KISS IN THE SKY

第1話 眠れぬは君のせい






 聖都シランドの昼下がり。のんびりとしたうららかな時間が流れていた。
 小春日和の青空が、少しずつ強まる寒気を幾分か和らげてくれている。
 そんな穏やかな時間であるにもかかわらず、彼女──クリムゾンブレイド、ネル・ゼルファーは少し憂鬱な気分だった。
 朝からあまり食べ物を入れていないにもかかわらず、彼女は昼食も取らずにたまっていた書類を次々に片付けていく。
 ここしばらくは、こうした何でもないゆっくりとした時間がただ流れていた。
 異世界での戦いも、アーリグリフとの戦いも、もう今では遠い過去。
 精神を研ぎ澄ますことも、命をかけて戦うことも、もうない。
 この平和な時間が、いつまでも続けばいい。
 そんなことを思うとき、決まって彼女はすぐに反対のことが頭をよぎる。
(随分とまあ、自分もこんなに丸くなったもんだね)
 あの戦争の時からは考えられないことだった。
 戦って平和を勝ち取ることしか考えていなかった自分。だが、その先の未来で何をしようかなどとは一度も考えたことがなかった自分。
 自分に未来を見せてくれたのは──
「ネル」
 ──今日も昼過ぎに出勤してきた、彼のせいだ。
「遅いよ、フェイト」
 少し気分が悪い様子を作って彼の言葉を受ける。走ってきたのか、彼の息は上がっていた。
「ごめん」
 彼は神妙だった。遅刻してきたことがそうさせているのか。いや、ただ遅刻してきたからだけではない。
「いくら客人で、国のために貢献してくれているとはいえ、月に二度も三度も寝坊されちゃ、部下にしめしがつかないんだよ」
「本当にごめん」
「あんたの『本当に』は信用がならないからね」
 いつもより冷たい口調になる。本当は、そんな言葉など言いたくはない。
 だが、さすがに今日という今日はそれくらい許されるだろう。何しろ──
「遅刻したこともそうだけど、ネルとの約束が守れなかったこと、本当に悪かったと思ってる。だから、ごめん」
「ふうん。少しは分かってるみたいだね」
 立ち上がって腕を組み、いつも上目づかいで彼を見る。
 彼の申し訳なさそうな表情は、旅をしていたときにも何度も見ている。だが、彼がこういう顔をするのは決まって自分の前だけだった。他の仲間たちとは違い、自分のことを特別に思ってくれているからこそ、こういう表情を自分だけに見せてくれる。
 だがもちろん、ここで簡単に許すわけにはいかない。もっとも、別に本気で怒っているわけでもないし、最終的には許すことは分かりきっている。それでも、きちんと言うべきことは言わないと癖になるのは困る。
「全く、最近あちこち移動しなきゃいけないからたまにはお昼くらい一緒にどうだいって誘ったのはあんたの方なんだよ」
 ここ一ヶ月ほど、フェイトはグリーテン、サンマイトの哨戒活動で奔走していた。特にサンマイトの方で人手がほしいと幽静師団の長より相談があったため、フェイトが単独で向かっていたのだ。
 サンマイトで起こっていたのは、かのエクスキューショナーとの戦いでの『後遺症』が残っていたものだった。さすがにエクスキューショナーそのものはもうどこにもいないのだが、あの卑汚の風を受けて凶暴化したモンスターが、まだそのまま影響を受け続けて人間を襲うような事件はいまだなくならない。
 今回はその数が多かったため、フェイトが封魔師団のメンバーを数名連れていって鎮圧に協力したのだが、そのためほとんどネルと会う機会はなかったということになる。
「分かってる」
「こっちは忙しい中、わざわざ時間をあけたっていうのにさ」
「ごめん」
「それで、今日はいったい何で寝坊なんかしたんだい。また夜更かししてたのかい?」
「うん」
「全く」
 コツン、と軽く彼の頭を叩く。
「ここはあんたの世界じゃないんだから『げーむ』とかいう奴だって何もないんだろう」
「そうなんだけどさ、その」
「またクレアにでもちょっかいかけてたっていうのかい?」
「違うよ!」
 慌てて誤解を解こうとする彼。いつまでたってもこういう反応をしてくれるのだから、つい、からかいたくなってしまうのは仕方のないことだろう。
「その、昨日の夜は」
 自分よりも背の高い彼が、うつむいて上目づかいでこちらを見た。
「お前のことを、考えていたから」
「……は?」
 何を言われたのか一瞬分からなかったが、その意味がようやく分かった時、顔に血が上るのがはっきりと分かった。幸運だったのは、きっと自分以上に彼の方が顔を真っ赤にしていたことだった。
「だから、久しぶりに今日、ネルと食事ができると思って嬉しくて、そのことばっかり考えて眠れなかったんだよ!」
 照れているのか、そっぽを向いてしまう彼。自分も照れ隠しにマフラーに赤らんだ自分の顔を隠した。
(まったく、なんてことを言うんだい)
 少しでも動揺しているところなど、彼に見せたくはない。
 彼はいつでも素直で、純粋だ。
 ひねくれているのは自分の方。
「あんたね、それが言い訳になると思ってるのかい」
「ごめん」
「私だって、今日は楽しみにして、少し寝不足なんだからね」
「え?」
 彼がきょとん、と目を丸くする。
「さ、行くよ。わざわざこの時間まで何も食べずに待ってたんだから」
「ネル」
「何してるのさ。今日はあんたのおごりだよ」
「もちろんだよ」
 そう。
 彼との食事を楽しみに、眠れぬ夜を待ち続けていたのはお互い様だ。
 次の日を待ちきれず、夢の中で逢えればいいなんて、そんなことすら考えていた。
(本当に)
 彼女は苦笑した。
(私はこいつに、骨まで溶かされてしまったみたいだね)
 それもいい。
 前は恋愛など、まるで興味はなかった。
 だが知ってしまえば、これほど甘く切ない麻薬は他にない。





 食事の後はシランド城に戻り、ネルの私室で会話をした。
 会話といっても、恋人にありがちな甘い愛のささやきではない。フェイトがここ最近忙しかった、グリーテンとサーフェリオ、隣国の様子についてだ。
「グリーテンは相変わらず入れてももらえなかったよ」
「やっぱりね。あそこは閉鎖国家だから、よそ者は侵入させないようにしているからね」
「実際、どんな国なのかは行ってみないと分からないよな。イザークを見たら分かるけど、技術力はシーハーツよりはるかに上だ」
 なんとか部下をもぐりこませようとしても、その度に失敗している。
「でもネル、グリーテンは敵対国家というわけじゃないんだろう?」
「だが、高い技術力を持った国家がそこにある。今は敵対していなくても、将来は敵になるかもしれない。それなら、早く友好関係を築きたい。私の言っていることは間違っているかい?」
「正論だね。さすがにレーザーミサイルはないと思うけど、普通に遠距離ミサイルくらいはあってもおかしくはない」
「遠距離ミサイル? なんだい、それは」
「うーん、なんていったらいいかな、この間のバンデーンとの戦いのとき、空から爆弾を投下してきただろ? あの爆弾をグリーテン国内から打ち込んでくることができるかもしれない、っていうこと」
「なるほどね。そんなことをされたら、シーハーツは抵抗する手段がない」
「僕が調べているのは、そういうものがあるかどうか、それだけなんだ」
 フェイトもフェイトで、この世界で必死になって生きようとしている。
 少なくともネルと共にいる以上、この国を守るという役目を担う以上、自分にできることを必死にこなしている。
「なるほどね」
「それからサーフェリオだけど、こっちはいつもどおりだったよ。モンスターはいつもより多かったけど。ああ、ロジャーにも会ってきた。今度どこかまた冒険に行くとか言ってたよ。ネルに会いたがってたな」
「お断り」
「やれやれ、ロジャーも浮かばれない」
 フェイトが苦笑する。彼女も苦笑して答えた。
「それともあんたは、私がロジャーに会いたいって言ったら、どうするんだい?」
 彼は少し考えてから、正直に答える。
「嫉妬する」
「それなら、余計なことは言うもんじゃないよ」
「はいはい」
 彼は立ち上がって彼女に近づくと、その額にキスした。
「……あんたね」
「なんだい」
「もう少し時間と場所を考えな」
「時間はともかく、場所は問題ないと思ったんだけど?」
 確かにここはネルの私室だ。
 だが同時に、彼女の仕事部屋でもあるのだ。
 何かの際には、部下がここに詰め寄せてくることになる。
「それに、僕とネルとの仲はもう公認だろう?」
「そういう問題じゃないよ。仕事に中にそういう──あ、フェイ」
 彼に、きつく抱きしめられる。
「こら、甘えてるんじゃないよ」
「だって、久しぶりにネルに会えたんだし」
「昨日も会ってるだろ!」
「でもお互い忙しくて、こうすることもできなかっただろ?」
「笑顔で聞くな!」
 と、そのとき。
「ネル様!」
 都合よくノックもせずに扉を開けてきたのは、タイネーブとファリンだった。
「あららぁ〜」
「あ、えと、その、お邪魔してすみません!」
 まじまじと見つめるファリンに、すぐに回れ右をするタイネーブ。
「そんなことはないよ……まったく」
 名残おしげに離れるフェイトを睨みつける。彼は肩をすくめた。
「で、どうしたんだい」
「あ、はい。陛下が及びでしたので、その」
「だからって何も二人で来る必要はないだろうに。分かったよ、すぐ行く」
「はい、それで、フェイトさんも一緒にとのことです」
「こいつもかい?」
「こいつ呼ばわりはひどいな、ネル」
 彼は苦笑して首をひねった。
「とにかく、陛下は緊急のご用件とのことです」
「了解。ほら、行くよ」
「ああ」





 と、このように、二人の時間はごく平和に流れていた。
 特別何もなければ、平和なまま時間は流れていっただろう。
 だが、星の海にはまだ解決されていない一つの問題があった。
 クリフ・フィッターは宇宙船の中で『ネオ・ディプロ』からの通信を受け取っていた。
 既にクォークも解散して久しい。だが、マリアは新しく製造した『ネオ・ディプロ』に乗り込み、宇宙のあちこちを回っていた。リーベルにスティング、マリエッタ、そして以前からマリアの部下として仕えていた何人かのメンバーが、その船で星の海を旅していた。
「よお、リーベル。久しぶりだな」
 いまや政治家となったクリフがディスプレイに映る通信相手に向かって言う。
 こう見えてもクリフは多忙だ。星の海を旅するマリアと、エリクール二号星で暮らすフェイト。二人の超常力者を守るために日夜活動している(正確にはソフィアも超常力者だが、彼女の力は他者に無害であること、仲間内以外誰も知らないこと、マリアやフェイトと違って単なる一般人であることなどから危険性はないと判断され、クリフの保護対象とはなっていなかった)。
『クリフさん! そんな悠長なことを言ってる場合じゃないんです! リーダーが、リーダーが!』
 相変わらずマリアのこととなると見境がなくなるらしい。変わらない元部下に、クリフは思わず苦笑する。
「あのなあリーベル。リーダーったって、もうクォークは解散したんだぜ?」
『ですから、そのマリアさ……マリ……マ……り、リーダーが!』
 彼はもうマリアのことを『リーダー』としか呼べなくなってしまっているらしい。
「そのマリアがどうしたってんだ?」
『リーダーが……』
 リーベルは、真剣な表情で言った。
『行方不明になりました。過去一日にわたって、完全に消息不明です』
「行方不明?」
 ディプロで移動している最中に突然行方不明になる。そんなことがありうるというのか。
「状況が分からねえな。まず、ディプロは動いてたのか? ワープを使った痕跡は?」
『ディプロは三日前からムーンベースにいたんです。リーダーはラインゴッド博士の研究室へ行かれました』
「その後は?」
『一度ディプロに戻ってきたのが二日前、その日のうちにまたムーンベースへ出かけています。それから先の行方がつかめてないんです』
「なるほどな。ムーンベース内部は全部調べたんだな?」
『はい。どこにも隠れている様子はありません。もう既にどこかにワープしてしまったのかも』
「きっとそうなんだろうな」
 突然のマリアの行動。消失した行方。
 マリアのことだ、リーダーという重責を終えた今、昔のように周りの迷惑をかえりみず突っ走った行動をしているのだろう。
 だが、それならば何故ムーンベースへ行ったのか。
(ラインゴッド博士の研究所か)
 すぐにクリフには気がついたことがあった。
「リーベル、すぐに研究所に向かえ」
『はい?』
「マリアがそこで何を調べていたのか調査するんだ。もしかすると、手がかりがつかめるかもしれねえぞ」
『あ、なるほど!』
 それすら気がつかないくらい、彼は動転しているようだった。
「それから、結果が分かったらすぐに知らせてくれ。あいつが単独で行動するなんて、嫌な予感がしやがる」
『分かりました! では、すぐに研究所に行ってまいります!』
 向こうから通信が切れた。やれやれ、とクリフは苦笑する。
「だが、いったい今さらムーンベースに何の用があるってんだ?」





 マリアの不可解な行動。
 それが、彼らに再び戦いを強いることになるとは、まだこのときは誰も知るよしもなかった。





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