時は来た。
PLUS.200
そして全てが始まる
Ask, and it shall be given you
『だいじょぶ?』
耳。それが、第一声。目が覚めたときに最初に聞いた言葉。
目。優しさと、少しの心配をこめた笑顔。
鼻──そう、この自分の周りを包む、くらむほどの香りの花の匂い。
覚えている。
自分は、この花の匂いを覚えている。
あの女性はそれから、何と言っただろうか。
深い緑色の瞳をした、はかなげで神秘的なあの女性は、自分に何を言ったのか──そう。
『お花、クッションになったみたい』
自分がようやく、花の上にいたことに気付く。
どうしてここにいるのかは分からないが、自分のいる場所だけはその声で分かった。
花の匂いが、さらに身体をめぐる。
『運、いいね』
疑問に思ったのは、自分のどこが運がいいのかということ。
『空から降ってきて、ほとんど怪我がないなんて』
ああ。
覚えている。
覚えている。
覚えている。
お前は確かにそこにいて。
いつでも自分のことを見ていて。
そして──自分を助けてくれた、赦してくれた女性。
『ね、私のこと、覚えてる?』
覚えている。
『私は、』
覚えている。
『私は──』
覚えている!
「お前は、エアリス……っ!」
エアリス・ゲインズブール。
自分とは違う世界から来た女性。
そして、自分の罪を赦すためだけに、その命を永らえさせられた、かわいそうな女性。
『もう、目が見えないの』
生きる力を徐々に失い、それでも自分を赦すという使命を果たすことだけを考えて。
彼女は全てを失った。
自由に動く体も、すべてを見る視力も、そしてその命すらも。
『私は、カイン、あなたの罪を、赦します』
そうだ。
自分は、罪人。
多くの罪を犯し、世界を危機にさらした。
仲間であるリディアの母親の命を奪った。
ゼロムスに協力し、世界の危機を招いた。
そして何より、セシルとローザ──そう!
あの二人を自分は、裏切っていたのだ!
セシルを!
ローザを!
何故忘れていたのか!
これほど大事なことを!
自分の命が尽きても赦されることのないほどの、罪を!
「赦されない」
いや、違う。
誰もがみな、赦している。
ただ、自分だけがそれにこだわって。
罪にすがって、それだけが二人との絆だと、自分をただ苦しめ続けた!
そう。
自分は、赦しなどほしくはなかった。
いつまでも罰せられ続けていたかった。
罪を持つ者はクリスタルを使えない。だから、世界が強制的に自分の記憶を奪った。
罪を、消すために。
「お前は全てを分かっていて、俺を赦そうとしていたのか……」
記憶を亡くす。
そうしなければ、自分の罪が消えることはない。
だからこそ、エアリスは自分を赦した。罪を消すために。
自身の使命を果たすために。
だから。
彼女は、いつか、自分が記憶を取り戻すきっかけとなるために。
その言葉を、記憶を取り戻す種を、自分の中に植えたのだ。
『私、カインの思い出になる。だから、ずっと覚えていて』
忘れてしまっていた。
いや、彼女は忘れてしまうことすら全て計算づくで。
自分がいつか思い出すことができるように。
そう、言ったのだ。
「俺は、お前に迷惑をかけてばかりだな……」
あれほど。
自身以外のことばかりを考え続けていた人物が他にいただろうか。
彼女自身の感情は、全て内に隠した。
届かない願い。
報われない想い。
彼女はただ、使命を果たすためだけに蘇らされ、そのために命を落とすことを覚悟した。
それは、何故か。
使命の先にいるのが、他ならぬ自分だったからだ!
彼女は、自身の幸せよりも、自分の幸せを願ったのだ!
「俺はお前に、どう報いてやればいい……?」
もう、還すことすらできない。
彼女はもう、この世界にすらいない。PLUSの土となり、大気となる。
「俺はお前の気持ちすら知らず、気付かず、お前の存在すら忘れて……どうすれば、俺はお前にこの罪を還すことができる?」
いや。
そんなことを、彼女は望むまい。
罪を赦そうとしたのは世界のためだが、彼女が本当に願っていたのは自分の幸せだけ。
そう、そして、あの時。
二人きりになったあの時に、彼女が自分に言った言葉。
覚えている。
今ならば、鮮明に思い出せる──!
「カインはティナのこと、好きだよね」
他に誰もいなくなった病室で、エアリスが突然そんなことを言い始めたので、さすがにカインも戸惑う。
「それは──」
「他の人とか、そういうの、いいから。私、カインがティナのことをどう想っているか、知りたいな。これから死ぬ相手に、少しくらい、教えてくれてもいいよね」
そう言われてはかなわない。カインは苦笑して頷いた。もっとも、頷いた様子は彼女には見えないが。
「ああ、好きだ」
「良かった。ティナ可愛いから、絶対、幸せになってほしいし」
「お前は、どうなんだ?」
「私の気持ちは、前に伝えてたよね」
自分の方に向かって、綺麗な笑顔を見せる。
正直に言えば、エアリスのことは嫌いではない。というより、好きなのだろう。
「俺は、お前のことが好きだったよ」
「知ってた」
えへ、とエアリスが可愛く笑う。
「でも、それ以上に、ティナのこと、好きなんだよね。ねえ、教えてくれないかな。どうして私じゃ駄目で、ティナだと良かったのか。残りの時間も少ないし、それくらい、知りたいな」
何が──と言っても、自分にもよく分からない。
ただ、あの時期。
自分が一度死んで生き返ったときに、ふと感じたもの。
「何が……というわけではないが」
ただ、漠然とした自分の感情。
「お前とティナと、同じ時期に告白されたが、ティナとは正直、離れたくなかった。何が違うのかは分からない。ただ……そうだな」
カインが冷静に自己分析する。
「お前は、たとえ倒れても自分で自分の診断ができていた。それこそ、将来的に自分が死ぬということもいつからか予測ができるくらいに。だが、ティナにはそれがない。よく言えば一途だが、悪く言えば無鉄砲だ。俺が守らなければあいつは死んでしまう。だから、守らなければいけないと思った。その差なのかもしれない」
「私が大人すぎたのが駄目だったのか。なんだ、カイン、ロリコン?」
「……ティナは充分に大人の女性だと思うが」
まあ確かに十七歳では、二十三歳のカインにとってはかなり年下ではある。
それにしても、この場面で突然何を言うのか。
「冗談、冗談。私から見ても、ティナはすごく可愛いし、それに、大人だよ。ただ──うん、カインの言うことも、分かる。前にティナとも話したけど、あの娘、感情に目覚めたのが最近だって」
「ああ」
「カインが初恋、だよね。初恋は実らないっていうけど、ティナは多分、かなうと思う」
「何故だ?」
「カインの悪いところなんて、探しても見つからないもん。好きになる一方で、冷めることなんか、ないよ」
「光栄だ」
エアリスはそう言うと、ふうと一息ついて目を閉じた。
「エアリス」
「ん、まだ大丈夫。でも、眠いのは仕方ないよね。ねえ、カイン。お願いが、あるの」
「ああ」
「私、意識がなくなるときは、カインに抱きしめていてもらいたいな」
カインは少しの間悩んだが、エアリスを起こすと、その後ろから抱きしめた。
「あ、これ、何かいい。どうせ、カインの顔、見れないし。暖かくて気持ちいい」
「身体、苦しいか?」
「ううん。多分もう、脳が痛みも感じさせてくれてないんだと思う。でも、カインのぬくもりは、伝わるよ」
「そうか」
「幸せの気持ちも」
「良かった」
「うん、良かった」
そして、少し、会話が途切れる。
「ねえ、カイン」
「なんだ」
「ローザさんっていう人、そんなに素敵な人だった?」
カインは少しためらって、ああ、と答えた。
「じゃあ、ローザさんと、ティナ、どっちの方が──好き?」
言われて、カインはしばらく考える。
そして、これまでの長い旅を思い返した。
『いつか、幸せになれるから』
ローザはそう言った。罪と罰に縛られながらも、それでも自分は幸せを探していたのかもしれない。
そして、見つけたのだ。
「ティナだ」
はっきりと、伝えた。
「そっか」
エアリスは、くす、と笑った。
「良かった」
「そうか」
「ね、カイン。忘れないでね、今の気持ち」
「ああ」
「でも、大丈夫。カインは、絶対、忘れないよ」
「そうかな」
「うん。保証する。だって、私が、忘れさせないから」
「ありがとう」
「カインから感謝されたのって、初めてかも」
そうだったろうか。カインは首をかしげる。その動作も面白かったらしく、エアリスはくすくすと笑った。
「あーあ」
エアリスは、首をカインに預けてきた。
「死にたく、ないなあ……」
それが、遺言。
そしてそれもすぐに、三つ目の赦しによって、忘れてしまった。
忘れてはいけないことだったのに。
いや、違う。一度忘れて、それから思い出すべきことなのか。
カオスとの戦いの最後で、ほんの一瞬だけ、自分の記憶は戻った。
あのとき、自分の気持ちはもう定まっていた。それは、エアリスが自分の気持ちをはっきりとさせてくれていたから、悩むこともなかったのだ。
今なら、伝えられる。
自分は確かに、セシルやローザのことは大切だ。
だが。
それ以上に、自分の幸せを。
ティナが、大切だということを──
「思い出した……っ!」
一瞬で覚醒した自分を、ティナが驚いて、そして喜んで、最後に少し不安そうな表情に変わった。
そうだ。
今の自分を、彼女は恐れているのだ。だから、伝えなければならない。
誰よりも、ティナが、大切なのだと。
「ティナ──」
そうして、彼女に、向き直った。
伝えるために。
愛していると。
そして、その目に映ったのは。
彼女の胸から突き出ている、黒い、刃だった。
「……復讐の時間です、カイン」
こふっ、と吐かれる、血。
その後ろにいた者は──
悪鬼の王、マラコーダ。
201.空へ、空から
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