の世界に戻すのが一番いいと思う」
ティナもしっかりと頷く。それをティナも考えていた。だが、この戦いの間はそれができないことも分かっている。自分は空間を渡る能力はあるとはいえ、それを意識して行うことができない。この中でそれを行えるのはリディアだけだ。彼女は幻獣界を通して別の世界へ行き来することができる。だが、それ以外となるとブルーですらクリスタルの力やヴァジュイールの力を借りなければ満足に世界を渡ることができないのだ。
だから現状ではそれができない。ハオラーンとの戦いを前に、リディアの力を借りて彼を元の世界に返すようなゆとりはない。
「私は、この戦いに参加しないで、ずっとカインの傍にいようと思うんです」
ティナはたいへん申し訳なさそうに言う。
「もうカインを、戦いに出したくないんです」
一人の戦士がいなくなることの辛さは自分が一番よく分かっている。だがブルーはあっさりと「それがいいだろうね」と答えた。
「すみません」
「いや、正直に言うと今のカインを一人にはしておけないという問題があるからね。ティナが一緒にいてくれるなら安心できる」
「でも、私」
「いいんだ。カインは充分に自分を犠牲にした。今度は彼のために僕らが死力を尽くす番だ。カインにはゆっくりしていてもらうよ。ティナにもね」
ブルーが言うとアセルスも「そうそう」と続けた。
「それに今のティナじゃ、多分戦力にならないよ」
「どうしてですか」
「だって、カインと離れてたら、気になって気になって目の前の戦闘に集中できないだろ?」
まったくその通りだった。ティナは赤面した。
PLUS.183
決着の墓場
He can't save his partner.
ブルーとアセルスが戦場にたどりつくと、そこは凄惨な殺戮の場と化していた。
暴れまわる月のモンスターたち。以前の『月の涙』で落ちてきたモンスターたちが雪崩を打ってエスタに入り込んでいる。エスタ兵たちがなんとか食い止めてはいるものの、全滅も時間の問題のように思われた。
「邪術奥義、激痛!」
そのモンスターたちに向かってブルーが魔法を唱える。一瞬、ほんの一瞬敵全体の体に激痛が走り、それで敵の攻撃はキャンセルされた。
歴戦のエスタ兵にはその一瞬がどれほどありがたいことか。無防備となったその隙をついて、次々とモンスターが屠られる。そして続けてブルーの魔法が飛ぶ。
「陰術、シャドウネット!」
何体かのモンスターの体が麻痺を起こす。こちらはさらに効果的だった。全く動けなくなった敵がエスタ兵によって倒されていく。
こういう場合、強力な魔法で敵を自分から倒していくよりも、味方の兵ができるだけ楽に敵を倒せるようにした方がいい。自分も味方もそれが一番楽なのだ。
「それじゃ、いくよ」
アセルスが剣を抜き、人間体のままで突撃する。他のエスタ兵よりも体力的にも能力的にも上回るアセルスが活躍するのはごく当然のことであった。
「遅いぞ、と」
レノがやってきたブルーの隣に立って言う。そしてゆっくりと煙草に火をつけた。小休止、ということらしい。
「回復を?」
「別に怪我はしてないぞ、と」
ふう、と煙を吐き出す。そしてゆっくりと戦況を眺めた。
ブルーの二度の魔法、そしてアセルスの加入で俄然勢いづいたエスタ兵たちが盛り返していく。半ば混乱状態に陥っているモンスターたちは一体ずつ確実に数を減らしていた。
「アンタ、随分と体力がなくなっているぞ、と」
「分かるかい」
レノは肩をすくめた。確かにブルーの魔力は幾分回復したものの、完全というわけではない。
ラグナロクでこちらに移動してくる前に一晩休んだものの、回復が順調ではないことにブルーも驚いている。完全とはいかずとも、ある程度戦力になるくらいは回復できると思ったのだが。
「クライドは?」
「旦那なら、あそこだ」
少し離れたところで一対一の勝負をしている黒装束の男、シャドウがそこにいる。
ただその相手は幽体、ゴースト。決定的なダメージを与えられないままに、シャドウはそれでも勇敢に戦っていた。
「あれがクライドの相棒、か」
「アンタ、そのこと知ってるのか」
「話だけは聞いた。仲間のことを知らないと作戦を立てることはできないから」
レノとクライドがドールで巻き込まれた事件についてはエルオーネから聞いた。そしてティナからクライドについて、イリーナからレノについてそれぞれ時間のあるときに聞いている。その戦い方から癖、考え方まで。
「敵を知る前に味方を知れ、か」
「ああ。味方のできることとできないことを知らないと配置ができないだろう?」
「まったくだぞ、と」
そして吸い終わった煙草を捨てて足で踏み消す。
(そうだ。ドールで……待てよ)
ブルーがその話を思い出す。
レノとエルオーネがドールへ向かった。そこでレノに会う前に──
(レイラ)
あの少女。ブルーは直接の面識はないが、レイラが成長した後にリディアに語ったところでは、レイラとリノアは異父姉妹だとか。
(リノアの母は、ジュリアとかいったな)
ジュリアは亡くなったという話だったが、当然その後でキロスと出会っているのだから、死んでいるのではない。生きて、どこかに身を隠しているのだ。
おそらく、今でも。
(その人物に聞けば、ハオラーンやレイラのことが少しなりとも分かるだろうか)
問題はその『ジュリア』なる人物がどこにいるのかが分からないということだ。それさえ分かればラグナロクですぐに行くのだが。
「何考え込んでるんだぞ、と」
レノに指摘されて、ブルーは頭を振った。今の考えを突き詰めるのは後でいい。今は目の前のモンスターを倒さなければ。
「頼むぞ、レノ」
「任せとけ、と」
レノはショートガンブレードを握ると、そのモンスターの群に踊り込んでいった。
「決着をつけよう、ビリー」
シャドウは一撃の刃を握りなおした。
ビリーは幽体ではあったが、シャドウの攻撃は何故かビリーまで届く。魔法がかけられているのか、一撃の刃が確実にビリーを切り裂き、ダメージを与えているようであった。
「く、くら、い、ど」
ビリーが一瞬消える。シャドウは瞬時に左にずれた。彼のいた場所に亀裂が走る。
「隠れても無駄だ、ビリー。俺にはお前の波動がよく分かる」
「お、お、お、お」
シャドウの回りを黒いリング上の影が走る。そのまま影が中心にいるシャドウに向かって収縮する──が、シャドウはそれを飛んで回避した。
「成仏しろ、ビリー」
そのまま空中から真下の影に向かって一撃の刃を放つ。それが確実にヒットしたのか、断末魔の悲鳴が上がる。鈍い音だった。
「影の技を俺に教えたのはお前だったな、ビリー」
着地と同時にシャドウの姿が消える。直後、ビリーの影の背後にいた。手には既に、一撃の刃が戻っている。
「後世にお前の名を残す」
一撃の刃が、シャドウの影を両断した。その影が徐々に薄くなり、消え去る。
だが、その直後にシャドウは身構えた。誰も敵はいないはずなのに、そのままの体勢で動かない。
(手応えがない)
今まで相手にしてきたし彼だからこそわかる。今のはビリーの本体ではない。
(どこにいる、ビリー)
周囲に意識を払うが、どこにもその波動を感じられない。
影の術を教えたのは、ビリー。そう、自分の技はビリーの直伝。
(……そこか!)
シャドウは一撃の刃を放った──自分の影に。そして確実に命中する。だが、やはり手応えはなかった。
直後。
「おしいな。私はお前の体の影にいたのではない。心の陰にいたのだ」
その声が、自分の内側から響いた。そう。今、声を出したのはまぎれもない。
自分だ。
「これは」
「驚いているようだな。既に同化は終わった。私はお前の体を乗っ取り、お前を本当に影にしてくれる。この体、いただくぞ!」
身動きが取れない。金縛りにあったように、完全に自由が制限されている。
「くっ、くううううっ!」
「さあ、浄化の時間だ、消えうせろ、クライド!」
シャドウを中心に爆風が生じた。戦いに見入っていたブルーとレノは、一瞬そこから目を背ける。
「どうなったんだぞ、と」
レノがサングラスをかけて状況の把握を行う。
その爆風を起こしたシャドウは、黒装束を着たままで笑い出した。
「くっくっく、はっはっはっはっはっはっはっは! 手に入れた、手に入れたぞ、この体を!」
シャドウの体が雄叫びを上げる。まずい状況になったということはブルーもレノも分かった。だが、これもクライド自身が望んだことならば仕方のない結果ということだろうか。
「どうする?」
「倒すしかないぞ、と」
レノはそこに感情をこめない。タークスは与えられた任務を完璧にこなす者であって、それ以上も以下もない。
「仕方がないか。だが、仲間に向かって攻撃できるのか?」
「仲間?」
ふん、とレノは馬鹿にしたように笑った。
「そんな感情に左右されるほど、鍛え方は甘くないぞ、と」
レノがショートガンブレードを構える。それに気付いたのか、シャドウがこちらを向いた。
「悪いな、旦那!」
ガンを放つ。シャドウの体がそれを避けるように飛び上がる。再び狙いを付け直すが、それよりも早く空中でその体が動いた。気付けば既に後ろを取られている。
「なっ」
「遅い」
一撃の刃がレノの背中を切り裂く。こんなにも簡単に背後を取られたことはかつてない。強い。いや、これが本当のシャドウの実力なのか。クライドの時はパワーをセーブしていたのか。
「マジック・チェーン!」
「弱い」
魔法の鎖がシャドウに絡みつくが、それを引きちぎった衝撃でブルーが弾き飛ばされる。
「くっ、魔力さえ戻っていれば」
少なくともこんな相手に苦戦することはないのに、とブルーが歯をかみしめる。
「クライドの体か。これほどまでに使い勝手がいいとは、おそれいる」
一撃の刃を回し、逆手に持ち変える。
「さあ、とどめだ」
そしてシャドウが動いた、その時──唸り声と共に一匹の犬がそのシャドウに噛み付いてきた。
インターセプター。
「くっ、なんだこの犬」
左腕をかまれたシャドウは払いのけるわけではなく、そのまま腕を前に差し出し、同時に右手の一撃の刃で、その首を貫いた。
だらり、と力がなくなったインターセプターが、ゆっくりと大地に落ちた。
「ふん、クライドの飼い犬か。手間をかけさせる──?」
その左腕をさすろうとしていたシャドウの動きが止まる。
(インターセプター)
体の中から、消し去ったはずのクライドの意識がせりあがってくる。
「ば、ばかな、この体が、動かぬ?」
「よくも、インターセプターを」
その口から、二つの声が同時に出る。一つはビリーの意識、もう一つはクライドの意識。
二つの意識が、その体の支配権をめぐって争っているのだ。
「許さぬ。ビリー、お前は、俺の大切な相棒を奪った」
「許さぬ? それはこっちの台詞だ!」
「お前はもう人間ではない、ビリー。仁義を失くした者はもう、悪鬼だ。俺たちは列車強盗団だったが、人の命を奪ったことはない。それが誇りだった──違うか」
「たかが犬に!」
「たかが──そういう言葉が出る時点で、お前はもう昔のお前ではないのだ」
徐々にクライドの支配率が高まる。その体から、再び影が投出される。
「ビリー、これが最後だ!」
逆手にもった一撃の刃を、今度こそその影の中心につきたてた。
「がっ、がああああああああああっ!」
「今度こそ安らかに眠れ、相棒」
徐々に影が薄れていく。
「く、く、くらい、ど」
「お前の名は忘れぬ。そしてお前の技も、後世に必ず残そう。ビリー。お前は俺の最高のパートナーだ。いつまでもな」
だが、その影は鼻で笑った。
「おまえ、が、こっち、に、くる、の、を、まって、いる」
ふは、ふはは、ふははははははは!
その笑い声と共に、ビリーの意識は消え去る。
完全にその幽霊は消滅したのだ。
「インターセプター」
そして、その場で既に命を落としている愛犬を抱き上げる。
「すまない。俺が、しっかりしていれば、こんなことには」
そのシャドウの瞳から涙が零れていた。
人間以上に、いや、人間ではないからこそ、最も信頼のあった相手。もはや自分の一部ですらあったインターセプター。
シャドウにとって、これほどの罰は、他になかった。
184.月影の墓標
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