四章 事実の先には……
奇妙な沈黙の中にいた。沈黙自体は別に珍しいものではないが、この場合は状況が常態とはやや異なる。
ルファーはまだいい、自ら話しかけることがない。だが、ロイスダールの様子は明らかにおかしかった。いつも冷静で穏やかな人物なのに、落ちつきがまるでなく、明らかに平常心を失っている。
「少し、落ちついたらどうだ」
その様子を見かねたのか、珍しくルファーの方から声をかけた。
ロイスダールは立ったり座ったりを繰り返していた。およそ彼らしくない行動だ。窓の外を見てはため息をつき、部屋の中を歩き回り、座って手を組んでじっと耐えていたかと思うとまた立ち上がって窓の外を眺め。
「ああ、すまない」
「分かっているなら座れ。水でも飲んで、落ち着け」
ロイスダールは言われた通りにした。そして、ふう、と一息つく。
「まさか、お前が人の心配をするとは思わなかった」
「勘違いするな。単に目障りなだけだ」
あまりにも厳しい言葉であった。さすがにこれは、ロイスダールも激怒する。
「お前!」
「落ちつけ。依頼人の前で醜態をさらすな」
醜態、と言われて逆に頭を冷やしたのか、マリーの方を見て戸惑ったような表情を浮かべるロイスダールであった。
「すまない」
「気にするな。それに、ニーダは大丈夫だ」
「ああ、そうだな」
再び、沈黙が訪れる。
マリーはこの場にいることが苦痛であった。普段冷静なロイスダールがこれほどまでに自分を見失い、ルファーもまるで自分に言い聞かせるかのように言葉を発している。だが、それも全て自分の責任なのだ。
油断があった。
森を抜け、街に入り、宿に来てようやくこれで一安心したのだと、自分で気持ちを緩めてしまっていたのだ。
四人はそうではなかった。決して油断せず、自分の成すべきことを果たした。ジャンヌは寝起きにも関わらずあれほどに動いた。ルファーとロイスダールは宿に入ってもしばらく寝ずに様子をうかがっていた。ニーダは命懸けで自分を助けてくれた。
比べて自分はどうだ。すっかり安心してしまい、咄嗟に行動することもできずに敵の手に捕らわれてしまった。命を狙われていることは誰よりも自分が知っているはずなのに、旅の間は決して油断してはならなかったのに。
自分が一行を危険に晒したのだ。そしてニーダは今なおその後遺症から立ち直れずにいるのだ。
そもそも、自分に関わらなければ一行はこんな危険に遇わずにすんだのだ。たしかに雇ったという形ではあるが、まだ自分はそのお金を払ってもいない。彼らの好意に甘えて、頼ってばかりいる。
こんなことで、自分に守ってもらう資格などあるのだろうか。
「そんなに気になるなら、様子を見てきたらどうだ」
「馬鹿を言うな」
至極妥当と思われるルファーの提案は、検討の余地もなく否定された。
「本気で言っているのではないだろうな」
ルファーは肩を竦めて失言を詫びた。
だが、マリーには彼らの言っていることが理解できなかった。心配ならば、傍にいてあげたいと思うのが普通なのではないだろうか。
尋ねてみようとも思うのだが、場の雰囲気があまりにも重く、そうすることができないでいた。と、その時、扉が開いた。
「ジャンヌ」
「ああ、心配かけたね。もう大丈夫」
ジャンヌの背から顔をひょっこりと出して、ニーダがすまなさそうな表情を浮かべた。
「あの、ごめんなさい」
ロイスダールは立ち上がってニーダの傍までいくと、力強く彼を抱きしめた。
「ロイ義兄さん」
「あまり、心配をかけさせないでくれ」
「ごめんなさい」
いつのまにか近づいていたルファーも、彼の頭を軽く撫でる。
「よくやったな」
「うん、ありがとう」
不思議なものだ、とマリーは思う。
ロイスダールとジャンヌが一行の中心なのかと思っていたが、この様子を見ているとまるでニーダのために集まったパーティのように思える。
とにかく、無事でよかった。
「ニーダさん……」
マリーも立ち上がると、ニーダの傍まで近寄り、深く頭を下げた。
「本当にありがとうございました」
「あ、え、えっと……」
ニーダは予想外のマリーの行動に驚いているようであった。が、ジャンヌに小突かれて気を取り直し「これが仕事ですから」と照れくさそうに言った。
「じゃあ、とりあえずはみんな座ってくれ」
一段落したところでロイスダールが言う。テーブルの傍に置いてある三つの椅子にそれぞれ、ロイスダール、ルファー、マリーが座り、ベッドにジャンヌとニーダが腰掛ける。
「さて、それで聞いておきたいことがあるんだが」
きた、とマリーは震えた。もう覚悟はできていたが、さすがにこの瞬間は緊張した。
「ルファー。分かっているだろうな」
だが、あっさりとその予想は覆された。ロイスダールの視線はルファーに注がれている。見られている方もどこか気まずそうな雰囲気があった。
「どういうことだい?」
ジャンヌが不思議そうに尋ねてくる。
「ああ、かいつまんで説明すると」
簡単な説明であったが、理由が分かっていない三人にとっては充分であった。
すなわち、黒装束の一人がルファーの顔を見て「あなたは……」と呟いた。そして、黒装束たちはそれをきっかけに引き上げていったのだ。
「それって、ルファーのことを奴らが知っているってこと?」
「それ以外には考えられないだろう」
ロイスダールはルファーを睨み付けた。
尋問しているかのような雰囲気すらある。きわめて険悪であった。いや、そうではない。
真剣だったのだ。事実を明らかにしよう、と。
「聞き間違いってことは、あんたの場合ないか」
ジャンヌは残念そうに呟く。
「ルファー。お前、あいつらに心当たりはないのか?」
「ない」
「本当だろうな」
「あいつらが俺のことを知っていようがどうだろうが、俺はあんな物騒な連中のことは知らない」
ニーダがぼそりと「一番物騒な人間がよく言うよね」とジャンヌに耳打ちし、ぽかりと叩かれていた。
「だが、推測はできる」
「ほう?」
「おそらくは、エルフィアの諜報部隊、ないしは暗殺部隊」
「な……んだと?」
全員が愕然とした。ジャンヌは目を丸くし、ニーダは思わず立ち上がっていた。動揺、という言葉と相当縁遠いロイスダールですら、顔を顰めている。マリーにいたっては顔色を失っている始末だ。
「何故……?」
「俺たちの依頼人の正体が問題だ」
ルファーは事も無げに言う。マリーはルファーを見上げて、確信した。
この人は、自分の正体に気づいている。
「正体」
「依頼人の前で言ってもいいというのであれば、俺の推測を全て話してもいいが」
ロイスダールの視線に、マリーは頷いて答えた。
どのみち、これ以上の迷惑はかけられない。今後も護衛を続けてもらうのであれば、全ての事情を話すつもりではいたのだ。
ルファーはそれを見て、はっきりと言った。
「そいつは、クラヴィナ王国の第三王女、システィーナだ」
三人の顔に驚愕が走っていた。
だが、当のマリーは誰よりも冷静な表情で、じっとルファーを見つめていた。
同じくらい冷静な表情で、ルファーはマリーを見返していた。
「何故、分かりました?」
マリーの答は、それを肯定していた。ふう、とロイスダールが息をはく。ニーダとジャンヌはまだ信じられないようにマリーを見つめている。
「マリー、本当に?」
真っ直ぐジャンヌを見返して、頷く。
「はい。私はクラヴィナ王ラルディス=プレディアの娘、システィーナ=プレディアです。今まで隠していて、申し訳ありません」
「……驚いたな」
ロイスダールも正直に答えた。ジャンヌは頭を抱えて浮かせた腰を下ろす。ニーダが少し寂しそうにシスティーナを見つめていた。
「説明を、続けてくれないか」
呻くようなロイスダールの声。
「マリーの正体には早くから気づいていた。今から十日ほど前に、クラヴィナ第三王女システィーナが、婚約者であるエルフィア王太子パルスの見舞いに出発したという情報は入ってきていた。もっともそのことは内密にエルフィア王国に伝えられ、一般には出回っていないが」
「相変わらずの情報網だな」
「二年前から病床につき、一切の公式行事から姿を消したパルス王子。既に病死しているのを隠しているという風聞も出ているくらいだ。婚約者であるシスティーナが不安に思って、この場合正確にはエルフィアと同盟を続けたいと考えているクラヴィナ国王ラルディスが不安に思って、見舞い伺いに出たということだ」
「待て。それは少しおかしくはないか。お前はさっき、黒装束の正体がエルフィアの諜報、暗殺部隊だと言った。だが、同盟国の王女を殺害する理由などないではないか」
「ところが、あるんだ」
王女は淡々と話す青年をしっかりと見つめていた。
この人は、どこまでを知って──いや、分かっているのだろう。
自分がエルフィアに向かったことはごく一部の人間にしか伝えられていないはずだ。なにしろ、彼女の兄姉たちすら知らないのだ。
それが、一介の傭兵にすぎないルファーですらそのことを知っている。
いったい情報がどこから漏れたのか。いや、それよりも、どこまで情報が漏れているのか。
もしかしたら、敵国エオリアにまでこのことが伝わっていて、自分を暗殺しようとしていたら? もしかしたらあの黒装束はエオリアのものではないのか?
「実はこれも極秘の情報として扱われているんだが──といっても確証はないし、誰が確認したわけでもない。単なる、裏の世界の情報の一つだ」
「お前にしては前置きが長いな。それで、なんだ?」
「パルス王太子は既に死んでいる」
「それくらいなら俺でも噂で聞いたことがあるぞ」
「それも、暗殺されたというんだ」
これにはシスティーナの方が驚いていた。
「パルス殿下が、暗殺された……?」
歯の根が合わず、がくがくと震えだした。
「あくまで裏の世界の噂だ」
「お前、相変わらず情報屋を使っているのか」
「情報ほど──」
「『情報ほど貴重なものは世の中にはない』が、お前の信条だったな」
ルファーはまるで表情を変えなかった。その通りだ、とその能面が語っていた。
「この話にはさらに続きがある」
「言ってみろ」
「パルス王太子を暗殺したのは、クラヴィナ王国の手の者だという話だ」
今度こそ、システィーナは立ち上がって叫んでいた。
「何をばかな!」
「噂、だ」
ルファーは険悪な表情を浮かべているシスティーナに対して少しも悪びれずに受け流す。
「その噂、信憑性はあるのか?」
「暗殺自体についてはかなり高い、と俺は見ている。病床というのであれば、完全に面会謝絶にして誰とも会わせないということをする必要はない」
「そんなことになっているのか」
「元気とは言わずとも、誰かが面会していれば『病死』などという噂が流れることはないだろう。王子に関する情報は全て戒厳令をしいている、と考えるべきだろうな」
「それもお前の推測か?」
「半分は。だが、これくらいのことは少し考えれば誰でも想像がつくことだろう」
「……興味さえあれば、確かにそうかもしれないが……」
「この噂はさらにそれを上回る。単に病死であるならば公表したところでかまわないだろう。どうせいつまでも隠しておけるわけでもない。だが『暗殺』ならばどうだ。どこの誰に殺されたのかも分からない。それを公表したなら、すぐに諸国に緊張を走らせることにもなる」
「だが、それにしてもいつまでも隠せるはずもないだろう」
「そうだ。だからこうも考えられる。背格好が似ている人間を貴族の中から見つけ出して帝王学をたたき込む。無論これは王家の血を引いていない人間だ。だからシスティーナ王女が必要になる。この二人の間にできた子供は、問題がないわけではないが王家の血を継いでいることになる。クラヴィナの王母は、もとはエルフィアの王女だからな」
「それにしても」
「王宮はあと三年、王子の死を隠しておくつもりらしい。そして全快した『王子』とシスティーナ王女との結婚を行う。王女にしても五年以上も会っていなかった、それも一緒に暮らしたことがあるわけでもない相手が取り違っていたところで、おそらくは気づかないであろうという考えのようだ」
システィーナは愕然とした表情でそれを聞きつづけていた。
自分ですら知らなかった噂。それもかなりの確率でそれが『真実』だという。
たしかに、自分も王子の死を疑っていないわけではなかった。だが、まさか暗殺とは予想もしなかったことだ。
しかも、それが何故か我がクラヴィナ王国のしわざだという。
「……何故、クラヴィナなのですか?」
声を押し殺して、システィーナは尋ねた。
「我が国がそんなことをする必要はありません」
「それが、エルフィアの王宮には信じられなかった」
ルファーはなおも静かな口調で答える。
「もしパルス王子が逝去した場合、現王朝の血を継いでいるのはクラヴィナのプレディア王朝の中にしか存在しない。幸い現王ラルディスには王子が二人いる。第二王子をエルフィアの王に迎える、という動きが出てきてもおかしくはない。実際、パルス王子が亡くなってもそうすればいい、そういう声が国民の中にあることも事実だ」
「そのために、我が国がパルス王子を殺したと? そんなことはありえません!」
「事実、違うのかもしれない。あんたがそういうことをする人間でないのは明らかだ。だが、あんたの父親は俺は見たことがない。裏で何をしていたところで」
システィーナは立ち上がり、その頬を叩こうとした。だが、ルファーはそれより早く相手の腕を掴んだ。
「ルファーッ!」
ロイスダールが一瞬遅れて叫ぶ。
「離してくださいっ!」
ルファーは言われるままに手を離した。
「ルファー、謝れ。今のはお前が悪い。お前はマリー、システィーナ王女の父親を侮辱した」
ルファーは一瞬顔を顰めたが、すぐに「すまない」と言った。
「だが、そういう見方もあるということだけは心掛けておいた方がいい。とかく、王室というのはそう見られがちだ」
システィーナも顔を赤らめて謝罪した。
「私の方こそ、頭に血がのぼっていました。申し訳ありません」
「挑発したのは俺の方だ。すまない」
ロイスダールは少しだけ、目を大きくした。ルファーが素直に謝っているのが、珍しかったのかもしれない。
「いずれにしても、エルフィア王宮がクラヴィナのことをどう考えているのか、というのは今言った通りだ。あんたは、全く歓迎されていない。それどころか、王子の仇として見られている」
「私が、パルス殿下の仇」
「ルファー。お前はさっきからそう言っているが、本当にあの黒装束はエルフィアの人間なのか?」
「間違いない」
「何故そう言い切れる」
「剣の使い方がまず一つ。国によって剣や槍の使い方は異なるが、あれはエルフィアのものだった。前に手合わせをしたことがあるから分かる。それからもう一つ。言葉に訛りがあった」
「訛り?」
「エルフィアは閉鎖的な土地柄のせいもあって、標準語にしても若干の訛りが見られる。特に主語の使い方。標準語が第二音節を強調するのに対して、エルフィアのものはアクセントがないところが特徴だ」
「たった一語で、それだけのことが分かるのか」
「だからこそ諜報員には完璧な標準語が求められる。それでも習慣というものを完全に消すことは不可能だ。そして口調や訛りから所属が判明することを防ぐために、不用意に話すことが禁じられている。だが、あの時の黒装束は」
「お前の顔を見て驚いた。思わず口をついた言葉が、あれか」
「そういうことだ。まず間違いないとみていいだろう」
「違う国の人間が、擬態しているという可能性は?」
「ある。ありうる場合としては、クラヴィナの敵国であるエオリアが考えられるが、現在エオリアはまた交戦準備に入っていて、敵国はクラヴィナだという話だ。実力で相手を葬ろうというのであれば、今さら第三王女をどうこうする必要はない。第一王子、第二王子というのであれば話はまた変わってくるのだろうが」
「可能性がないわけではないんだな?」
「ああ。エオリアがクラヴィナを今まで征服することができないでいたのは、後ろにエルフィアがついているからだ。だとすればこの同盟関係を断ち切ることができれば、クラヴィナを征服することが事実上成功したことになる」
「では、エオリアがパルス王子を暗殺し、その濡れ衣をクラヴィナに被せているという可能性は?」
「充分にありうるな。というより、パルス王子が本当に暗殺されているのであれば、その可能性がもっとも高い。クラヴィナがパルス王子を暗殺し、第二王子をその後釜に据えるというのは可能性としては少なくないが、必ずそうなるという保証はない。それにエルフィアが揺らぐことでエオリアにつけこまれることにもなる。それくらいならば同盟関係を存続させる方がはるかに有益だろう。逆にだからこそ、エオリアはこの同盟関係を断ち切りたいと考えているはずだが」
システィーナの表情に、少しずつ怒りの感情が表れてきていた。
「エオリアが、パルス様を暗殺した」
「真実は誰にも、当事者をのぞけば分からない。ありうる可能性は、今言った通りだが」
「しかし分からないね。どうしてエオリアはそんなことまでしてクラヴィナを手に入れたがってるんだい? へたすれば国際世論を全部敵に回すことになる。そんな危険なことを、大国がするのかい?」
ジャンヌが疑問を口にする。隣でニーダもうんうんと頷いている。
「簡単だ。エオリアは内陸国、海と港がほしいんだ」
「あ、なるほど」
「この百年で、エルフィアは海を利用して巨万の富を得た。国力の伸び方は決して急激なものではなかったが、着実に成長を続けていた。比べて内陸国エオリアは思ったほど国力がのびていない。気がつけば大陸随一の座まで奪われている。面白いはずがないだろう」
「なるほどねえ」
「エオリアが海を手に入れるためには、西進するか南進するしかない。どちらも今のところは不調に終わっているが」
だからこそ、エオリアにとっては目の前のクラヴィナよりもそれに手を貸しているエルフィアの方が、より憎き敵として映っているのかもしれない。
港を持ち、大陸随一の座を奪ったエルフィアが、自分たちが海を手に入れようとするのを阻んでいる。エオリアにとってこれほど悔しいことはない。
「それにしても、だ」
ロイスダールが険しい表情でルファーを見つめる。
「随分、事情に詳しいな、お前」
「全部、入手した情報から判断しただけのことだ」
「とてもそれだけとは思えない。お前は詳しすぎる。最初から全てを知っていたかのようだ」
「何度も言うが、俺は何も知らない。推測しただけのことだ」
「ルファー。お前、俺と出会う前まで、何をしていた?」
緊迫した空気が流れる。
ジャンヌもニーダも、黙って二人の様子を見つめている。システィーナは困ったように二人の顔を交互に見比べる。
「お前と出会ったのは、エオリアのローズ大森林。時期はちょうど二年前、パルス王子が人前に出てこなくなったころ、だ」
「そうだな」
「お前、何をしていた?」
少しの間。誰もが、ロイスダールの言いたいことを理解していた。
ルファーこそ、いずこかの国の諜報員ではないか、そう詰問しているのだ。
だが、ルファーは相変わらず無表情で、ただこう答えるだけだった。
「答えられない」
「何故隠す?」
「隠してはいない」
「なら答えろ」
「だから、それはできない」
「言っていることが矛盾しているぞ」
「何も矛盾はない」
「じゃあどういうことだ!」
声が荒くなる。
今まで、ロイスダールはルファーの過去を尋ねたことは一度もなかった。自分の過去については何度か話したことはあったが、それ以上を相手に求めたことはない。
だが、今回は事情が異なる。
たしかに目を瞑って見逃すこともできる。しかし、これはパーティの信頼関係につながる。得体の知れない、何を考えているのかも分からない。これまではそれでも構わなかった。だが今は違う。
相手が自分を信頼せずに隠し事をしている。そのような相手を信頼することはたとえロイスダールでも、ジャンヌやニーダにしたってできはしない。
「答えられないんだ」
ルファーはそれでも、頑に態度を変えなかった。
「だから、何故だ」
ふう、とルファーは一息ついた。
「俺は、記憶喪失だ」
再び沈黙が訪れていた。が、今回一行が受けた衝撃は先程の比ではなかった。
先程は、システィーナがある程度位の高い人物であることが想像できていた。物腰、態度、服装、どれをとっても平民のものではない。だから王族だと言われた時も、驚きはしたが決して想像の枠を超えるものではなかったのだ。
さらにいえば、システィーナの正体を明かすということで、あらかじめ心の準備ができていた。それもまた衝撃を和らげる効果を生み出していた。
今回は違った。
全くの不意打ちで、予想もしなかったことを告げられ、システィーナを除く三人の思考は一瞬で停止し、続いてパニックに襲われていた。
出会ってまだ三日のシスティーナでさえ、これにはさすがに驚いた。だとすれば、ずっと一緒に旅してきた一行、ましてや二年もずっと行動を共にしていたロイスダールにとってはまさに晴天の霹靂といったところであろう。
「記憶……喪失?」
「そう言った」
言った本人は誰よりも冷静であった。いや、単純に感情の機能が働いていないだけなのかもしれない。
「……いつからだ?」
「お前と出会った時、俺は何も覚えてなかった」
「あの時……」
ロイスダールは、自分の心を落ち着けるとともに、必死に頭の中を整理していた。
出会いは、たしかに異様であった。
森の中、一人の男が行き倒れていた。その男はこちらを見ると、少し顔を顰めたかのようであった。
ひどく憔悴していて、三日は何も食べていないことは見て明らかであった。仕方なく、彼はその男に携帯していた食料を分け与えてやった。
『お前、名前は?』
『……』
『おいおい、せっかく食べ物わけてやったんだから、名前くらい教えてくれたっていいだろう』
『……ルファー……』
『よし。じゃ、ルファー。お前、どこに行くつもりなんだ?』
『……さあ……』
『まいったな。こんな大きな捨て犬持って帰るわけにもいかないんだが』
『ここはどこなんだ?』
『なんだお前、自分の居場所も分からないのか。迷子か?』
『そんなところだ』
『ここはエオリアのローズ大森林だ』
『エオリア……』
『ま、仕方がないな。近くの街まで連れていってやろう』
『恩にきる』
……たしかに、何かが違った。普通の会話ではなかった。何か事情があるのだと思ってはいたが、その後の行動もおかしかった。
特別行くあてもないから、一緒に行動させてほしいとルファーは言った。不思議に思ったが、自分も別に拒否する理由はなかったから、それからずっと二人で大陸を旅して回ってきた。
だが。
「お前、それならそうとどうして言わない?」
「言って、どうにかなるのか?」
ルファーはあくまでも冷めた口調だ。
「お前は記憶を失ってあの森の中を彷徨って、気がついたら俺に出会ったと。そういうことなのか?」
「ああ」
「じゃあ、あの時、お前はもう既に記憶が全くなく、何も分からないまま俺についてきたということか?」
「ああ。他にどうすることもできなかったからな」
「何故、あの時そう言ってくれなかったんだ?」
「だから、言ってもどうにもならないと判断したからだ」
呆れた。
自分はルファーという人物を、まだまだ甘く見ていたようだった。だが、今、完全に、はっきりと分かった。
この男は、自分のことに関しては底抜けに無頓着だ。
記憶を完全になくし、自分が何者かもどこにいるのかも分からないで、それで動揺もせず冷静に行動できるのは、感嘆することを通り越して呆れる以外にない。
「阿呆」
完全に愛想をつかしたかのように吐き捨てた。だが、それでも完全に見捨てることができないあたり、自分は相当人がいいのだろうか。
「記憶は戻っていないんだな?」
「全く」
「取り戻すつもりは?」
「あまりない」
「何故?」
「特別理由はないが、今の生活は気に入っている。それだけだ」
「記憶が戻ったら、一緒に旅を続けることはできなくなる?」
「かもしれない」
「なるほど」
ロイスダールは満足した。
ルファーは、自分たちといることを決して嫌ってなどいない。それどころか望んでさえいる。それさえ分かっていれば、自分たちは当然に彼を受け入れることができる。
いや、自分たちこそルファーを必要としている。自分は一行のリーダー的存在であるが、その存在はいつも頼もしく思っていた。ニーダにしてみると頼りがいのある兄も同様だろう。ジャンヌにしても彼の存在に救われているところが少なくない。
ルファーの存在は、自分たちに安心感を与えてくれる。
「では聞こう。これだけ情報が出そろったところで、お前は自分の正体はいったい何だと推測しているんだ?」
「一概には言えない」
「推測はしている?」
「ああ。黒装束が俺を敬称づけて呼んでいる以上、エルフィアの人間、それもそれなりに地位のある人間だったと推測できる」
「具体的には?」
「そこまでは分からない」
「まさか、お前がパルス王子だった、なんていうオチはないだろうな」
「それは、ありません」
返答は、システィーナから出た。
「私は王子にお会いしたことがありますから」
「なるほど。ではそのことは安心するとしよう」
ロイスダールは、真っ直ぐにルファーを見つめた。
「ルファー。安心しろなどと言ってもお前が不安に思ったりしないだろうが。お前が犯罪者だろうが貴族様だろうが、俺たちはお前を煙たがったりしないさ」
「分かっている」
「よし」
ようやく、場の雰囲気が和んだ。ジャンヌもニーダも安心したような表情を浮かべた。
「それじゃあ、今後の方針を決めよう」
ロイスダールの言葉に、システィーナがびくりと反応した。
「私は、王都アルガへは行かない方がいいのでしょうか」
「ルファーの推測を信じるのであれば、そうした方がいいだろうな。エルフィアはあなたが来ることを望んでいない。内密になっているのをいいことに暗殺してしまおうという腹なのだろう」
「それならば、なおのこと私は行かなければなりません」
システィーナは決意に満ちて言う。
「私たちは決してパルス様を暗殺などしていません。もし暗殺が事実だとすれば、釈明にあがらなければなりません」
「ジャンヌはどう思う?」
「あたしは別にどうだっていいさ。一度引き受けた仕事を放り出したりしないよ」
「ニーダは?」
「僕も」
「ルファーは?」
「…………」
が、ルファーはすぐには返答しない。ロイスダールもあえて急いだりせず、じっと待つ。
「好きにすればいい。アルガにさえつけば、向こうもそう簡単に手出しすることもできないだろう。だが」
「だが?」
「俺はアルガには行かない」
一行が、全員驚愕していた。
「珍しいな、お前が自分の意見を言うなんて」
「ちょっとロイスダール。あんた、この重大事に最初に出てくる言葉がそれ?」
ジャンヌが横から茶々をいれる。言われた方は苦笑するだけで反論しない。
「ルファー。何故、アルガに行きたくないんだ?」
「分からない」
「お前の記憶に関係するのか?」
「それも、分からない」
「では、何故?」
ルファーが珍しく表情を作っていた。
困惑。それが、彼の顔にはっきりと表れていた。
「分からないんだ。ただ、行ってはならない。そう感じる」
「行ってはならない。それは、お前がか? それとも王女が?」
「多分、俺が」
「理由はないんだな?」
「ない。理屈じゃなく、勘のようなものだ」
「なるほど。珍しい、というべきだろうか。お前はいつでも理論的で、直感をそのままにはしておかない奴だが」
「情報が足りない。今までの状況をいくら整理したところで、今俺が感じていることを理屈づけて説明することはできない」
「なるほど、仕方ないな。お前のことだ、無理に来いと言ったところで来ないだろうし」
「ああ。だから、アルガの手前までは一緒に行く。用事が終わったらまたクラヴィナに戻るのだろうし、その時にまた合流すればいい」
「分かった、そうしよう。ということですが、かまいませんか、システィーナ王女」
「私は、今まで皆さんの好意に甘えっぱなしです。命令もお願いも、そんなことができる立場ではありません」
「ふむ」
ロイスダールはまじまじとシスティーナ王女を見つめた。
「こういってはなんですが、あなたも相当おかしな、というと失礼か。風変わりな王女様ですね」
「そうでしょうか」
「残念ながら、王族は庶民に命令する権利が当然にあると考えている、と今日まで思ってましたよ」
「私たちクラヴィナ王家に連なる者は、誰もそのような考え方をしておりません」
システィーナは口調を強めていた。侮辱されたように感じていたのかもしれない。
「誰も、命令されて喜ぶ人はいません。それに従ったとしても、その心までは支配できないのです」
「確かに」
「ですが、自分たちが困っていて、本当に助けを必要としていて、誠実に願い出れば、人は自ずから協力してくださいます。私たち王家の者はそれに感謝し、それに縋ってこれまで生き延びてきました。情の論理、と非難されても仕方のないことですが」
「ないよりはあった方がはるかにいいのには違いない」
「そう言ってくださると、私たちも肩の荷が少しはおります」
それが本心であることが、聞いていた者たちにはよく分かった。
おそらく、クラヴィナという国がこれまで受けてきた苦痛、それを誰よりも分かっているのが王家の人間なのだろう。
人質同然の婚姻政策、屈辱的な対外交渉、果てし無く続く戦争……そういった困難が、いささか風変わりな帝王学を生むことになったのだろう。
いや、もはやこれは帝王学などとは呼べない。先程システィーナは情の論理と言ったが、まさにそれだ。
「じゃ、結局アルガへ向かうってことでいいんだね?」
ジャンヌが最後に確認した。一同、頷く。
「なら、もう寝よう。さすがに今日は疲れた。襲撃はともかく、その後が驚かされっぱなしだったからね」
「本当に」
ニーダが隣で頷いている。
「残念ながら、部屋はここ一つしかない。ベッドが三つだから、三人で使ってくれ」
「あたしはニーダと一緒に寝るよ……って、それでも一つ足りないか」
「俺が起きている」
ルファーが低く呟く。
「念のため、もう少し様子をみる」
「用心深いねえ。ま、いいけどさ。寝るよ、ニーダ」
「う、うん。それじゃ、お休みなさい」
そう言うと二人はさっさとベッドの中にもぐり込んだ。
「システィーナ王女」
それを確認して、ロイスダールは小さな声で尋ねる。
「はい」
「最後に一つだけ確認しておきたいのだが。まさかとは思うが、あなたは国の、国王の許可を得ずにエルフィアへやってきたのでは?」
システィーナは目を丸くし、続いて柔らかな微笑を浮かべた。
「分かりましたか?」
「話の流れから、なんとなく」
「父上の許可がなかったわけではありません。ですが、私がエルフィアへ来ていることは、父上しか知らないはずです」
「だが、現実に情報が漏れている。ルファーが知っているのがその大きな証拠だ」
「はい」
「どこかから、情報が漏れる危険は?」
「分かりません」
ふう、とロイスダールは息をつく。
「あなたの国にしても、完全に政権が安定しているわけではないのかもしれない」
「はい。無事に国に帰ることができましたら、すぐに内情を調べてみようと思います」
「あなたは、賢い」
システィーナはかぶりをふった。
「私は、まだまだです」
「そうとは思えない。冷静で、状況を判断する能力にも長けていると思う。行動力もあるし、考え方もしっかりしている」
「私は、王家の中では割と落ちこぼれている方なんです」
「まさか」
「本当のことです。兄姉たちは私なんかよりずっと優れてらっしゃいます。私にできることといえば、隣国に嫁ぐことくらいしかありませんでした」
「……」
「お気の毒、という言葉は必要ありません。私は、私にも役目が与えられているだけで、私の命が国の存続につながるというだけで、充分に幸せなのですから」
ロイスダールは、喉まで出かかった言葉を、かろうじて飲み込んだ。
この王女は、悲観的でも絶望しているわけでもない。
自分にできることを、命をかけて行っているだけのことなのだ。
それを気の毒に思うのは、王女に対して失礼極まりないことだ。
「パルス王子が、無事でいるといいですね」
「はい」
暗闇の中で
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