物語は三度、始まりの地へと戻ってきた。
 イデアの家。ここは、カインが初めて降り立った場所。
 全ての物語はこの場所から始まり、そして今にいたっている。
 もはやその頃の記憶などまるで残ってはいないが、それでも何となく、その景色には見覚えがあるような気がした。
 孤児院として使われたその家に、どことなく既視感を覚える。
「カインはこの家のことを覚えてる?」
 イリーナが尋ねてくるが、カインはただ首を振った。これは覚えているというレベルのものではない。単にそう感じるというだけのことだ。
「私、ここで初めてカインに会ったんだよ。もー、カインってば怖くって怖くって」
「それはすまなかったな」
「いーえ。今でも怖いのは変わらないし。ただ、以前よりちょっと優しくなったかな。あ、いや、優しいのは最初からだけど、何ていうか、親しみやすくなったっていうか」
「そうか」
「ま、それというのもきっと、ティナのおかげなんだろうけどね」
 隣にいたティナが顔を赤らめる。相変わらず、純情な娘だった。
「しばらく考えさせてくれ。いつまでここにいられる?」
「ん、一日はここにいても大丈夫」
 カインは少し考えてから「ありがとう」と答えた。そして、そのイデアの家を歩き回ってみる。
「ん、今のは勘づかれたかな」
 カインがいなくなってからイリーナが呟く。ティナが不思議そうな表情を浮かべた。
「いや、実は緊急で戻ってこいとは言われてるんだけど、カインを焦らせたくなかったから」
 ティナは苦笑する。確かに向こうも急いでいるのだろうが、こちらも正念場だ。
 カインの記憶は必ず戻る。そう信じている。
 だが、もし戻らなければ。
(……リディアに、幻獣会の方からカインの世界に戻してもらわないと)
 もちろんその時は自分もついていく。それは決して譲らない。その覚悟はとうにできていた。












PLUS.199

あの日から







"Now, are you still No Problem ?"






 自分が何者なのか、ということは考えてもよく分からない。
 だいたいのことは既に知識として理解している。自分がどのような人生を送り、そしてどのようにして行動してきたのか。
 自分は、罪人であるらしい。
 かつて自分の友人と、その恋人、二人を裏切った。何故裏切ったのか、どのような行動をしたのかは知らない。それはティナですらあずかり知らぬこと。おそらく同郷のリディアは知っているのだろうが、彼女と話す機会は多くなかったし、話せるときには自分はこれだけ思考ができる状態でもなかった。
 こちらの世界に来てからは、その罪を償うかのように戦い続けた、らしい。
『変革者』という立場から、いくつもの世界から集まってきた人々をまとめ、導く役割を担った。そして世界を救うために必要な『クリスタル』を起動させ、三つのクリスタルを一つにまとめて世界を滅ぼそうとする『カオス』と戦い、打ち勝った。
 その中で徐々に記憶を失い、さらには自分の体も満足に使えなくなっていった。最後にはカオスを倒したらしいのだが、話を聞く限りではその状況でどうやって倒したのか、謎だ。
 よほど運が良かったのか分からないが、多少は誇大に話していることもあるのだろうと思う。
 もともとは竜騎士で、一度死んで(この辺りも本当か難しいところだが)蘇ったときに竜騎士としての力を失っていた。おそらくはそのときから自分の記憶の喪失、そして身体の変調は始まっていたものと思われる。ただ、その蘇る過程で自分は竜騎士からパラディンにクラスチェンジしたようだった。
 パラディン──聖騎士。それは、かつての自分の幼なじみのクラスであるらしい。
 自分はその幼なじみ、親友を裏切った。その裏切った相手のクラスになるというのも皮肉なものだ。

 自分は何故、裏切ったのだろう。

 ただ、だいたい予想はついている。男が二人に女が一人。予想というよりも、明確な結論だ。
 嫉妬。
 自分の大切な幼なじみを嫉妬しなければならない感情というのは、どのようなものなのだろう。全てを失ってしまった今の自分には分からない。
 その女性、ローザを愛していた自分。そして、そのローザが愛していた自分の親友、セシル。
 自分はその二人をとても好きで、それでいて、とても憎んでいた。
 その矛盾する気持ちを、当時の自分はどのように制御していたのだろう。いや、制御し切れなかったからこそ『裏切る』行為をしたのだろう。
 自分はいったいどのような罪を犯したのだろう。
 思い出せそうなのに思い出せない。その記憶は、きっと自分が自分であるための、核となるもの。それが思い出せなければ、きっと自分はいつまでも自分に戻れない。
 だが、もしも戻れば──
(今の、俺の気持ちはどうなるのだろう)
 今の自分は間違いなく、ティナのことが好きだ。
 献身的に自分を守ってくれる優しさ、一途に自分を慕ってくれるけなげさ、罪人であるらしい自分にはすぎた女性だと思う。傍にいていいのなら、ずっと傍にいたい。
 だが、もしも自分の記憶が戻ったとき、ティナよりも、そのセシルやローザといった故郷の人間たちの方が大切に思っていたとしたら、自分はティナを捨てていくことになるのだろうか。
 今の自分はそれを望んでいない。だが、記憶が戻れば違うかもしれない。
 そんなにも二人のことを気にしていたのだろうか。今、すぐ傍にいるティナすら霞んで見えなくなるくらい。






「カインの傍にいなくていいの?」
 イリーナから尋ねられたティナは小さく頷いた。
「今は一人の方がいいと思います。私がいると気を使わせてしまいますから」
 ふうん、とイリーナが少し不満そうに答える。そしてラグナロクから持ってきたお茶を含む。
 今はカインの傍にいない方がいいと言ったのは、半分事実で、半分自分が弱腰になっているせいだ。
 カインの記憶はあと一歩のところで取り戻せるところまできている。だが、彼は今過去の自分と現在の自分との間で板ばさみになっている。
 記憶を取り戻したとき、ティナのことを何とも思わず、故郷に帰ってしまう。そんな結論にたどりつく可能性だってある。
 記憶のない今の彼はそんなことをしたくないのだ。自分の傍にいたいと本当に思ってくれているのだ。
 それは自分としては幸せなことだ。そしてずっとこのままでいられたなら、自分はいつまでも幸せでいられる。
 だがそれを相手に押し付けることはできないし、いつまでも失った記憶に振り回されるのも辛いだけだ。
 それは分かっているのだが、同時に自分も弱腰になってしまっている。
 記憶が戻れば、彼の一番が自分でなくなる。それが分かっているだけに、無邪気にカインの傍に近づくことができないでいる。
 怖い。
 彼が自分を捨てていく日が近づいているのが、怖い。
 彼がいなくなったら自分はどうなるのだろう。初めて会ってからずっと、カインのことばかり考え続けてきた。
(最初から分かっていることだったのに)
 彼と別れる日が来る。彼が記憶を取り戻せば必ずそうなる。
 それを知っていて彼に記憶を取り戻させようとしたのは他ならぬ自分だ。
 自分との思い出も何もかも失くした彼。それでも幸せならばそれでいいのかもしれない。
 だが。
 たとえ苦しくても、辛くても、後悔しても、自分のことが一番に想ってくれなくても。
 自分は、カインに記憶を取り戻させると誓った。
 誰よりもカインを愛しているからこそ、カインにカインらしくあってほしいと願った。
 別に今のカインがそうでないとは言わない。
 だが、彼の心は常に求め続けている。
 自分ではない、故郷にいる親友と、その恋人のことを。
「私は、ティナが遠慮することはないと思う」
 イリーナもお茶を飲みながら、悩みこんでしまったティナに言う。
「記憶が戻ったって戻らなくたって、カインにはティナのことが必要だと思うよ」
 その自信がないとは言わない。
 ただ、彼にとって自分が一番ではない。それはほぼ間違いない事実なのだ。
「ありがとう」
「お礼を言われるほどのことでもないけど」
 そんな会話をしていたら、隣の部屋からカインが戻ってきた。
「あ、カイン」
 記憶は戻ったのだろうか、と二人の動きがわずかに止まる。だが、それを察したのかカインはただ首を横に振るばかりだった。
「そっか」
「すまなかったな。二人には迷惑をかけた」
「気にしないで、カイン。私たちだって、好きでやっていることだもの」
「そうそう。お兄ちゃんは自分のことだけ考えてればオッケ〜だから。それにさ、二人ともに言っておくけど」
 イリーナは二人を見比べてから、コホンと一つ咳払い。
「今のお兄ちゃん、以前のお兄ちゃんとほとんど変わらない感じだよ。仮に記憶が戻ったとしても、劇的に何かが変わるとは思えない。たとえ──お兄ちゃんが一番に誰のことを好きだったとしても、だからティナを捨てていこう、なんてことにはならないと思うな。それにさ」
 イリーナは一度舌をぺろりと出して付け加えた。
「その、故郷にいるお兄ちゃんの想い人には、どうせ振られてるんでしょ?」
 随分と乱暴なことを言うが、それはおそらく正解だ。だから記憶が戻ろうが、ただちに故郷に戻る、戻らないの話にはならない。
 それは分かっている。分かっているはずなのに、不安はつきない。
 記憶が戻ってもカインとティナがすぐに別れるということにはならない。それなのに、今の関係自体は完全に終わりを迎えるのも事実なのだ。
「ああ。ありがとうな、イリーナ」
 カインは苦笑して答える。はっきりと振られたと言われたものの、それが完全に自分のことだと認識できなかったこともある。
「それで、これからどうするの?」
 カインは尋ねられて、少し考えるように目を細める。
「一日、時間がほしい。イリーナには迷惑をかけるが」
「かまわないよ。向こうからはできるだけ早く戻るようには言われてるけど、大至急っていうわけでもないみたいだから。一日や二日、カインの好きにしたらいいと思う」
「ありがとう。持つべきものは、話の分かる妹だな」
 それを聞いて今度は逆にイリーナの方が困ったような顔をした。
「どうした?」
「ティナ。この鈍感男に後で強く言っておいて」
 イリーナはこめかみを押さえてティナに言う。くすくすとティナは笑って頷く。
「じゃ、私、一旦ラグナロク戻ってるから。二人は一日こんな何もないところだけど、束の間の新婚生活でも楽しんでくださいな」
 そう言ってイリーナが出ていくと、カインは「どういうことだ?」とティナに尋ねる。
「イリーナも、カインのことが大好きなんですよ」
「それは、分かるが」
「だから、妹扱いされるのは嬉しいけれど、面と向かうと釈然としないっていうこと」
 ティナの冷静な分析に、カインがまた考えるような顔つきになる。
 実際、ティナも自分が驚くほどイリーナの気持ちが冷静に判断できるようになった。自分も前の世界では人の心や感情というものが全く分からず、苦労したことがある。
 こうして感情を持つようになると、誰かを好きになるということだけではなく、人の心まである程度分かるようになるものらしい。
「もう、日が暮れますね。ラグナロクから食材は持ってきてるので、何か作りますね」
「ああ」
「でも、本当は私よりカインの方が料理が上手なんですけど」
 言われて首をかしげる。
「そうだったのか?」
「はい。一度カインから料理を教わったことがあるんですよ。すごい厳しい先生でした」
 そんなことがあったのかと苦笑する。そして、先ほどから随分と笑う回数が増えているということに気付いた。
「片腕で大丈夫か?」
「はい。凝ったことをするわけじゃないですから。でも、少しだけ待っててくださいね、カイン」
 ティナは嬉しそうに台所に向かった。
(記憶か)
 手馴れた様子で台所を使うティナを見ながら、ぼんやりと考える。
(本当に、戻るのか? こんな調子で)
 ここが最後の場所だというのに。
 やはり、ここからさらに元の世界へ戻らなければならないのだろうか。
(そうなったとしても、ティナはきっとついてきてくれるのだろうな)
 だが、記憶が戻るまではなるべく故郷に戻りたくはない。
 記憶を失う前の自分を、その二人がどう思っているのかが分からないから。






 日が暮れて、また明ける。
 今日はもう、エスタへ向けて旅立たなければならない。朝早く起きたカインは、外で昇る朝日を見つめていた。
「早いですね、カイン」
 既に身支度を整えているティナが後ろから声をかけてくる。
「ティナほどじゃない」
「それじゃあせっかくですし、朝の散歩にでも行きましょうか」
「それもいいな」
 そして二人はイデアの家を出て、その近くを歩く。
 一面に広がる荒野──のはずが、視界に何かたくさんの色合いが見える。
「あ、花畑があるんですね」
「花畑?」
「はい。あそこです」
 ティナはそのたくさんの色を指さす。
「花畑……」
 何となく。
 そこに、感情を揺さぶられる何かがある。

(…………ぶ?)

 ふと。
 誰かの、声が聞こえたような気がした。
「何か、言ったか?」
「はい?」
 だが尋ねても答えるはずがない。当たり前だ。自分でも分かっている。
「あそこに行ってみよう」
「はい」
 ティナは左手でカインの手を取る。取った手がやけに冷たいということにティナは気付いたが、それより先に早足で歩くカインの様子の変化の方が気になった。
「ここ、は」



 一面の花畑。

 手入れがされているわけでもないだろうに、咲き乱れる花、花、花。



 その、むせかえる程の花の匂いが、鼻腔から、脳を刺激する。



 知っている。

 この場所を、自分は、知っている。

 そして、その中心に立つべき女性の姿も、はっきりと見える。



『だいじょぶ?』



 その声が、頭の中に確かに届いたとき。












 彼は、一度に覚醒した。





200.そして全てが始まる

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