六章 扉の向こうに






 きらびやかなドレス。しっかりと結い上げた髪。白く塗った肌。
 こうしてドレスアップすると、システィーナはまさに王女の名に恥じない美貌の持ち主であった。なにしろ美貌を謳われた亡き母の面影がしっかりと残っている。十七歳であるから結婚の適齢期なのだが、もうあと少しすればさらにその美しさに磨きがかかることは明白であった。
 さらに、システィーナは思慮も分別もある。異国に嫁ぐという立場から自分の身の上をよく承知し、わきまえている。なおかつ威厳も兼ね備えている。これほど王太子の花嫁として相応しい女性は、国内外を通しても数少なかったであろう。
 何故かどことなく陰りのある表情も、見る者の心をうった。これほどの女性を妻に迎えることができるとは王太子殿下もよい決断をなさった、とそこに居並ぶ者たちは皆そう思っていた。
 そしてその陰りの理由も、周りにいる者たちには当然理解できていた。何故ならその王太子本人は今も重い病に倒れ伏しており、せっかくここまで来たというのに面会すらかなわないということを誰もが知っていたからだ。
(お気の毒に……)
(はるばるクラヴィナからここまでいらしたというのに……)
 ささやかな晩餐会とはいえ、一国の、それも未来の王妃を迎えてのものである。それなりに地位のある貴族はほとんど出席していた。国王アレン=ヴェーダーを筆頭に、副宰相ダール、内政の第一人者であるダリア公、軍務を掌握するファイロット侯、裁判を統括するラズウェル侯、財政を一任されているというマルス伯、などなど。姿を見せていない高位貴族は、職務のためはずせないというリヴェイラ宰相、遠く任地にいるルーダ公、そして病に伏しているパルス王太子くらいである。
 国内においてもパルス王太子が既に亡くなっているのではという風聞が出回っていた。誰もがその噂を知っているがゆえに、この王女に向けられる視線には余計に同情が含まれるようになっていたのだ。
(もし、パルス王太子が本当に亡くなっていたらどうなるのであろうか……)
(もはや国にはヴェーダーの血を引く者は王太子殿下を除けば誰もいらっしゃらないのに……)
(やはり、クラヴィナから国王を迎えるしかないのだろうか……)
 そのような会話は日常茶飯事である。王宮がパルス王太子の容態を『絶対安静』としたまま既に二年近くも経過している。
 貴族たちが不安に思うことも無理のないことであった。
 だが、そうした視線を受けることはシスティーナにとって苦痛ではなかった。
 パルス王太子は既に暗殺されており、その濡れ衣を今自分に、クラヴィナに着せられそうになっていることは、先程の夢からも予測済であった。
 むしろ貴族たちの間にパルス王太子の死が伝わっていないということが分かっただけでも、自分の『相手』を明確に定めることができるというものだ。
 その『相手』とは。
 今、自分の目の前にいるアレン=ヴェーダー国王その人に他ならなかった。
「ようこそエルフィアへ。システィーナ王女」
 アレン国王は人の好さそうな笑顔を見せて王女を出迎えた。
「お久しゅうございます、陛下。ご壮健で何よりでございます」
 うむ、と頷いた国王の顔には陰りがあった。その『壮健』という言葉が堪えたのだろうか。
「本来ならば息子パルスが貴女をエスコートするところなのだが、ご承知の通り、息子はいまだ病に倒れ、回復の兆しすらないということ。残念なことではあるが、王女、この場に貴女の婚約者が出てこられないことをかわりに詫びよう。申し訳ない」
「いえ、国王陛下。こればかりは自然の理によるものであり、誰の責任でもございません。王太子殿下にお会いできないのはまことに残念ですが、そのことを陛下が陳謝くださる必要はございません」
 システィーナは一国の王を相手にしても、怯まず、毅然としていた。その姿を見てますます一同が感嘆したものである。
「かたじけない。それでは、最初の杯をかわすことにしよう。クラヴィナの王女にして、我が息子の婚約者の来訪を祝って」
 一同がグラスを掲げた。システィーナは一礼してそれに応えた。





 一方で、システィーナの『命の恩人』たちも同じように食事にありついていた。
「うまいっ! ホント、こんなにうまい料理食ったの久しぶりだよ」
 ジャンヌが何度目かの感嘆の声をあげる。やれやれ、と苦笑しながらロイスダールも若鴨のソテーを一口含む。
「いやー、これだけでもここにきた甲斐があったってもんだね。ルファーも来ればよかったのに、もったいない」
「全くだな。だがまあ、来たくないというものは仕方ないだろう」
「それはそうだけどさ。そういえば、あれ、どうなった?」
 突然話を変えられても何のことだか理解ができない。聞き返すと、ジャンヌはにやりと笑った。
「例の絵。プレゼントするんだろ?」
「ああ。完成した」
「へえ、見せてよ」
「さしあげるものを他の人間に見せるわけにはいかないだろう」
「ちぇっ。冷たいの」
 ジャンヌはわずかにむくれたようなところを見せたが、また料理を一口ついばむと笑顔に戻って「うまい」と言った。
『ところでさ、これからどうするつもりなの?』
 ニーダが二人の会話に割り込んで話しかけた。とはいえ、誰かに聞かれるわけにはいかないので、声に出してはいない。
『そうだな。王女に危害を加えるつもりは今のところないだろう。となれば急ぐ必要はない。まずはこの城の作りを調べなければな』
『脱出路?』
『それも含めて、パルス王子の居場所、とかもな』
『なるほどね。どういう状況になっても対応できるようにしておくわけだね?』
『そういうことだ。まあ、既にそういう状況だから仕方がないだろう』
 姉弟は苦笑した。
『こちらから喧嘩を売るつもりはないが、向こうから売りつけてくる以上は買ってさしあげないと失礼にあたるというものだ』
『全くだね。やり方がこす狡いったらありゃしない』
『というわけで、ジャンヌ、それは任せた』
『それ?』
『城の作り。調べておいてくれ』
『うそぉ。ちょっと勘弁……』
『駄目』
 はあ、とジャンヌはため息をついた。
『時間かかるよ?』
『今から二、三時間くらいで何とかしてくれ』
『はいはい。食事終わってからでいいのかい?』
『まだ食べる気か?』
 三人は既に軽く一食と半分くらいの量を食べている。これ以上食べるとなると、腹が膨れていざというときに動けなくなるのではないだろうか。
『分かった分かった。いってくるよ、いってくればいいんでしょ?』
『よし、頼んだ』
『頼まれました』
 ジャンヌは答えると懐から黒い頭巾を取り出し、手早く髪をまとめた。愛用の長剣を外して、手軽なダガーを腰に装備する。
『んじゃ、ちょっと行ってくる』
『気をつけてな』
『そっちも、うまくごまかしておいてよ』
『もちろんだ』
 ジャンヌはにっこりと笑って窓の傍に近寄ると、一呼吸する間もなく姿を消した。





 晩餐会は夜遅くまで続いた。
 とはいえ、連絡があったものの急の来訪である。各人にも用事がないというわけではなかった。またそれほど参加者も多いというわけではなく、日付が変わるころには自然と晩餐会は終わりを迎えていた。
 システィーナも失礼にならない時間帯で切り上げるとその場を辞した。
 彼女にはやらなければならないことが二つあった。
 一つは国のため、エルフィアとの友好関係を崩さず、その上でパルス王子の無事を確かめるという極めて困難な作業である。これは自分一人の力ではどうすることもできない。自分にも当然のことながら見張りがついている。この点についてはロイスダールたちの力を借りなければならないだろうと判断していた。
 もちろん、ロイスダールたちにしても見張りがついていないはずがない。だがそこは、彼らなら何かいい方法があるのではないかという信頼が王女の中に芽生えていた。
 本来、こうして他人を頼るということは好みではない。何事も自分の力で解決したいとは思う。だが、この状況において自分一人で行動したところで国の立場を危うくするだけのことだ。
 とにかく王子が無事なのか、そうでないのか。それさえ分かれば国に帰ることができる。逆に言えば、それだけは確かめなければ帰ることができない。
 そしてもう一つはもっと私的なことである。
 自分の、命の恩人を助けなければならない。
 どこからともなく現れ、自分の命の危機を救ってくれた恩人。先程の夢がもしも現実のものだとしたら、自分は命をかけてその恩を返さなければならない。
 彼は、今いったいどこにいるのだろうか。
 王宮はかなりの広さがある。闇雲に動いていたのでは一生かけても見つからないだろう。ならばある程度見当をつけて動かなければならない。
 夢には景色というものが存在しなかった。どこか、暗い所であの悲劇は行われていたのだ。だとすれば、考えられる選択肢は二つしかない。
 一つは、窓も明かりもない密室。
 もう一つは、地下。
 彼が宙づりにされて拷問されていたとなると、それを行うために作られた場所に違いない。つまりは拷問部屋だ。
 拷問は犯罪者や囚人を相手に行うものであり、たいがい牢屋の近くに存在する。
この王宮内で牢があるところ。いや、もしかしたら王宮の外になるのかもしれない。最悪の場合は軍が絡んでいることもありうる。だがその可能性は少ないだろうと判断した。
拷問を行っていたのは拷問吏ではなかった。あの黒装束。だとすれば正規に行われたものではなく、王宮の中でも高位にいる人物、もしくは黒装束を操っている人物の命令で行われたのであろう。だとすれば、王宮内で行った方が明るみには出ない。
 以上から導き出される答は一つしかない。
 貴族を収監するための特別牢。この王宮では北東にあるラウネル塔がまさにそれにあたる。あの夢が真実であるとすれば、その場所である可能性が高い。
 ラウネル塔の構造ばかりはさすがに王女にも分からなかった。それは国の中でも最高機密の一つに入る。クラヴィナでも然りである。特別牢は貴族を収監するだけでなく、内乱罪や外患誘致罪など、国家の転覆をはかった罪人を収監する場所でもある。簡単に脱獄されるようなことでは困る。そのために特別牢の構造はどんなことがあっても漏れないようになっている。
 この塔の仕組みを知っているのは国王と宰相、副宰相、それにこの塔の責任者であるラズウェル侯くらいのものである。
 無論、侵入も脱出もこの塔に関しては不可能だ。システィーナが何を主張したところで中に入れてもらえるはずもない。
 どうするべきなのか。
 答が出ないまま、王女は仲間たちの部屋へ到着していた。





「失礼します」
 突然扉が開いて入ってきた人物を見て、ロイスダールは驚いて立ち上がった。
「王女」
 まさかこんな夜更けにやってくるとは思いもよらなかった。その王女が部屋を見回して口を開こうとしたので、ロイスダールは人指し指を立てて何も言わないように指示する。
『読唇術はできますか?』
 はっと気づいて、王女は頷いた。
『申し訳ありません。考え足らずで』
『いえ、仕方のないことです』
『ところで、ジャンヌさんはどうなさったのですか?』
『姉ちゃんなら今、王宮の探検中。そろそろ帰ってくるころだと思うよ』
 ニーダがベッドの上から答える。少年はさすがにこの時間になると眠たそうであった。実際、何もなければすぐにも寝ているところなのだろう。
『探検、ですか』
『パルス王子の居場所を確かめておこうと思ったので。迷惑になりますか?』
 王女は首を横に振った。この人たちが自分の味方についてくれているのは分かっていた。だが、まさか何も言う前から行動してくれているとは思いもよらなかった。
『ありがとうございます。実は、それをお頼みしようと思っていたのです』
『それはそれは』
『それからもう一つ、急いで何とかしなければいけないことがあるのです』
 王女は簡単に説明を始めた。
『ルファーさんがこの王宮の中で拷問にあっています。場所はおそらく、ラウネル塔の内部。はっきりと分かっているわけではありませんが、もうかなり衰弱しているはずです』
 ロイスダールはさすがに目をむいた。
『それは……』
 本当ですかと尋ねたかったが、さすがに失礼だろうかと思い直した。
 だが、その情報はいったいどこから手に入ったものなのか、信用に値するものなのか、判断がつきかねた。
 事実だとしたら、何があっても助けなければならない。
 だが、もしそれが事実でなかったら、どうなるのか。
『私は、ラウネル塔に忍び込むつもりです』
 続く言葉が、驚愕に追い打ちをかけた。
『……王女……』
 頭の中が混乱して、言葉にすることができなかった。
 簡単に忍び込むと言ったが、いったいどういう方法を使うつもりなのか。
 それよりも、何故そこまでしてルファーを助けようとするのか。
 疑問と困惑とが渦巻き、自分が何を考えているのかも分からなくなってくる。
『……システィーナは、どうしてルファーを助けようとしてくれてるの?』
 疑問は、ニーダから出た。
 この少年は、ロイスダールほど世馴れているわけではない。逆にその純真さがこういう質問を可能にしたのだろう。
『私は、ルファーさんに命を助けていただいています。それを返さなければなりません』
『義務感、ですか』
『そうです。人としての義務です』
 人として。
 不覚にも、その言葉にロイスダールは目頭を熱くした。
 長く旅をしてきて、人の世がいかに腐臭漂うものであるか、理解したつもりでいた。
 嘘をつかれたことは数知れない。裏切りで命を落としかけたこともある。
 迫害される立場にいることが多かった自分にとって、同じ境遇であるニーダやジャンヌ、そして無感動なルファーといることだけが安らぎであった。
 ようやく手に入れた安らぎ。それで自分は満足していたはずなのに。
 ──人の世もまだ、捨てたものではないらしい。
『ロイスダールさん?』
『失礼。だが、そういうことなら了解した。ルファーを助けよう』
『はい』
『あのラウネル塔は侵入も脱出も常識では不可能とされる場所だ。何かいい思案がおありか?』
『いえ……』
『ならばニーダ。魔法を使ってもらうことになるが、大丈夫か?』
『ルファーを助けるためなら、悠長なことは言ってられないよ』
 ニーダの目は真剣そのものだ。自分の役割が何かということがはっきりと分かっているようだった。
『よし。では王女、ニーダを連れてラウネル塔へ』
『分かりました。ですが、どうすればよろしいのですか?』
『ニーダ。何とかなるな?』
『大丈夫……だと思うけど』
『任せてかまわないか?』
『うん。逆に義兄さんが来た方が足手まとい』
『言ったな、こいつ』
 苦笑する。
『俺はジャンヌと合流してルファーをかくまう場所を用意しておく』
『待ってください』
 システィーナが割って入る。
『ルファーさんはかなり衰弱しています。一人では歩けないかもしれません。その……私とニーダさんとでは、連れていくことができないのでは……』
 ロイスダールは迷った。
 たしかに、かくまう場所を探すだけならジャンヌ一人でも充分だろう。だが彼はそれ以上のことを考えていた。
 システィーナのために、パルス王子の生死を確かめておくこと。場所さえ掴んでしまえば、それは自分一人でどうにかなると考えていた。
『ロイ義兄さん……僕、何とかするよ』
 ロイスダールは顔をしかめた。
 その方法は考えないでもなかった。だが、それをニーダが嫌がるということをよく知っている。それだけに言えなかった。
『いざという時は、僕がローブを脱ぐ。それでいいでしょ?』
 王女も目を細めてその言葉を頭の中で繰り返した。
 ローブを脱ぐ。その言葉に特別な意味がこめられていることは知っている。だが何を意味しているのかはまだ知らない。
『……だが……』
『大丈夫。システィーナが……その、僕のローブさえ持ってきてくれるなら、だけど』
 ロイスダールは目を閉じた。
 それを見た時、はたしてシスティーナは正常でいられるだろうか。
 自分ですら、ローブを脱いだ時のニーダには近づけない。ニーダ自身が嫌がるし、自分も生理的嫌悪感を覚えざるをえない。
 正常でいることをシスティーナに求めることは、きっとかなり酷なことだ。
 だが……。
『分かった。任せよう』
 ニーダはほっとしたようであった。
『任せて。必ず助けてくる』
『よし。それから王女。一つ、いや二つ頼みがある』
 王女は真剣な瞳でロイスダールを見返してきた。
『もしニーダがローブを脱がなければならない状況になった時、そのローブを持ってきてほしい。それは世界にたった一つしかない、ニーダにとっては金塊を山ほど積んでも取り替えることができない、大切なものだ。必ず持ちかえってきてくれ』
『はい、必ず』
『それから……これは、俺が言えた台詞ではないのだが……』
 ニーダを、ちらりと見る。
『義弟を……嫌わないでほしい』
『義兄さん』
『勝手な願いかもしれないが、言わずにはいられないんだ。すまない』
 王女には、何のことだかさっぱりと理解ができなかった。
 ローブを脱いだ時に、いったい何がどうなるというのか。だが、それが相当深刻な問題であることは二人の様子から理解できる。
『努力します』
 そう答えることしか、王女にはできなかった。
『王宮内にかくまうことは不可能だ。何とか王宮の外へ連れださなければならないが……できるか?』
『うーん……この状態でできればいいけどね』
『魔法の使いすぎには注意しろ』
『分かってる』
『外で合流しよう。人が少ないところの方がいい。下方の一角……南東の方で、うまく落ち合おう』
『オーケー』





 二人は外に出ると、周りを気にしながらラウネル塔へ近づいていった。
 月のない夜。星明りの下、これが恋人同士ででもあるのなら、これほどロマンチックなこともないであろうに、状況はそれとあまりにも異なる。
「……システィーナ」
 ぼそりと、隣を歩くニーダが呟く。
「何でしょう」
「確かめておきたいことがあるんだ、もう一度」
「……はい」
 何を聞かれるのか、システィーナにはある程度推測はついていた。この少年が自分に向ける眼差しの意味を、正確に理解していたから。
「どうして、ルファーを助けようとしてくれているの?」
「私の命の恩人だからです」
「ルファーが、好き?」
 だが、すぐには返答できなかった。
 自分の気持ちのことなど、今までは当然、これからも考えることなどないだろう。自分は全ての私情を押し殺して、大切なもののために働かなければならない。私情を押し殺すくらいなら、初めから持たない方がいい。そう割り切れるだけの精神力は既に身につけている。
「私は、人の妻になる身ですから」
「そうだったね。ごめん、変なこと聞いて」
「いえ」
 気まずい思いだった。
 何を言いたいのかが分かるだけに、言葉を濁すことしかできない自分が、少しだけ嫌になった。
「ついたね」
 しばらくの沈黙の後、ついに、物言わぬ塔が二人の目前に現れた。
 政治犯や死刑囚、国でもっとも罪の重い者たちが捕らえられている、囚人の塔。
「どうなさるおつもりですか?」
 塔の入口は固く閉ざされており、二人の兵が見張りについている。
「うん。魔法を使うよ」
 少し、表情が陰った。魔法を使った時に彼がどうなるか、自分はそれを見ているだけにあまり歓迎したくない状況である。
「大丈夫。人を傷つけない限りはあまり具合も悪くならないから」
 そう言って、ニーダは物陰から二人の見張りをじっと見つめた。そして、左腕をそろっと延ばして、そのうちの一人を指さす。
 兵は自分たちがここにいることにまだ気づいていない。一度静かに息を吐き、ニーダは眉を潜めた。
 瞬間、指先が鈍く茶色に光った。すると、指を差された兵士はがくり、と力が抜けてその場に倒れ込む。
「お、おい、どうしたっ?」
 もう一人の見張りが倒れ込んだ兵士を抱きかかえようとする。だが、それより早くニーダの指が再び光った。そして、その兵士もまた重なるようにして倒れた。
「ふう、うまくいったね」
 ニーダは微笑んだ。その額が汗でびっしょりと濡れていた。
「何をなさったのですか?」
「ん、眠らせただけ」
「眠らせる?」
「うん。三時間くらいは起きないと思うよ」
 ニーダはそう言って倒れた二人の兵士のところへ近づく。遅れてシスティーナも駆け寄った。するとその兵士たちは心地良さそうに寝息をたてていた。
「ね?」
「……これも、魔法の力なのですか」
「そういうこと」
 そう言って、ニーダは次に扉を調べはじめた。少ししてから「まいったな」と呟く。
「どうしたのですか?」
「うーん、この扉は開かないようになってる」
「開かない?」
「多分、内側からじゃないと開かない仕組みなんだ」
「どうすればいいのでしょう」
「中の人間が交代する時とか、決められた時間でないとこの扉は開かないんだと思う。だとしたら、開くまで待つか、それとも……」
「それとも?」
「強引にこじ開けるか」
 システィーナはしばし悩んだ。
「そんなことが可能なのですか?」
「うーん……多分……」
「また魔法ですか?」
「それしかないよね」
「お体の方は……」
「まだ、なんとか平気」
 それが強がりだということが、システィーナにはよく分かった。それほどに、彼もまたルファーを助けたい気持ちでいっぱいなのだろう。
 ニーダは扉の真ん中に立った。扉はこちらから見て引き開ける形でなる。だが内側で鍵がかけられており、外側から開錠することはできないようだ。ニーダは左右の扉の隙間に右手の人差し指をぴったりとつけて、呼吸を整えた。
 鈍いが、よく通る音が響いた。
 そして、ゆっくりと扉がこちら側に開いてきた。
「うまくいった、みたい」
 呼吸が荒かった。ローブの裾で汗を拭っている。よほど精神力も体力も使ってしまったのだろう。
「大丈夫ですか?」
「うん、僕は大丈夫。いざとなれば方法もあるし」
「……ですが……」
「大丈夫だって。それより、早く入らないと」
 ニーダはシスティーナの手をとって素早く塔の内側に入った。意外にも、そこには誰もいなかった。
「扉、閉めておくね」
 ニーダはそう言うと扉をぴたりと閉めた。鍵の所を見ると、完全に破壊されている。先程の魔法は、鍵を破壊するためのものだったのだろう。
 だが、それだけの威力のある魔法を使ったのでは、ニーダの体も無事ではすまないのではないだろうか。本人は大丈夫だと言うが、とてもこのままだと無事ではすまなさそうである。
「誰か来る」
 ニーダは正面を見据えて呟くと、システィーナを連れて右手の石像の陰に隠れた。
システィーナはニーダにしっかりと体を抱きしめられていた。この狭い空間ではそうしなければ兵士たちに見つかってしまうだろう。
「…………」
 しばらくしてから、ようやく足音が聞こえてきた。二人いるようだ。兵士たちはニーダとシスティーナが隠れている石像のすぐ目の前を通りすぎてから立ち止まった。
「何もないみたいだな」
「ああ。確かに変な音が聞こえたんだが……」
 先程の音を聞きつけてやってきたようである。だが、まだ錠が壊されていることには気づいていないようだ。
「どうだ、一本、やるか?」
 一人が懐から煙草を取り出して、同僚に差し出した。
「おう、悪いな」
 どうやらしばらくこの兵士たちはここに居つづけるようだ。おそらくは、単に職務を怠慢しているだけなのだろう。
「そういえば、聞いたか?」
「何だ?」
「あの最上階の囚人」
「ああ、リュート様か」
 リュート。
 あの人は、夢の中で確かにそう呼ばれていた。
 では、あの人はやはりこの中にいるのだ。
「クラヴィナに寝返ってたんだってな」
「ひどい話さ。突然いなくなったと思ったら、敵国の人間になってるなんてな」
 違う、そうじゃない。
「でも、なんだってそんなことしたんだろうな」
「さあ。何も吐かないんだろ?」
「そういう話だが……時間の問題だろうな」
「だろうな。あいつらの拷問にあって一日耐えた奴は今までいないからな」
「もう半日たったぜ」
「今頃、くたばってるかもな」
 話を聞いていればいるほど、体の奥がどんどんと熱くなった。
 あの人が。
 私の命を救ってくれたあの人が。
 私のせいで。
 私の命を救ってしまったせいで。
「さて、行く──うっ」
 システィーナは、後先を考えずに行動してしまっていた。
 剣を兵士の喉元につけ「騒ぐな」と囁く。
「なにも──」
 もう一人の兵士が意気込んだが、すぐに沈黙して倒れた。ゆっくりと、ニーダが石像の陰から出てくる。
「全く、無茶しすぎだよ」
 システィーナは「すみません」とだけ答えた。だが、自分の行動でニーダも状況を察したのだろう。今の会話の客体こそ、ルファーに他ならないのだと。
「お前ら、何者だ?」
「質問は僕たちがする。今の会話の主、リュート、という人物は最上階にいるということだが、本当だな?」
 兵士もまた命が惜しかったのだろう、あえぐように「そうだ」と答える。
「では、この塔には何人の兵士が詰めているんだ?」
「お、俺たち以外に、四人」
「少ないな」
「本当だ。後は、諜報部隊の連中が来てやがる。今はいないみたいだが、またすぐに来るはずだ」
「そうか」
 諜報部隊。やはりルファーの懸念した通り、それは存在していたのだ。
 おそらくここの見張りにつく兵士たちはそのあたりの事情をある程度分かっていて、そのことを絶対に外に漏らさないように誓約でもさせられているのだろう。そうでなければこのような場所の見張りはつとまるまい。
「それからもう一つ。リュート、とはいったい何者だ?」
 ルファーの正体。それは、ずっと気になっていた。
 それはニーダたちにしても同じなのだろう。いや、自分よりもずっとその思いが強かったに違いない。自分たちと行動を共にする者の正体。知りたくないといえば間違いなく嘘になる。
「リュート様」
「そうだ。その人物は、どういう地位にいる人物なのか。身分や職務を、詳しく教えてくれるとありがたい」
「リュート様は、フェザー伯爵家の次男で、パルス様の親衛隊長をなさっていた。それ以上のことは、俺は知らない」
 親衛隊長!
 システィーナとニーダは思わず目を合わせていた。
 あのルファーが、パルス王子の親衛隊長。
 と、その事実に気が緩んでいたのか、兵士が俊敏に動いたことにシスティーナは反応できなかった。肩で当て身を受け、悲鳴を上げて倒れる。
「くっ」
 倒れた自分を拘束しようとして腕が伸びたところで、その男の動きが止まった。
 そして、どさりと倒れた。
 先程までの三人とは違って、その体に生気が全く感じられなかった。
「ニーダ、さん」
 右の人差し指が、しっかりと兵士に向かって伸びている。何をしたのかは、よく分かっていた。
「ぐうっ」
 ニーダが心臓を押さえて、膝をついた。
「ニーダさんっ!」
 慌てて駆け寄る。先程までの元気の良さも、強がりすらもどこにもなく、初めて魔法を見たあの日のように、白い肌をますます白く染め上げてがくがくと震えている。
「ニーダさんっ!」
 抱き上げるが、口をぱくぱくとさせるばかりで、容体はますます悪くなっていた。
「ニーダさん、ニーダさん、しっかりしてください」
 まただ。
 自分の油断のせいで、いつもこの人を苦しめている。
 自分がもっとしっかりと気をつけていれば、こんなことにはならなかったはずなのに……。
「し、す……」
 呼吸もままならない状態で、ニーダが必死に声を振り絞る。
「ニーダさん」
「ろ……ぶ、を……」
 ローブを。
 確かにそう聞こえた。そして、システィーナは迷わずニーダのローブを脱がせていった。
 あの日も、ニーダが吐いた後にローブを脱いでいたのだと聞いた。つまり、この状態から回復させてやるには、このローブをまずは脱がさなければならないということなのだ。
 がくがくと震えるニーダの体から、ローブを脱がせるのはかなり苦労した。だが、それほど長い時間はかからずにそのローブをはぎ取ることができた。
 ローブの下には、ごくごく普通の少年がいた。どこにでもありそうなシャツに、短いズボン。ロイスダールは嫌わないでやってほしいと言っていたが、嫌う理由などどこにもないように見受けられた。
 だが、それから変化が起こった。
 思わず、システィーナは身を引いていた。
 髪が、うねっている。
 風が吹いているのでもない。自らの意思で、髪がうねっているのだ。
 そして、その白い肌が少しずつ黒く染まっていった。
 いや、違う。染まっているのではない。
 それは、鱗であった。腕や足のいたるところから鱗が生えてきている。
 体つきも二回りから三回りほども大きくなっていた。ぶくぶくと膨れ上がり、先程までのニーダはもはや顔にしか残っていない。いや、その顔にも鱗が生え出てきて、完全にニーダの面影を消してしまっていた。
 そして、前頭部が少しずつ盛り上がった。あれは、角だ。
 ……ロイスダールの言っていた意味が、ようやく理解できた。
 ニーダは、この姿を見られたくなかったのだ。ロイスダールはこの姿を見せたくなかったのだ。
 これは、まさに話に聞く悪魔そのもの。あまりのグロテスクさに見ただけで吐き気を催す、そういう忌まわしき存在であった。
 鱗の隙間から、緑色の体液が流れだして、暗闇の中でも全身を怪しく光らせている。瞳は暗褐色で、見ているだけで魂を奪われそうだ。ようやく立ち上がろうとするその動きもどこか不自然で、若干前屈みになっていて、両腕をだらりと垂れ下げている。
 システィーナは震えて、涙を流した。
 恐怖や嫌悪といった感情が、その姿を見ているだけで催されるのがよく理解できた。こんな姿を人に見せなければならない彼の気持ちはいかなるものなのか。そして、こんな姿の弟をもった姉の気持ちは。それを義弟に迎えた義兄の気持ちは。
「……ニーダさん、なんですね?」
 悪魔は、小さく頷いた。声は聞こえるが、話をすることはできないようであった。
「申し訳ありません……」
 システィーナはゆっくりと近づいた。自分と同じくらいの身の丈であったはずのニーダは、悪魔となって既にロイスダールをも追い越すほどの高さになっていた。
「私のせいで」
 背のびして、その頬に手をあてた。
 悪魔は動揺していたが、システィーナが触り安いように身を屈めた。
 システィーナは、その頬に、優しく口づけた。
「申し訳ありません……」
 悪魔は、その暗い瞳から赤色の涙を流した。
 嬉しそうに微笑んで、ごるるる、と喉を鳴らした。
 それは酷く、不気味であった。










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