七章 光の先へ
その瞬間、扉が開いた。
何人かの兵士が中へと入ってくる。そして、いずれもその場にいた悪魔の姿を見て驚愕していた。すぐ傍らにいたシスティーナを認識したものは誰一人いないようであった。
悪魔が、動いた。
兵士たちの中に飛び込み、その鋭く尖った爪を振るう。その一凪ぎで二人の兵士の首が落ちた。
システィーナは目を見張った。恐るべきパワーとスピードである。とても人の力でできるものではない。まさに悪魔であった。
その悪魔が、ちらりとこちらを向いた。はっと気づいて、システィーナはその場にあったローブを抱えると階段を駆け登った。
兵士たちは自分が引きつけておくから、今のうちにルファーを。
あの視線にはそういう意味がこめられていた、とシスティーナには思えた。そしてあの悪魔はそれからもその場に留まり、群がる兵士たちを次々に葬っていた。
(あれが……)
ずっと、ひた隠しにしてきたニーダの正体。
『父親はあたしも知らない』
ジャンヌはそう言っていた。父親が異なる弟。その父親の正体はいったい何者だったのか。だが、誰が父親かは分からなくとも、その父親がどういう存在だったのかは想像がつく。
人間ならざるもの。分かりやすくいえば、悪魔。
『……この子は、生まれてくるべきじゃなかった』
あの台詞、姉はどういう気持ちで呟いたのだろう。
姉は全てを知っていて、そう言ったのだ。悪魔の子を、ずっと守り続けてきた姉。何度見捨てようと思っただろう、何度逃げだしたくなっただろう。
唐突に、システィーナはジャンヌに対する尊敬の気持ちでいっぱいになった。とても自分にはできない。たった一人で、幼い頃から人間ならざるものを育て続けてくるなど。
『義弟を……嫌わないでほしい』
嫌えるはずがなかった。
あれほどに、悲しい存在を嫌うことなどできなかった。
同情。哀れみ。そういった感情に、この時王女は支配されていたのである。
「何者だ!」
階段を駆け登る王女に向かって、上から声がかかる。だが王女は答えずに抜き身の剣をその兵士に斬りつけた。血が吹き出て、王女の衣服にべっとりとかかる。
「止まれ!」
さらに三人の兵士たちが現れる。既に彼らも剣を抜き放っており、臨戦態勢に入っている。無論、王女には止まる意思などなかった。
何も答えず、何も言わず、一人目の兵士の剣をかいくぐって、首筋を斬り裂く。今度は頭から返り血を浴びて、王女は真っ赤に染まった。
だが、返り血くらいで怯む王女ではない。残った二人を見て、にやりと笑った。
別に戦闘に高揚しているわけではない。返り血に染まったその姿で不気味に笑うことによって相手を威圧しているのだ。王女の思考通り、残りの二人の戦意はその時点で挫けてしまっていた。
「お前たち」
できるだけ低い声で言う。明らかに兵士たちは怯んだようで、一歩後退した。
「武器を捨て、我が意に従え」
王女の姿が、兵士たちにはどのように見えたであろうか。
いつも通りの、退屈な見張りの役目。そこに突然飛び込んできた血まみれの女戦士。自分たちの命はこれまでなのか、と思ったところで無理はなかったのかもしれない。
二人の兵士はどちらからともなく、武器を落とした。
「よろしい」
王女はゆっくりと近づくと、素早く兵士の一人に当て身をくわせた。ごふっ、と息が吐き出されて、ばったりと倒れる。
「ひ、ひいっ」
もう一人の兵士は腰が抜けたようにその場に座り込んだ。
「……お、お、お助けを……」
「殺しはしない。最上階にいるお人のところまで案内するのであれば」
「は、は、はい」
剣をつきつけられた兵士は、がくがくと震えながら階段を上り始めた。王女は兵士に悟られないように、ゆっくりと息を吐き出していた。
二人とも何も言わないまま、ゆっくりと階段を上っていく。最上階へたどりつくまでにさほど時間はかからなかった。
「開けろ」
「は、はい」
「牢と手錠の鍵」
「そ、その机の中です」
「ご苦労」
王女は手刀で兵士を失神させてから机に駆け寄る。兵士の言った通り、そこには鍵束が入っていた。
「ルファーさん?」
左右に並ぶ牢。柱にくくりつけられている蝋燭だけが唯一の光源であった。
「ルファーさん? いらっしゃいませんか?」
「……こっちだ……」
二度目の呼びかけに、ひっそりとした声が帰ってきた。その声の弱々しさに、よほどの責めがなされたことが王女には理解できた。
声のした場所へ駆け寄ると、王女は目を見開いた。
そこに、いまだ宙づりにされて体中から血を流していたルファーの姿があった。
あの拷問は、拷問室などではなく、牢の中で行われていたのだ。
「ルファーさんっ!」
叫び、大慌てで牢の錠を開ける。そして中に飛び込むと、今度はゆっくりと宙づりにされているルファーに近寄った。
「ひどい……」
「……手錠を、外してくれ……」
言われて気づき、王女はすぐに足場を持ってきてそこにルファーを立たせた。足元はおぼつかなかったが、そうしなければ手錠を外した時に片方の手首に全体重がかかってしまう。ルファーもようやく得た足場に、ほっと一安心したようであった。
それからようやく手錠を外す。半日以上ぶりに、ルファーの身体は自由を得たのである。
だが、その様子は燦々たるものであった。
ずっと両手首で吊られていたために、両手はもう壊死寸前であった。半日吊られていて未だ壊死していない方が奇跡といえたであろう。また、脇腹や背中など数カ所に、鞭で打たれただけではなくて、肉の焼け焦げた跡があった。恐らくは熱した鉄の棒を押しつけたのだろう。
そして何よりも酷かったのは、両方の足が貫かれていたことであった。おそらくは例え仲間が助けに来たとしても一人では逃げられないようにするためであろう。その足で、先程足場に何とか立ったのは、この男の精神力の強さが分かろうというものである。
「ルファーさん、ルファーさん」
王女は既に涙声であった。
自分がもっと早く行動していれば、ここまで酷いことにはならなかったかもしれない。あの夢を見た時にロイスダールたちに連絡していれば。もっと早くにパーティを辞退していたら。
この人たちに会ってからというもの、自分は後悔をしてばかりだ。
「マリー、助かった」
その場に座り込んで、ルファーはこの状況でもなお無表情に言った。
「そんな、私がもっと助けにくるのが早かったら、こんな」
「気にしないでいい。あいつらに捕まった俺の方が間抜けだっただけの話だ。お前は助けに来てくれた。それで充分だ」
それでも泣き止まない王女を、ルファーは優しく撫でた。そうすることもつらいであろうに。
「マリー。お前は優しいな」
初めて。
王女は、初めてルファーが微笑んだ所を見た。
それを見てまた涙が溢れだし、ルファーにしっかりと抱きついていた。ルファーもまた、おぼつかない仕種で王女を抱き返していた。
はた、と気づくと王女は慌ててルファーから離れた。
「も、申し訳ありません、こんな時に」
「気にするな」
ルファーは無表情で立ち上がろうとした。だが、やはり足に力が入らずに王女にもたれかかる。
「すまない」
「気にしないで、私にしっかりと寄り掛かってください」
「少し、背が足りないようだ」
それはきっと彼なりの冗談だったのだろうが、このような状況においては王女の意気を消沈させる効果しか生まなかった。
「……すみません……」
「気にするな。ニーダも来ているのだろう? とにかく足と手さえ回復できれば問題はない」
ようやく、ルファーは床に落ちていたローブに気づいた。
「変身しているのか」
「はい。私の不注意で」
「仕方がないな。俺が一人で歩けない以上、ニーダに連れていってもらう他はないだろう。マリー、俺のことはいいから、そのローブを」
はい、と答えて一旦ルファーを座らせ、取り落としたローブを手にする。しっかりと腰に巻き付けて落ちないように縛り、再びルファーの傍へ近寄った。
「一つ、聞いてもいいですか」
「ああ」
「何故あなたは私のことを、マリー、と呼ぶのですか?」
あの襲撃があった夜。自分の正体が判明した後、ルファー以外の三人はシスティーナ、もしくは王女、と呼ぶようになった。
だがルファーだけはずっと、マリー、と呼びつづけた。
「お前はマリーだろう」
「私は」
「隠さなくてもいい。推測はしていた。あの日は言わなかったが」
王女は目を見開いて、ルファーの瞳を見つめた。
「……全て、分かっていたのですか?」
「分かってなどいないさ。推測しただけのことだ」
「何故、その推測を言わなかったのですか?」
「俺以外の三人は腹芸ができないからな。お前が王女じゃないと分かれば必ずボロが出る。それは知っている者だけが知っていればいい」
思わず、大きく息を吐いていた。
まさか、そのことに思い至っている人間がいるとは思わなかった。
この国の国王も副宰相も、全ての人間を騙すことに成功していたのに、こんなところに自分の正体を見極めている人がいたとは。
「マリー、というのが本名かどうかは知らないが」
「本名です。ですがもう、捨てた名前です」
「お前は、システィーナ王女の影武者だな」
マリーは、小さく頷いた。
「何故分かりました?」
「だから、推測だ。一国の王女ともあろうものが、無謀にもあの森を抜けようなどと考えるものではない。例え実行に移そうとしたところで国王が許すまい」
「はい。王女殿下はご自分でこの国へ乗り込もうとなされましたが、陛下のご反対を受けて、今は自室で誰にも会わないようにしておられます」
「そして代わりのお前が派遣された。それくらいのこと、簡単に推測できたさ」
「あなたは、すごい人です。ルファーさん」
「もっとも、確信をしたのはここに来てからのことだ」
「といいますと?」
「俺の正体。記憶は戻らないが、王子の親衛隊長だとかいう身分だそうだ。だとすれば始終王子につきまとっていたのだろう。当然、婚約者のシスティーナ王女とも顔を会わせているはずだ。お前が本物なら俺のことに気づいていたはずだろう」
このような状況でそこまで頭が回ることの方に、マリーは感銘を受けていた。
「それより、俺の方も聞きたいことがある」
「なんですか」
「どうして、ここが?」
「推測です」
ルファーはまたしても珍しく感情を見せた。目を見開いて驚いた様子であった。それを見てマリーは満足げに微笑む。
「冗談です」
「なるほど、これはしてやられたな。それで?」
「本当のところは私も自信がなかったのですが……」
そして、マリーは自分の身に起きたことを簡単に説明する。
「不思議な話だな」
「はい」
「俺がリュートという名前だということも、その夢で知ったんだな?」
「はい」
ルファーは真剣な表情で考えに落ちた。
「不可解だな。偶然で片づけるにはおかしい。だが、偶然でないとすれば、いったい……」
と、にわかに階下がにぎやかになってきた。悪魔の唸り声が聞こえ、兵士たちの鬨の声がそれに続いている。
「……まずは、脱出だな」
ルファーがそう言いながらなんとか立ち上がったところへ、黒色の悪魔が飛び込んできた。マリーは素早く扉を閉め、錠を下ろす。
「ニーダ。よく来てくれた。助かった」
ごふ、とその巨体が揺れた。頷いているようであった。
「酷使して悪いが、あの壁を破ってくれないか。おそらく、外に通じるはずだ」
もう一度揺れると、悪魔は頭を垂れて、角でその壁を指し示した。
直後、その壁が爆発した。爆風に煽られ、マリーは後ろの壁に叩きつけられる。
さすがに、これにはマリーも驚いた。人間だった時とこの姿の時とでは、破壊力も桁が違う。
爆発した場所には、現在のニーダの縦も横も倍以上の大きさの穴がぽっかりと開いていた。
「マリー。ニーダに捕まれ」
「は、はい」
マリーはローブが外れていないかを確かめ、ニーダの首にしっかりと抱きついた。ルファーはニーダが抱きかかえている。
「と、飛び下りるんですか?」
「違う。飛ぶんだ」
ルファーの声が聞こえたと同時に、自分のすぐ傍でもぞもぞと何かが蠢いた。
肩が、自らの意思で動いている。
何だろう、と思って右肩をじっと見ていた。
何かが、鱗を破って突き出てきた。
(……翼……)
そう、それは紛れもなく翼であった。徐々にその大きさを増し、左右の翼の一枚ずつがマリーの大きさほどになると、ニーダはその穴から夜空に向かって、飛んだ。
(わあ……)
さすがに飛び出した時には少なからず恐怖を覚えたマリーであったが、空に出てしまうともう、そのあまりの爽快感に体が震えだしていた。
満天の星空。そして、人が生きている地上の光、生活の証。
上と下からの光点の海に、一人漂っているかのような浮遊感を覚えていた。
と、突然体が落下する感覚に襲われた。いや、間違いなく落下していた。それほどのスピードで悪魔が地面に向かって急降下していたのだ。
驚く間もなく、悪魔が何を考えてそうしているのかが王女には理解できた。その先に、何人かの兵士たちと、それに囲まれている一人の女戦士の姿が見えたからだ。
「ジャンヌさん!」
叫んで、王女は悪魔が兵士たちの間に突進したと同時に手を離して飛び下りる。地面を二度、三度回って起き、剣を抜いて兵士の一人を斬り裂いた。
兵士たちが突然のことに戸惑っている間に、悪魔の攻撃が襲いかかった。ルファーを抱えているために腕と爪を使った攻撃はできなかったのだろう、角が輝きだすと、その部分から電撃が迸り、兵士たちを残さず打ち倒したのである。
「ニーダ!」
叫んだのは姉であった。姉にとっては、助けに飛び込んできた王女より、全身に怪我を負っているルファーより、たった一人の弟の方が余程大事なのだろう。
兵士たちの中で息のある者はもはや誰一人いなかった。それを確認してから、悪魔はジャンヌと王女の傍に降り立った。
「馬鹿、あんた、何で……」
ごるう、と悪魔が悲しげな目で姉を見つめ返した。
「ニーダの心配より先に、俺の心配をしてほしかったのだが」
未だニーダに抱きかかえられたままのルファーが、苦しそうにうめく。
「ルファー! 無事だったんだね。ロイスダールから聞いた時はもう……」
「残念だが、無事とはいえない状態だな。応急手当をしてほしいのだが」
言われて、ようやくジャンヌはルファーのその様子に気がついたようであった。
「あんた、これ」
「相当、酷くやられた。体はまだ何とか大丈夫だが、手と足がな」
「ニーダ、ゆっくりおろして。回復魔法、できるね?」
悪魔が小さく頷いて、慎重に草の上にルファーの体を横たえた。
「ルファーさん」
「大丈夫だ、マリー……最悪の場合でも、死ぬことはない」
涙目になっている王女を励ますように、ルファーが呟いた。
「ニーダ、急いで。手の方が先」
ぐるう、と答えて、悪魔は這いつくばり角を右手にあてた。
「……どうですか?」
「マリー。そんな簡単に怪我が治るわけがない……しばらく、このままにしておいてくれないか」
ルファーは、やれやれとでも言うかのようにため息をついた。
「それより、ロイスダールはどうした?」
「あいつは、一人でパルス王子の宮へ向かった」
「一人でか?」
「ああ。生死を確かめてくるから、ルファーたちと合流してくれって言われたよ。その途中、ヘマって兵士に見つかっちゃったんだけどさ」
「あいつめ。しばらく落ち着いていたが、また単独行動しているのか」
ルファーの無表情さは、この場合苦い感情を伴っているかのようであった。
「ロイスダールなら大丈夫でしょ。一人だって、無茶はしないさ」
「普段なら確かに無茶はしない。だがお前もあいつの正体は知っているだろう。一人にしておくと何をするか分からない」
「まさか」
「お前と出会ってからのあいつは単独行動を控えていたから、お前には分からないかもしれないが、一人の時のあいつは、俺の倍も無茶をする奴だ。ましてや……」
ルファーは視線を一度、王女に送る。
「あいつはこの王女を高く評価していた。そのために何でもしてやろうという気持ちになっているのだとすれば、多少の無理どころか、命をかけてでもという気になっているかもしれない」
二人の会話を聞きながら、王女は改めてこの人たちの秘密について思い耽っていた。
ジャンヌは超一流の盗賊、ルファーがパルス王子の親衛隊長、ニーダが悪魔。この上、リーダーのロイスダールにまで、まだ何か秘密があるという。
たしかに、ロイスダールにも不自然なところがいくつかあった。あの繊細なタッチで描かれた絵もそうだし、森を抜ける道を知っていたこともそうだ。ただの傭兵であるはずがないとは思っていた。だが、いったいその正体となると……?
「システィーナ」
「え、あ、は、はい」
「何ぼやっとしてるのさ。ローブ、貸して」
「あ、はい」
王女は慌ててしっかりと結んでおいたローブを外すと、ジャンヌに返した。
「ありがと」
「いえ、ロイスダールさんにもローブだけは持ち帰るように言われましたし」
「そうじゃなくて」
ジャンヌは穏やかな微笑を浮かべると、システィーナを抱きしめていた。
「ジャンヌ、さん?」
「弟を嫌わないでくれて、ありがと」
礼を言われるようなことではなかった。
この悲しい姉弟を嫌うことなど、努力したところでできるはずもなかった。
「ニーダさん。父親が違うって言ってましたけど」
ジャンヌは離れると、まだ治療中の二人を見ながら頷く。
「悪魔、だったみたい。よくは知らないけど」
「悪魔」
「母親も、妊娠していることに気づいてなかったし」
王女は目を見張った。
「まさか」
「それが、あたしも調べてみたんだけど本当らしいんだ。悪魔の子を宿した女性っていうのは、どうも妊娠した自覚がないみたいなんだ。そして妊娠の期間も長くて……たしか十八か月っていう説と、三年っていう説があるんだけどさ」
「では、突然産気づかれたのですか?」
「うん。子供心にびっくりしたよ。母親が突然お腹を押さえて倒れ込んで、一時間もしないうちにこの子が産まれたんだ。この姿で、もちろん当時はもっと小さかったけどね。で、母親はその時に死んで……途方に暮れたよ、あたしは」
「…………」
「あたしたちが村を出たのもね……この子が原因だったんだ」
「もう、いいです」
王女は、目を背けた。そんな、悲しい独白は聞きたくなかった。
「ま、聞きたくないっていうならそれでもいいけどさ。あまり具合のいい話でもないし」
おそらく。
それから、何があったのかは想像に難くなかった。いや、自分が想像する以上の悲劇をこの姉弟は経験しているのだろう。
自分はそれに耐えられるほどの精神力を持たなかった。それが分かっていたから、それ以上のことを聞くことができなかった。
「もう、大丈夫だ」
落ちついた声が聞こえる。顔を上げると、ルファーがゆっくりと立ち上がるところであった。
「手も足も、なんとか無事だ。まだ剣を握るには力が戻ってこないが……」
「歩けるだけでもマシさ。それに、ロイスダールを止めるのはあんたしかいないんだからね、ルファー」
「そのつもりだ」
ルファーは、自分よりも少し背の高い悪魔を見つめて言った。
「まだ、飛べるか?」
ぐふう、と悪魔が頷く。
「あんまり、この子に無茶させないでよ」
「分かっている。だが、このままここにいても仕方がないだろう。それなら、ロイスダールを助けに行くべきだ」
「まあ、それはそうだけど」
「王女は部屋に戻った方がいい。が、その恰好ではまずいな」
改めて、王女は今の自分の姿を見つめ直した。肩から足先まで、返り血でべっとりと赤く染まっている。恐らくは髪の毛から顔中、同じ様子なのだろう。
「あはは、システィーナ、真っ赤っか」
「ジャンヌさんだって」
ゆっくりとは見ていなかったのだが、ジャンヌもまた返り血を浴びて赤く染まっていた。だが、この女性はこの姿の方が逆によく映える。
「できれば、私も連れていってはもらえませんか」
「そう言うのではないかと思っていた。お前は行動的な人物だ」
「本当にパルス王子が亡くなられているのでしたら、できれば自分で確かめたいのです……我儘でしょうか」
「いや。お前が何故そうしようとしているのかは分かるつもりだ。止める理由はない」
ルファーは言いながら悪魔の肩にしがみつこうとしたが、悪魔はそれを許さずルファーを抱きあげた。
「無理しない方がいいって、ニーダが言ってるよ」
「やれやれ。異国の姫君は俺ではなくてマリーの方なんだが」
「あんた、最近冗談言うようになったね」
ジャンヌが関心しながら、悪魔の左肩にしがみついた。王女は右肩だ。
そして、悪魔は再び翼をはためかせた。漆黒の闇夜に、悪魔の姿は溶けて消えた。
「一つ、伺いたいことがあるのですが、よろしいですか?」
王女は、気になっていたことを尋ねてみようと思い、勇気をもって問いかけた。
「なに?」
「ロイスダールさんは、何者なんですか?」
隣で悪魔にしがみついているジャンヌが顔をしかめているのを、しっかりと確認した。やはりその話はしたくない部類に属するようだ。
「やはり、聞かせたくないのですか?」
「まあ、あんたならね、システィーナ。あんただったら、ロイスダールのことも嫌わないとは思ってるよ。でも、正直、あたしもよく分かっていないんだ。あいつは……ロイスダールは、あたしたちと出会ってから随分丸くなったって主張する奴がいるからさ」
それが彼にとってたった一人の友人であることは言うに及ばなかった。先程の会話からもそれを察することができる。
「ルファー。あたしも、聞きたい。いったいあいつが何者で、どういうことをしてきたのか……いい機会だから教えてくれないか?」
「あいつの正体はお前も知っているだろう」
悪魔の体の向こうから、声だけが聞こえてきた。
「そりゃ、話だけは聞いたけどさ」
ジャンヌは、王女を見つめて苦々しげに呟いた。
「あいつ、ダークエルフの血が混ざってるんだ」
王女は目を瞬かせた。
「……ハーフ?」
「いや、クォーター。父方の祖母で、まだ生きてるはずだよ。あいつの父親と一緒に暮らしてる」
ロイスダールは、ゆっくりとではあるが着実に王子宮へ近づいていた。
気配を殺すのには慣れたものだ。最近ではジャンヌに頼ることが多いが、本来はそうした役割は自分のものだ。
何故なら、自分ならば完全に気配を喪失させることができる。血のなせるわざ、と言ってしまえばそれまでだが、これを利用して自分は今まで幾多の仕事を完遂させてきた。
暗殺。
ジャンヌと出会う前、いや、ルファーと出会う前はまさにそれが彼の生業であった。気に入らない人間を殺し、なおかつ報酬も貰えるというのであればまさに一石二鳥だ。
ルファーに出会ってからというもの、人間というものをそれほど嫌うことがなくなってきたため、そうした仕事をすることは少なくなった。完全に足を洗ったのは、ジャンヌと結婚してからのことだ。
最後の仕事を、今でも覚えている。
完全に足を洗うための、ジャンヌと結婚するための、やむなき殺人だった。そして、唯一自分の意思で殺した相手だった。ルファーに全てを懺悔して少しは気が楽になったとはいえ、自分の心の中にはいつまでも罪の意識が残っている。ルファーに出会って、ジャンヌに出会って、ニーダに出会って、自分は初めて暗殺が罪であると認識することができたのだ。
汚れきった人の世で、何をしたところで罪になどなりはしないと思っていた自分が、明らかに変わったのはあの三人のおかげなのだ。
自分がもう数えきれないほど暗殺をこなして、その仕事の一つを完遂させて森の中に逃げ込んだ時のこと。自分は、あの男と出会った。何故あの男を『拾う』気になったのか、今考えても全く説明がつかない。あの頃の自分は人間という存在が汚らわしく見えて、毛嫌いしていたはずなのに。あの憔悴しきった顔を見ていると、不思議と『仕方がない、助けてやるか』と思わせる気になった。単なる感傷か、それとも何かの予感があったのか……。いずれにしても、あの男を拾ったことは自分にとって最良の選択であった。そうでなければ、今の幸せは手に入らなかったのだから。
暗殺の量がめっきり減ったのは、あの男のおかげだ。あの男は感情がない上、正義感もなかった。自分の暗殺業を認めているふうでも、否定するふうでもなかった。ただ一度だけ、尋ねられたことがあった。
『何故、人を嫌う?』
理由などいくらでもあった。ただもっとも大きな理由は、人は、異端を受け入れるだけの許容量がないということだった。自分や、義弟のような異端を受け入れられるほどに、人は強くない。
『それが分かっていて、何故嫌うんだ?』
あの男は平然とそのことを指摘する。やはり、被害者でない者には分からないのだと憤りもした。だが、あの男は自分を受け入れていた。自分の境遇や出自を疎んじたことは一度もない。そんなことは全く気にならないふうであった。
『お前が俺を傷つける理由はないだろう』
『だが、俺は人間を嫌っているぞ? お前のことも嫌っているかもしれない』
『俺のことを嫌っているなら、最初に出会った時に俺の命はなかった。もうお前は俺を殺すことはない』
信じている、などという言葉は使わなかった。そんな当たり前のことは知っていて当然だろう、とこちらを諌めるような口調であった。
とにかく、そうしたやり取りのおかげで自分は随分と人間に対する見方が変わった。あの姉弟と出会ったのは、そんな折、とある戦場でのことだ。
彼女のように、活発で開放的な女性は、自分にとって眩しかった。今まで暗闇の中を歩いてきたがゆえに、土竜が太陽を直視したかのような目眩を感じた。
そして、弟の正体と、姉弟の出自を聞いて、酷く自分を嫌った。この姉弟は自分以上のしうちを受けているというのに、自分はいったい何だというのか、と。
自分の雇い主を殺したのは、自分の過去を清算するためであった。だが、それくらいのことで自分の罪が消えてなくなるわけではない。
もっと、誰かの、何かの役にたちたい。人間のためなどとはいわない。自分の気に入った人物のため、大切な人のために、何かをしたい。
ずっとそう思い続けてきた。
だから、これはいわば恩返しだ。たとえ自分の命が危険だと分かっていても、これを成し遂げることにこそ、今の自分の生きる理由がある。
必ず、つきとめてみせる。
「暗殺者……」
「あまり、人には言いたくない過去だろうがな……マリー、お前はこの話、聞かなかったことにしておいてくれ。それがあいつのためだ」
「……分かりました」
王女は衝撃を受けていた。あの温厚そうな人物に、まさかそのような過去があるとは。
「暗殺をしてたって話は聞いてたけどさ」
ジャンヌもかなり顔が青ざめている。
「まさかそんなにやってたとはね」
「お前らに出会った頃には、もう随分仕事をしなくなっていた」
「だったらあたしよりルファーの方が、あいつにとって影響力があったんじゃないの?」
「誰が、という議論は無意味だ。あいつにとっては、俺たち三人がいて、ようやく今の自分がいると考えている。あいつの中では俺たちの上下はない」
「それは分かっているけど」
「それに、あいつが本気で足を洗う決心をしたのはお前のためだ、ジャンヌ。結婚相手が暗殺者ではよくないだろうと真剣に悩んでいたぞ」
「あたしはあいつが暗殺者だって怯まなかったさ。あたしがあいつに惹かれたのは、あいつがまっとうな人生を送ってきたからとか、そういうんじゃない」
「それがあいつにも分かっているだけに、辛かったのではないかな。暗殺者なんていう職業をしていたわりに、あいつは随分と悩み性だ」
「そうは見えないよね」
「他人には見せないだけだ。だから俺たちがサポートしないと無茶ばかりする」
「ふうん……」
ジャンヌは面白そうに頷いてみせた。
「今、ちょっとあんたのこと見直したよ」
「何がだ?」
「あんた、いつもロイスダールに面倒見てもらってるように見えるけど、本当はあんたの方があいつのこと見てくれてるんだね」
ごるう、と悪魔が同意するかのように音を鳴らした。
「あいつがいなくなると、世の中の楽しみが半分以上はなくなってしまう」
「うん、そうだね」
「だから、あまり無茶をさせないようにしよう」
「全面的に了解」
その二人の会話を聞きながら、王女はいつぞやのロイスダールの言葉を思い出していた。
『ルファーのことは一番信頼できる相棒だとは思っているけど、ルファーが同じように思ってくれているかどうかは謎だね』
きっと。
きっと、ルファーもまたこれ以上ないくらいにロイスダールのことを考え、思っているのだろう。
それがいったいどういう理由からなのか、伺ってみたい気もする王女であった。
それぞれの空の下で
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