『思い出した』

 その言葉が、彼の口から漏れる。
 彼女はまず驚き、喜ぼうとして──失敗した。
 記憶を取り戻した。
 それはすなわち、彼との別れを意味することになるのだと、彼女は心の底から信じて疑っていなかったから。
 それだけ、彼の、故郷の二人に対する思いが強いということを、知っていたから。
 だから、そこから先は何も聞きたくなかった。
 彼が、想い人のことを語るのも、
 彼が、自分の知らない人物の名前を出すのも、
 彼が、自分に向かってほんの一言ですら言い出すのも、全てが。

 嫌だった。

 だから、だろうか。

 この胸の、痛みは。

 身体が震え、痛み、そして、気がとおくなる。

 こふっ、と。

 力なく、自分の口から、血がはき出されていた。

(……あれ?)

 なにがおこったのか、わからない。

 ただ、ひとつだけ。






 なにかがておくれになったということだけはわかった。












PLUS.201

空へ、空から







She goes to the sky, and she comes from the sky






「ティナ」

 ゆっくりと、身体が前に崩れ落ちてくる。その身体から剣が引き抜かれて、彼女の胸を赤く染めあげていく。
 あっという間に全身が血で染まっていく。
 助かるはずがない。これは、致命傷だ。
 確実に心臓を貫いておいて、助かるも助からないもない。

 ティナは死ぬ。

 せっかく。
 せっかく、記憶が戻ったのに。

 誰よりも大切な人だと、伝えることすらできないままに。

 このまま、彼女を、失う。失ってしまう。

 手に入れたはずの幸せ。
 自分にとって唯一の幸せ。
 いつか必ず見つかるといわれた、他の何にも変えられないもの。

 ティナ、という幸せ。






「これが、私が受けた苦しみ、仲間を失う悲しみです。分かっていただけましたか、カイン」
 マラコーダの右腕が、剣から元の形に戻る。彼の剣は右腕そのもの。自在に形が変化して武器となる。
 その右腕が、ティナの血で濡れていた。それは今まさに、彼女の胸を貫いたのだという証。
 だが、カインはそんなことすら気にしてなどいなかった。
 この、力がなくなっていく恋人の身体を支えるだけ。そして完全に頭が混乱してそれ以上のことを考えられない。
 マラコーダの言葉も耳に届かなければ、その姿も目に映らない。
 完全に、目の前の女性のことだけに集中している。
「あなたの肩につけた星のマーク。それは、あなたが記憶を取り戻す時に私に知らせが来るようにできているのです。だからこそ、このタイミングであなたのもっとも大切な人を殺すことができた。いかがですか、カイン。仲間を失うという気持ちは」
 だが、彼はただ呆然として彼女の身体を抱きしめるだけだった。
「やれやれ。全く周りが見えないという状況ですか」
 いっそ首でも刎ねようか、というふうで再び右腕を剣の形にして振りかぶる。が、それよりも早く変化があった。
 ティナの身体が、エメラルドグリーンの光を放つ。
 マラコーダも眉をしかめて凝視し、カインはただ驚きで目を丸くしている。
 そのティナの身体が徐々に変化を始めた。
 髪が徐々に短くなって逆立ち、着ていた服すらどこにもなくなっていく。いや、服だけではない。
 肉体も、だ。
 徐々に薄れていく肉体に、カインは瞬きもせずその変化を見つめる。
『竜騎士よ』
 その『声』が告げた。それは間違いなく『ティナ』の口から発せられているものには違いないが、いつもの彼女の声ではなかった。
 いや、いまやその姿すら違う。ティナの面影はほとんどなくなり、大きさも二回りほど小さくなっている。左腕も二の腕から先はなく、足も膝下が存在しない。
 ようやく、分かった。記憶を取り戻しているカインにはよく分かっていた。

 半獣。『トランス』の能力。

「ティナ!」
 その燐光を放つ幼子を見る。幼子は冷めた細い目でただカインを見返した。
『嘆くことはない。私の役目は守ること。人の心を持ち、そして愛を知った私は、お前のことを守ることしか考えられなかった。だが、それも限界──』
 幼子の、腕のついていない右肩。そこから、槍の先が突き出てきた。
 そして徐々に全貌が現れる。
 それは、天竜の槍。かつて、PLUSで彼が与えられたもの。そして、彼女が預かっていたもの。
『預かっていたものを返そう。私はもう、この世界に現存することができぬ』
「まて、ティナ。俺は、お前を──」
『聞きたくない』
 だが、幼子は首を振った。
『このような姿となって、さらにお前の思いまで聞くのは耐えられない。私の肉体だけではなく、私の心までが死んでしまう』
「ティナ、聞け! 俺は──」
『さらばだ、竜騎士。私は人としてお前と出会えたことを、嬉しく思う。そして──』
 幼子は、寂しく微笑んだ。
『愛している。それだけが、私の真実』

 そして──消えた。

 痕跡すら残さずに。彼女がこの世界にいたことすら消し去ってしまうかのように。
 いや。
 彼女の痕跡は、ある。
 ここに。
 この手に。この身体中に。






 この、むせかえる程の、血の匂い──!






「殺す」
 彼は、その槍を握った。
「殺してやる、マラコーダっ!」
 それまで、どんなときでも冷静で、落ち着いていたカインが、完全に理性をなくしていた。
 それほどに、自分にとって唯一、絶対のものを奪われたということだった。
 伝えることすらできず、彼女はいなくなってしまった。
 自分から彼女を奪ったのは、この目の前の男。

 悪鬼の王、マラコーダ。

「いい顔です、カイン。あなたももう私と同じ、復讐しか頭にないようですね」
「うあああああああああああああああああっ!」
 天竜の槍を振るう。空気との摩擦が炎を生んで、それがマラコーダの表面を焼き切る。
「なるほど、いい腕です、カイン。その武具で、そして完全な記憶を持てばそれだけの力を出せるということですか。ですが、今のあなたでは私には勝てません」
 突進してくるカインに対し、マラコーダは消えたようにいなくなる。直後、カインは後ろから蹴り飛ばされた。
「周りが見えていない相手など、私の敵ではないのです」
「だまれぇっ!」
 カインは高く飛び上がる。いまや流れる風を捕らえることすら完全に思い出している。常人にはありえないほどの高さだが、竜騎士として、風を知る者ならばそれも可能なのだ。
 高い位置からの槍の攻撃が命中すれば、いかなマラコーダとて無傷ではいられなかったに違いない。だが、現実はそうならなかった。
 そのカイン目がけて、狙い済ましたように天空から突如飛竜が襲来し、カインに体当たりをかけたのだ。
 バランスを崩したカインだったが、何とか受け身をとってダメージを防ぐ。
 その飛竜の襲来を確認していなかったのはカインのミスだ。それほどまでに、目の前のマラコーダという男に対する憎しみが強く、それ以外のことが考えられないということだった。
「来ましたね、ドラギナッツォ」
 その竜は空中で回転すると人間の姿となり、マラコーダの隣に綺麗に着地した。その姿はマラコーダと同じ黒い肌。ただ、鬣のような赤い髪が違うところであった。
「召喚に従い、参上いたしました」
「他の者たちは」
「既に」
 マラコーダが上を見る。つられてカインも確認した。
 その上空に、あと五体の怪物がいる。
 鳥のようなもの、犬のようなもの、悪魔の姿をしたもの、猪の姿をしたもの、コウモリの姿をしたもの。いずれも浮いたままで、カインを見下ろしていた。
「よく来ました。ファーファレロ、グラフィケイン、アリキーノ、シリアット、リビオッコ」
 すると五体の怪物はそれぞれ人間の姿となって着地する。
(七体)
 だが、今のカインは人数など問題ではなかった。自分の愛する女性を奪った男に対する憎しみの心がそのような瑣末な問題を気にしなかった。
「マレブランケ、全員集合いたしました」
 六体の魔族たちがかしずく。マラコーダは頷いて応える。
「よく我が召喚に応じてくれました。この男、カインこそが我等が同志たちを永久に消滅させた張本人です」
 六対十二個の瞳が一斉にカインを討つ。だが、それはこちらとて同じ。
 ティナを奪った相手を赦すつもりはない。それは、カインが初めて望む、カイン自身の感情に他ならなかった。
「では、かねての予定通り、二日後」
 マラコーダがカインを見ながら、笑って言った。
「トラビアガーデンを襲撃し、全員を血祭りにあげます」
 カインの顔が青ざめる。
「……なんだと」
「聞こえませんでしたか、カイン。あなたの記憶が戻った以上、私が遠慮する必要はもうどこにもありません。私の部下を全員使い、あなたの仲間を殺せるだけ殺します。そして、最終的にはあなたの故郷」
 マラコーダの顔に、笑みが浮かぶ。
「セシルとローザ。彼らも私にとっては仇ですからね。殺してあげますよ」
「ふざけるなぁっ!」
 槍を手にしたまま、カインは突進する。
 だが、マラコーダの前に立ちふさがったのは薄水色の長い髪をした女魔族、アリキーノ。
 彼女は左手をかざすと衝撃波を放つ。それに吹き飛ばされたカインは仰向けに大地に転がる。
「私どころか、私の部下にすら傷をつけられないようでは、勝負の結果は見えましたね」
 マラコーダが言い終わると、ドラギナッツォが飛び上がって再び竜の姿を取る。部下たちが次々にその背に飛び乗り、そして最後にマラコーダが飛び乗る。
「カイン。もう一人の女性は殺さないでおいてあげます。もしあなたがまだ戦うつもりがあるのなら、ガーデンへ来なさい。さもなくば、本当にあなたの仲間を皆殺しにしますよ」
 そして、マラコーダたちはガーデンのあるエスタの方角へ向けて飛び去って行った。
 あとに残されたもの。
 それは、たった一人で大地に転がったカインと。

 彼を取り巻く、血の匂いだけ。

「殺してやる」
 彼はまだ濡れていた血を、自分の顔に塗りつける。
「必ず殺してやるぞ、マラコーダ」
 二日後。ガーデンで、自分はあの魔族と決着をつけるのだ。
 そして、もう一人、決着をつけなければいけない相手がいる。

 ティナ・ブランフォード。

 何故、自分の言葉を最後まで聞かなかったのか。
 自分がティナの方が大切だということを、信じてはくれなかったのか。
 いや、信じられるはずがない。それだけ自分は、彼女よりも故郷の二人のことを重く考えていた。彼女はずっとそれを見てきたのだ。
『俺は君に何も約束することができない』
 何故、そんな冷たい言葉を選んだのか。
 彼女の目の前で、ローザが好きだと言い切った自分。
 自分は今まで彼女に、いったい何をしてやることができただろうか。
 だが。
『支えてほしい』
 ずっと傍にいてほしいと、彼女に伝えた。そして、自分も彼女の傍にずっといるのだと誓い、彼女に伝えたのだ。

『愛している』

 愛している。
 愛している。
 愛している。
 誰よりも、何よりも、自分が望むべきものはただ一つ。

 それなのに。

 もう、手に入らない──






「まったくもう、仕方がないなあ」



 その時、声が聞こえた。
 聞き覚えのある声だった。

 血の匂いをかき消すかのようにして、彼の身体を花の匂いが包む。



「……エアリス?」



 そう。そこにいたのは彼女だった。エアリス・ゲインズブール。PLUSでなくなったはずの女性。
「どうして、ここに」
「そんなこと、どうでもいいの。それより、ティナのこと、諦められないんでしょ?」
 彼女は自分の顔を覗き込んでくる。
「ああ」
「だったら、諦めちゃ、駄目」
 そのカインに向かって、彼女は優しく微笑む。
「ティナはだいじょ〜ぶ。私が、ティナを殺させないって誓ったから。ほら、さっきのティナの言葉、覚えてる?」
「言葉?」
「そ。言ったよね」
 何を。

 愛している。それだけが、私の真実

 違う、そうじゃない。

 さらばだ、竜騎士。私は人としてお前と出会えたことを、嬉しく思う。そして──

 違う、そうじゃない。

 このような姿となって、さらにお前の思いまで聞くのは耐えられない。私の肉体だけではなく、私の心『まで』が死んでしまう

 心まで──? そうだ、ここだ。このフレーズが……いや、その前に。

 私はもう、『この世界に』現存することができぬ

 そうだ。
 確かに言った。
 彼女は『この世界に』と言ったのだ。
 半獣である彼女は、あの人間の姿だけが彼女の全てではない。つまり──

「幻獣界に、ティナがいるのか?」
「そ〜ゆ〜こと」
 自分を覗き込んでいたエアリスがもう一度背筋を伸ばす。
「まったく、それくらいのこと自分で気付いてよね。私だって、カインのこと、好きなんだから」
「ああ」
「よろしい。じゃ、私、もう行くから」
 ふわり、とその身体が浮く。
「そうか」
「うん。会えて、嬉しかった」
「俺もだ。死んでまで迷惑をかけたな。すまない」
「カインのことだもん。全然いいよ」
 そして、彼女の姿が空に消えていった。






 しばらくして、彼は目を覚ました。
 今のは、夢だったのか。
 だが、確実に方向は見えた。
 まずはガーデンだ。マラコーダと決着をつける。
 それから──幻獣界。

 ティナと、決着をつけるのだ。






 もう、血の匂いはしなかった。






202.二つの沈黙

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