彼女の胸から、不自然に突き出された黒い『何か』。
それが目に入っているはずなのに、全く脳が認識しなかったのは、無意識でそれを拒否したせいなのだろう。
彼女が死ぬ。死んでしまう。
誰よりも大切だと気付いた瞬間に、誰よりも大切な人を亡くしてしまうのか。
それほど自分の罪は重いのか。
いや、違う。
「お前のせいだ」
彼は足を止めて、目の前に立ちはだかる男を見据えた。
悪鬼の王、マラコーダ。
全ての、元凶。
PLUS.213
満ちる器
The vessel is full of despair
「驚きました、カイン」
それはトラビアガーデンに戻る途中だった。彼ら三人の行く手にあの男が現れた。
マラコーダ。
十二体のマレブランケを統括する悪鬼の王。それがついに自分の目の前に現れて雌雄を決しようとしている。
「私の配下が全て倒されました。リビオッコにファーファレロ。シリアットにグラフィケイン。そしてアリキーノと、私の最も信頼するドラギナッツォ。あなた方のどこにそのような力があるのか。まあ、それも全てはこの時のためだと言ってしまえばそれまでですが」
「なに?」
「あなたの最も大切な女性を奪い、さらにはあなたの仲間たちを屠った。ですがそれでもあなたの精神は折れない。絶望と後悔と罪悪感とで満たされた器。たいしたものです。だからこそ、倒しがいがあるというもの」
大地に降りたマラコーダはその右腕を剣に変える。既に戦闘態勢だ。
「リディア。ファリス。お前たちは下がっていろ」
「でも、カイン」
「あいつは、俺が倒す」
カインがそう言って天竜の牙を握る。
弔い合戦、というほどのものではない。ティナはまだ生きている。
だが、自分から奪ったことには違いない。そして彼女を傷つけたことも。
さらに言うなら仲間たちの命も奪い、この世界を混乱に陥れている。
絶対に許すことはできない。
「行くぞ、マラコーダ」
兜のないカインが駆ける。その動きは、先ほどシリアットたちと戦っていたものとは鋭さが違う。過去にないほどの集中。それがカインを支配していた。
目の前の男を倒す。
それだけを考えたカインはまさに、戦うことしか頭にない戦闘マシン。
「あなたがどれだけ強かったとしても、結果は既に分かっていることです」
そのカインの攻撃を回避しながらマラコーダが言う。
「あなたは、私に勝てない。それが分からないはずがないでしょう」
「くらえ!」
鋭い突きがマラコーダの腕を掠める。その鋭さにマラコーダが驚いた様子を見せた。
「ここまで、強くなれるものですか。人間の器でありながら」
心底感心したという様子で笑う。
「もしもあなたが人間ではなかったら、と思いますよ。あなたがマレブランケなら、すさまじく強いでしょう。私を凌駕するのは間違いない」
「何を話している」
その声は、カインのものではなかった。
マラコーダのすぐ後ろ。気配もなく近づいたもう一人の『竜の騎士』、スコール・レオンハート。
「フェイテッドサークル!」
衝撃波がマラコーダを捕らえる。何とかこらえるが、バランスは完全に崩されている。
「ドラゴンズ・アーク!」
さらにもう一つの衝撃波がマラコーダを直撃する。その方向を見ると、蒼い目をした魔術師、ブルーがいた。
「あなたがた人間は、ここまで強くなれるものですか」
ダメージを受けながらも、マラコーダは言葉をつむぐ。だが、最後に槍を持ったカインが、空中に浮き上がったマラコーダ目掛けて放つ──
「ドラグーン・ショット!」
竜の力が込められた槍が、高速でマラコーダの体を貫く。
「くっ」
だが、確かに左胸を貫いたはずなのに、マラコーダはそのまま着地する。すると、穴が空いた胸が徐々に埋まっていく。
「なるほど。これがバルバリシアの言っていた『力を合わせる』ということですか。少々侮っていたようですね」
シリアットたちを倒したカイン、リディア、ファリス。
リビオッコたちを倒したスコール、セルフィ、アセルス。
そしてドラギナッツォを退けた、ブルー、レノ、アリキーノ、モニカ、ユリアン。
「十一人……なかなか骨が折れそうですね」
マラコーダは笑って全員を見回す。そしてひとりの女性の前で視線を止めた。
「アリキーノ。あなたは私と戦うのですね?」
「はい。私が愛していた男性を姦計に陥れたのがマラコーダ様だと、ドラグから聞きましたから。間違いないことなのでしょう」
「ええ。それについては間違いありません。もっとも、あなたに対する不審は最初からあったようでしたから、私がしたことは村人の中のたった一人に『アリキーノは本当に人間なのか』と囁いただけです。それだけで隣人を殺すことができるのが人間です。私にも経験がありますからね」
「経験?」
「ええ。あなたを私の配下にしたかったのは、あなたと私の境遇がほとんど変わらなかったからですよ。そう。あれは原初の記憶。私はまさに、人間によって殺されたのです。その死体から生まれた怨念が、私、マラコーダなのです。だから私は人間を憎んでいる」
「それで分かったぞ、と」
レノがにやにやと笑いながら言う。
「あんた、幸せに暮らしてるキノのことをねたんでそうしやがったな、と」
アリキーノの顔が凍りつく。
「まさか」
「それが一番考えられることだぞ、と」
「──なるほど。そうかもしれませんね」
だがマラコーダは否定しなかった。
「自分自身、そこまで意識したことはありませんでしたが、案外言われると納得できるところがあります。なかなか相手を見る目がありますね、赤い髪の人間」
「レノだぞ、と」
「では、レノ。あなたの目で見ていただきましょうか。この状況で、強者がどちらなのか、ということを」
マラコーダの周囲に黒い霧が溢れた。
「あんたがどれだけ強くても、勝つのはこっちだぞ、と」
「口では何とでも言えます。現にそこの魔術師、ブルーはもうほとんど術力が消費されて残っていない。もう一方の魔術師、リディアは魔力は充分ですが、体力的に大きな術を放てるような力が残っていない。そうではありませんか?」
リディアの顔が歪む。確かにエクスティンクションを二発打っては体力が持たない。魔力だけならすぐに回復できるが、あれは体力を消耗する。打ててもあと一発が限度。それすらも自信がないのが事実だ。
「おそらく現時点で私と互角に戦えるのはアリキーノを除けば、カインとスコール、あなた方二人だけではないですか? 他の方では力不足です」
「やってみないと分からないよ〜」
セルフィが海竜の角を構え、アセルスが「残念だけど同感」と剣を構える。
「いいえ、分かります」
マラコーダが動く──セルフィの目の前に。
「!」
彼女が動くより早く右腕剣が振り切られ、海竜の角が弾かれる。そしてマラコーダの足がセルフィの胸を蹴った。
「ごほっ!」
その体がアセルスの方に来たので彼女もまた戸惑う。その隙にマラコーダは動いて彼女の頭を蹴った。
一瞬で、二人が沈黙する。
「これが、力の差です」
あっという間に二人を倒したマラコーダが次に目をつけたのはユリアンとモニカだった。
「二人とも、下がって!」
その前にアリキーノが立ちふさがる。だが、マラコーダは一瞬でユリアンとモニカの背後に回るとその二人の右肩を順に貫いていく。
「マラコーダ様!」
アリキーノが振り返ってもユリアンとモニカが壁になっていて攻撃ができない。と思っていると既にマラコーダは頭上に来ていて彼女の頭を痛烈に蹴り飛ばした。
「あうっ!」
「てめえっ!」
短銃を撃つレノの懐に今度は入り込む。先ほどドラギナッツォにやられた傷口を重ねて斬られる。
「まあ、こんなところですか」
既に十一人のうち六人が大地に倒れている。この反則的なまでの強さはどうだろう。
だが、以前と戦ったときとは何かが違っている。
そう。マラコーダの戦い方には、大きな矛盾がある。
「何故だ」
カインは睨みつけて尋ねる。
「何がでしょうか」
「何故殺さない。お前の力なら、全員を殺せたはずだ」
そう。
ユリアンやモニカなどは当然のこと、アリキーノやセルフィらにしたところで、今のタイミングならマラコーダは確実に相手を殺すことができたはず。
「気になりますか」
マラコーダが薄ら笑いを浮かべてカインに一歩近づく。
「何故」
マラコーダがふと空を見上げる。
「その問は至高です。何故──そう、その疑問を考えることによってのみ、全ての思考生命体は生存を許される。その問を行わないものに生きる価値などない。カイン。あなたは『何故』という疑問をどれほど持っていますか?」
「何?」
「例えば、何故ローザはあなたを愛してくれないのだろう、とか」
カインの表情が歪む。だがマラコーダはその語りを止めない。
「何故自分は彼らを裏切ってしまったのだろう、とか。自分のことですら分からないのに、他人の『何故』を答えられるはずもありませんけどね」
「何が言いたい」
「つまりこういうことです。全ての『何故』には答がある。ですが、答というものは簡単に分からないようにできている。何故私が他の十人を殺さずにいるのか? それには明確な答がたった一つ、あります。ですがあなたには分からない。分かるとしたら、あなたが消滅した後のことになるでしょう」
右腕剣を構えるが、そのマラコーダに尋ねた人物がいた。
「何故マラコーダはカインを狙ったのか」
その問を発したのは、このチームのブレイン、ブルーであった。
「悪いけど、リディアから聞いて調べさせてもらったよ。ずっと疑問に思うことが一つあったからね。マラコーダ。君の部下が五体、カインたちに倒されたと聞いた」
「ええ、そうです」
「でも、実際にカインが殺した相手はいない。ルビカンテという男を倒したのは、カインの仲間であるセシルたち。そこにカインはいなかった。そう聞いている」
──そう。
ルビカンテたち四天王と戦ったのはバブイルの塔だ。そのときカインはそこにいなかった。カインはルビカンテたちに捕われて、別の場所に監禁されていた。
「それなのにマラコーダ。何故君はカインを狙う? 復讐ならセシルというカインの仲間を狙うべきではなかったのか?」
「それは、」
「考え方は二つだ。一つは、カインが死んだということをもってセシルという人物にダメージを与えるため。君らしい、回りくどいけど効果的な方法だ。だが、僕はそうではないと思っている。もしそうだとしたら、君がカインを苦しめる必要はない。カインを苦しめて殺そうとしているのは、君がそうしなければならない理由があるからだ」
マラコーダが顔をしかめた。
「そこでもう一つの考え方。そもそもルビカンテたちがカインの世界に行ったのは、その世界で召喚されたからだと聞いた。つまり、マレブランケの王である君が、ルビカンテたちにカインの世界に行くことを承認、もしくは命令した、ということなんだろう。だとしたら何故君はルビカンテたちを派遣したのか。それによって君は何を得ようとしたのか」
「その問に答えられる、とでもいうのですか」
否定しない。ということはブルーの考えは決して遠くはないということだ。
「理由はわからない。だが、君の目的は『カインを苦しめること』そのものにあると言ってもいい。だがそれは復讐なんていうものじゃない。もっと別の理由がある」
「なるほど。あなたがいたからこのチームはここまで全滅せずにやってこられたのですね。まさにこのパーティの頭脳だ。あなたの力を認めざるを得ないようです」
マラコーダは相手を賞賛する。つまりブルーの言ったことは、真実。
「マラコーダ、貴様」
「カイン。そう、私は別に復讐などという意味であなたを狙ったのではない。あなたを殺さなければならない理由などどこにもない。私の目的はただ一つ。その目的を達するために、あなたを絶望させ、後悔させ、負の感情で満たした。全てはあなたの器を限りなく負の感情で染め上げるために」
「何が目的だ」
「目的はただ一つ」
同じ言葉を繰り返す。そして、マラコーダの右腕剣が大きく振りかぶられた。
「私が手に入れたいものは、その器。どのような負の感情にも制圧されることのないその器。私は、あなたの体を私の『次の』体にするために、罠を張り巡らせていたのです」
その右腕剣が振り下ろされる──マラコーダの首筋へ。
「なっ」
「カイン。あなたの体、いただきます」
瞬間、マラコーダの体から黒い一筋の閃光が疾る。
その光がカインの額を貫く。
「がっ、があああああああああああああああああああああっ!」
そのカインの肌が、一瞬で漆黒に染まった。
214.無限の力
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