今は滅びた世界の、一地方の神話。
 幾柱もの神々による戦い。そして、神々はしばらくの間、地上で人間たちと共に過ごしていたが、やがて天上へと昇っていった。
 彼が地上に生まれたのは、その後のことだった。
 神々と人間との間に生まれた子供は多い。神の力を色濃く受け継いだ者は同じように神としてあがめられて天上へ昇ったが、神としての力がない者は人間の中に埋没していった。
 彼の親も、そのまた親も、さらにそのまた親も、そうして人間の中に埋没していた。
 いったい何代遡れば神にたどりついたのだろうか。だが、彼は確かに神の血を引いたものだった。
 何故彼のときに、突然神の血が目覚めたのかは分からない。だが、まだ神々がこの地にいたとするならば、彼は間違いなく神々の一柱として迎えられるだけの力を持っていた。
 彼の力、そしてその人柄から、多くの人間が彼に従った。彼は王となり、広い範囲を支配する者となった。
 だが、彼には常に孤独がつきまとう。
 神々の子孫といえど、もはや力などなくしてしまった埋没した人間たちばかり。
 彼は自分の国内で神の力を持ち合わせている者を探したが、彼に匹敵するような者は見つからなかった。
 やがて彼は、自分と同じように神の力を持つ者を求めて旅立つ。
 国にいた者たちはみな彼のことが好きだったので、彼についていくことに決めた。
 彼は周りの人間がついてくることを止めることはしなかった。
 だが、神々の力を持つ彼と共に来るということは、並大抵の苦労ではなかった。
 彼の行く先には戦争が待ち受けており、彼に従った者たちは彼のために戦った。
 長い長い旅の果てに、力尽きて倒れる者は後を絶たなかった。
 だが、それでも彼は自らと同じ力を持つ者を求めた。
 北に預言者の噂があれば、そこまで駆けつけて確かめた。
 南に人間離れした怪力の持ち主がいると聞けば、そこまで行って自ら手合わせした。
 東に魔術を使う者がいると知ったなら、実際に魔術を見に行った。
 西に神の知恵を持つ者がいると聞けば、自分よりも知っているかと確認した。
 だが、駄目だった。
 誰も彼も、自分にはかなわない。神々の力など、もはやこの地上のどこにも残ってはいなかったのだ。
 そのことに気づいたとき、彼の周りに生き残っていたものは全くいなかった。
 病人も怪我人も、老人も子供も、みんなこの王のことが好きで、王の孤独を分かっていた。
 だからこそ、王のために命をかけて、王の孤独を和らげてあげたいと思った。
 そうして、最後に生き残っていた一人の女の子が、笑って言った。

「おうさま、だいすき」

 笑顔で亡くなったその子を見て、彼は、自分が間違っていたことを知った。
 自分は、孤独でなどなかった。
 自分はこんなにも愛されていて、誰からも慕われていて、決して一人になどなったことはない。
 だが、もう違う。
 今度は完全に一人。もはや自分を慕ってくれる者は一人もいない。
 みんな、みんないなくなってしまった。
 だから、願う。
 もう、仲間などいらない。
 こんな愚かな自分のために命をかけてくれた者たちを、せめて安らかに眠らせてほしいと。
 願いは、かなった。
 捨てたはずの願いが、かなってしまった。
 彼に従った者たちに祝福はなく、彼は神の座の一員に招かれた。
 彼の妻も子も部下たちも全ては冷たい躯となり、彼だけが不滅の神となった。
 彼は自分に従った全ての人間たちの命を背負って生きる神となった。
 せめて、この大地に一かけらの祝福を。
 そうして彼はこの大地に一つの贈り物を捧げた。
 一房の葡萄を発酵させる。
 それが人の手に渡り、瞬く間に増えていく。
 人間たちはその発酵した葡萄を気に入り、液体にして飲むようになった。
 それが、バッカスの酒。
 彼が人間に贈った唯一の品である。






「お主がディオニュソスか」
 雲の上から大地を見下ろしていた彼は聞きなれない声に後ろを振り返った。
 人間だった頃から体格に恵まれていた彼はこの神々の座でも大きな体格で目立つ存在となっていた。だが、その彼に声をかけてきたのはいいところ少女。もっともこの神々の座では好きな年齢の姿を取ることができる。実際には自分よりはるかに長い時を生きているのは間違いない。何しろ自分はこの神々の座に一番最後に入ってきた者なのだから。
「アンタは?」
「私はアルテミス。アポロンの妹だと言えば分かりやすいか?」
 彼は一瞬顔をしかめた。そう、とても分かりやすかった。太陽神アポロンといえば、神々の座きっての天然無邪気王子。悪意がどこにも存在せず、ただ自分のやりたいようにやる、究極の子供。しかも力が並外れているから性質が悪い。おそらくこの神々の座の中にいる者の中でも五本の指には入るだろう。神々の座に来て間もない彼ですらその存在を知っている。
「そう嫌な顔をするな。私も兄上にはほとほと困っている」
 本当に困っているのかどうか分からない無表情。
「何の用だ?」
「通りかかったら、最近この神々の座に迎えられたという男を見かけたので声をかけてみただけだ。不愉快なら謝る」
「不愉快なんかじゃねえよ。ただ、俺みたいな新参者に話しかけてくる酔狂な奴はそうそういないだろうと思っただけだ」
「確かにそうだな。それに、失礼なことだった」
「あ?」
「いろいろと聞きたいことがあったのだが、そうするのはお前に失礼だと思ったのだ。何でもない、忘れてくれ」
「そんなこと言われて忘れられるはずがあるかよ」
 肩を竦めて苦笑した。何やら面白い子供だった。
「いいぜ、答えられる質問なら答えてやる」
「お前の気分を損なうかもしれない」
「何、俺がいいって言ってるんだ。気にすんな」
 少女は少し考えてから尋ねた。
「自分のわがままで、自分の国の民を失った気持ちというのはどういうものだ?」
 ──かなりヘビィな質問だった。聞いて後悔した。
「なるほどな。そりゃ確かに失礼な質問だ」
「すまない。だが、言えと言ったのはお前の方だぞ」
「ああ。だから怒るわけにもいかねえよな、こりゃ」
 もっとも彼にしても既に心の整理はできている。それを尋ねられたところで何か不都合があるわけでもない。
「馬鹿だよな」
「何がだ?」
「あいつらさ。こんな間抜けな王のために命かけやがって、だからって王はあいつらのこと何とも思ってなかったんだぜ? あいつらが全滅するまではよ」
「私は馬鹿ではないと思うが」
 自分の胸にも届かない少女が真剣な目で言う。
「なんでだ?」
「彼らは自ら望んでお前のために命をかけたのだろう。おそらく見返りなど何も期待していなかったに違いない。お前が部下のことなど少しも思っていないのは傍から見れば簡単に分かること。それでもお前の部下たちはお前のために尽くした。彼らはそうあることを決めたのだ。確かに見返りを求めないという意味では愚かかもしれないが、自分が主だと定めた者に命をかけられるのは、人の生き方として崇高ではないだろうか」
「難しい言葉を使いやがるぜ」
 だが言いたいことは分かる。そして自分もそう理解している。
「お前が考えていることは分かる。彼らに謝りたいのだろう?」
「そう見えるか?」
「ああ。そしてできることなら許してほしいと考えている」
「ま、そんなとこだな。酒を贈ったことなんか、罪滅ぼしにもなりはしないが」
「すまない」
 少女は、今度は深く頭を下げた。
「何がだ?」
「私は、彼らの代わりにお前を許してやりたい。だが、お前にとって私からの許しなど一かけらの価値もないだろう。お前は、彼らから許されなければ無意味だと考えている」
「そりゃそうだ。アンタに代わりに謝ってもらったって何の意味もねえさ。だがまあ、アンタの気持ちはありがたく受け取っておくよ」
「ふむ」
 彼女は顔をしかめた。
「思っていたよりも随分と礼儀正しいのだな。だが……」
「だが?」
「お主は、せっかく会えた神と、交わるつもりがない。神々の座に加えられたことは不満か?」
「不満なんかねえよ。ずっと願ってたことだからな」
「神々の座に呼ばれない方がよかったか?」
「どっちとも言えねえよ。ただ、呼んでくれるんならせめてあいつらがくたばる前にしてくれりゃ、あいつらに悪いことしなくてすんだのにとは思うがな」
「そうか」
 彼女は申し訳なさそうな顔をする。彼をここに呼んだのは神々の座にいる者たちで、責任の一端がいわば彼女にあることは間違いないことなのだ。
「これは仮定の話として聞いてくれ。掛け値なしに仮定の話だ」
「ああ」
「お前の部下が全滅することを引き換えに、お前がこの神々の座に呼ばれることに決まっていた、としたらどうする」
 さすがにその条件を聞くと感情が揺れた。
「あいつらが全滅する前の俺なら、喜んだんじゃねえか」
「今は?」
「もし本当にそうだったとしたら、俺はお前らを残らず殺すぜ」
「そうだろうな。安心してくれ、仮定の話だ」
「ああ。だが、今の質問のおかげで俺の気持ちも随分はっきりした。ありがとな」
「いや」
 彼女は首を振る。無表情だが、何か考えているような様子だった。
「また会おう、ディオニュソス」
「どうせこの神々の座にいりゃ、すぐに会えるだろ」
「ああ。だが私はこの神々の座にはあまりいることが多くないからな」
「そうなのか?」
「私は月を司る女神。たいていはそこにいる。もし私に会いたければ月まで来い。歓迎しよう」
 そうして彼女は立ち去っていく。
 完全に姿が見えなくなってから彼は呟いた。
「冗談。お前みてえな怖い奴に会いに行けるかよ」






 それが、彼らの出会いだった。いや、それを出会いといっていいのか。彼らはその世界で二度と会うことはなかった。次に出会ったのは幻獣界。ふたりともその世界の神から幻獣として生まれ変わってからのことになる。
 神々の一員として名高かった彼女は、人々に望まれて幻獣となった。
 だが、信者がいなくなってから神々となった彼は、人々に望まれることはなかった。
 その彼に、どうして幻獣となることができたのか。
 世界の全てに忘れられた神、ディオニュソス。
 正しい手続きで幻獣となったわけではない彼が、自分の存在意義を見出せなくなったとしても無理のないことであった。












PLUS.239

神々の座







Olympos






「それが私の知っている全てだ」
 アルテミスはディオニュソスに持てる知識の全てを伝えた。そして、さらにこう続ける。
「あの時は言えなかったが、お前には一つ黙っていたことがある」
「なんだ?」
「お前に従う者全ての命と引き換えにお前が神々の座に来ることができるという仮定。あれは確かに仮定で間違いない。だが、その後に続きがある。さっきも言ったが、お前を神々の座に来るよう手配したのは私だ。私は、お前のことを見ていた。自らを慕う人間たちをかえりみることのないお前に、私は正直怒りすら覚えていた」
「ま、そんなもんだろうな」
「だが、最後の一人、あの子供との別れを見たときに、お前は初めて人間を見た。そしてお前の哀しみが私に届いた。だから私はお前を神々の座に呼ぶように手配したのだ」
「するってーとつまり、あの子が死ぬまでアンタは俺を呼ぶつもりがなかったと」
「そういうことだ。お前がもっと早くに考えを改めていたら、全滅することはなかっただろう。そしてもし、全滅しても考えが改まらないようなら、神々の座へ呼ぶことはしなかった。つまり、命と引き換えに神々になったわけではない。部下の命が全てなくなったことに対するお前の気持ちの変化が、神々の座に入るための条件だったということだ」
「そういうことかよ」
 ディオニュソスは頭を抱える。
「じゃあもう一つ聞きたい」
「私が分かることならば」
「信者のいない俺が、どうして幻獣になることができた?」
「それは私にも分からない。幻獣になったときには前の世界のことは記憶に残っていない。ただ誰かに望まれて幻獣になったということしか。だからお前がどうして幻獣になることができたのかは知らない」
「そうか」
 彼は天井を仰ぐ。
 いろいろと胸を去来することはあるが、残念なことに彼は何も思い出せない。自分が幻獣になる前のことなどまるで思い出せない。
 だが。
 この胸の奥からこみ上げるやるせなさは、アルテミスの話が正しいということを暗示している。
「で、お前は俺に、ハオラーンを倒せってのか」
「そうだ。私の命が欲しければくれてやる。だが、お前は人間を愛していた。愛していたものを滅ぼすのは間違っている。憤りは私にぶつけるがいい。そして、お前はリディアと共にハオラーンを倒すことを考えろ」
「そいつは無理な相談って奴だ」
 だがディオニュソスは誘いを拒絶する。
「何故だ? お前がそこまでして世界を滅ぼしたい理由は何だ」
「それこそ俺の過去を知ってるなら分かるんじゃねえのか? 俺にははっきりと分かったぜ」
 そう。
 ディオニュソスは何故自分がこれほどまでに破壊したいのかが分かった。
「俺は別にアンタや他の神々を恨む気になんかなれねえよ。もとはといえば俺が愚かだっただけのことだろ。俺が全てを破壊したいのはそんな理由じゃねえ」
「では」
「そいつらが死んだのも、俺が神々の座に入れなかったのも、俺やお前らが幻獣になったのも、全部おかしいんだ。世界の存在が狂ってんだよ」
 ようやく、理解できた。
 どうしてこんなにも、壊したいのか。
「存在そのものが狂ってる。全てを無にすれば、何も狂いはない。そういうことだ」






240.神の終幕

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