カルチャー
第4話 不眠症
僕は絶対にネルだけは死なせるつもりはない。
たとえ他の誰を犠牲にしたとしても、ネルの命が最優先だ。
ネルが死んでしまうくらいなら、ディオンやアミーナの命だって犠牲にできる。
他の全てを犠牲にできる。
だから、ファリンさんやタイネーブさんを助けるためにネルを犠牲にすることなんかできない。
「……なんだって?」
ネルの声に怒気がこもる。
「ネルを死なせない。もしもネルが一人で修練場に行くというのなら、僕は絶対にシーハーツに協力はしない」
「……!」
完全に怒っている。それはそうだろう。
国か部下か、どちらかを選べ、と押し付けているのだから。
「あんたにそんなことを言う権利があるっていうのかい!」
「ある、と言いたいところだけれどね」
自分には確かにその権利があると言いたい。元の世界では自分とネルは恋人同士だったのだから。だがこの世界ではまだ自分はネルとそういう関係ではない。
自分はどうするべきだろうか?
「いずれにしても、選ぶのはネルだ。もちろん、選択肢なんてないんだけどね」
ネルには国を捨てることなどできない。その程度の判断能力は残っている。
最終的には部下を切り捨てることになったとしても、諦められる。
「どうして……」
ネルはその場に崩れ落ちた。
「なんだって、あんたはそんなことを言うんだい」
ネルが苦しむのは分かっていることだった。
クリムゾンブレイドなどという地位についてはいるが、彼女はその地位にふさわしくない。
そう、まるでふさわしくないのだ。自分の身を危険にさらして部下を助けに行く、などという行為は。これがもし、クレアが同じ立場に立たされたとしたら、ためらうことなく部下を切り捨てるだろう。
ネルにはそれができない。上に立つ者としては失格だ。
──そして、自分が最初に彼女に惹かれたのは、その点なのだ。
「ネルは任務だと私情を殺すことがある。でも、自分が大切にしているものを命をかけて守ろうとする意思がある。それは立派だと思う。だからといってネルを殺させたりはしない。僕の命にかけてもだ。だから──」
ようやく、フェイトは本題に入った。
「──僕とクリフが協力する」
その言葉に、何を言われたのかが理解できないでいるネルが、呆然と彼を見上げた。
「今、ファリンさんとタイネーブさんは修練場に連れていかれるところだろう。修練場に二人がついてからでは遅い。その前に手を打てば大丈夫」
「ちょ、ちょっ……」
「実は、策はもうできてるんだ。だからネルは僕たちに協力してくれればいい」
「何を言っているのか分かってるのかい?」
「うん。これから僕たち三人で助けに行くっていう話」
「そんなことができるわけないだろう! 私はあんたたちを陛下の前まで連れていく義務があるんだからね!」
「聞かないよ。だって僕はわがままなんだ」
そう、この世界に来てから自分はわがままになった。
全てを手に入れる。アミーナとディオンも助ける。ファリンとタイネーブも助ける。
過去という時代にやってきた自分になら、それができると信じる。
「僕はね、ネル」
崩れ落ちていたネルの前に片膝をつく。
「君が苦しんでいるところなんて、本当は見たくないんだ。君にはずっと笑顔でいてほしい。せっかくの美人が台無しだからね」
「あんた……」
からかわれたのか、と不満を見せるネル。だが、このときの彼は本気だった。
「もしも君がここで部下を見捨てるようなことがあったら、君はそれを表面には出さなくても一生それを後悔して生きることになるだろう。僕は後悔と共に生きるネルを見たくない。言ったろう、僕はわがままなんだって。ネルにはずっと、幸せでいてほしい」
「フェイト」
「だから、僕はネルの願いをかなえる。ファリンさんとタイネーブさんは僕が助ける。少しでもネルが僕のことを仲間だと思ってくれるのなら、僕を信じてほしい」
「……」
ネルは自分の頭を手でおさえた。
「あんたの言ってることは突拍子もなさすぎるよ」
「そうかな」
「でも私は、あんたを危険な目にあわせるわけにはいかないよ。あんたを連れていくことが私の使命だから」
「ふ〜ん」
いやに意味ありげに答える。当然、ネルもその答え方に身構えた。
「なんだい?」
「かまわないよ、僕は。ネルがどうしようとも。でも僕はもう決めたから」
「何を、だい?」
「修練場に行くことを。ネルが嫌だっていうんだったらついてこなくてもいいよ。僕はクリフと二人でファリンさんとタイネーブさんを助けに行くから」
「ちょっ……何を馬鹿なことを!」
「馬鹿でもなんでもいいけどね。いずれにしてもネルには選択肢は多くない。僕たちと一緒に二人を助けに行くか、この街に一人で残っているか。そのどちらかだ」
信じられない、と首を振る。その様子を見てフェイトは苦笑した。
少し、いじめすぎただろうか?
だが、初めて会ったころのネルがあまりにも新鮮で、可愛くて、儚くて。
その翅を、自分の手で捕らえたくなる。
「あ……」
気がつくと、無意識のうちにネルを抱きしめていた。
「安心して、ネル。僕が必ず二人を助けるから。だから、ネルも僕に協力してほしい。必ずファリンさんとタイネーブさんを助けるから」
しばらくネルは身動きがとれずにいた。
彼女の思考はおおよそ理解できる。突然こんなことをされたことによる混乱と、目の前の男性を信じたいという期待、そして任務を果たさなければいけないという使命感、さまざまなものが今彼女の中を渦巻いているだろう。
ようやく動き始めた彼女は、自分を強く押しのけた。これも、彼にとっては予想の範囲内だった。
「何をするんだい」
「ごめん」
軽く肩をすくめる。もちろん悪いことをしたなどとは少しも思っていない。
「でも……ありがとう」
ネルは小さな声で言った。
「どういたしまして。じゃあ、僕の言ったことを了承してもらえるかい?」
「ああ」
多少投げやりな気はしたが、それはあえて追及しないことにした。
「あんたに、期待してみることにするよ」
宿屋に帰ってくると、クリフがちょうど昼寝から目覚めたところだった。
そのクリフが「おそろいでお帰りか」とひやかすように言ってネルを動揺させたが、フェイトは全くひるまずに言った。
「そんなことを言ってる場合じゃない。クリフ、急ぐんだ」
「んあ?」
「これからすぐにカルサア修練場に行く。ファリンさんとタイネーブさんを助けるんだ」
「ほう」
クリフは少し驚いた顔になった。
「どういう風の吹き回しだ?」
「人を助けるのに理由が必要かい?」
「いいや。でも、その心がわりの理由が聞きたいところだけどな。あんとき二人を犠牲にすることをいち早く了承したくせに」
「後で助けることを予定に入れていたからさ。全員が捕まったら助からないけど、動ける人間が他にいればいくらでもやりようはある。それに……」
「それに?」
「お前を信頼する、クリフ。お前がいてくれればきっとあの二人を助けることができる」
「へっ」
クリフは鼻をこすった。そう評価されて悪い気がするわけがない。
「ま、そういうことなら信頼されてやってもいいけどな。さっきの件はどうする」
「そうだね、クリフとは早めに話はしておきたいんだけど、今の僕は急いでいるんだ」
それはクリフにも伝わっていただろう。一分一秒を無駄にはできないという意思が、今のフェイトからはあふれ出ている。そしてそれはタイネーブやファリンが捕まるよりも前からだ。
いち早くペターニへ向かわなければならない。その意思が知らずのうちに態度に出てしまっているのだ。
「少なくともペターニという街に着けば、僕も落ち着くことができるんだ。それまではもしかしたら話せないかもしれない」
「ああ、かまわねえぜ。お前が話したいときに話せばいい」
おそらく彼もここで寝ながら考えていたのだろう。自分の変化に。そして今は見守るという手法に変えてきたようだ。
そう、彼はいつも自分を見守っていた。
兄のように。
(感謝するよ、クリフ)
だが、さすがにそれを口にするには照れがあった。
アーリグリフからここまで、フェイトは全く寝ていない。
拷問が終わって目が覚めたとき、既に自分としての意識があった。そのときが明け方。そしてそれからカルサアまでの道のりを馬車で移動し、途中からは徒歩で移動し、もはや日が暮れようとしている。
そしてこれからカルサア修練場へ向かうというのだ。今すぐに。
「今すぐか? そりゃあ俺はかまわねえが……」
お前の体は大丈夫なのか、と暗に尋ねてくる。確かにまだ拷問の傷は癒えていない。一日や二日で治るものでもないが。
「僕は大丈夫。今は立ち止まっている方が辛い」
「そうか。ま、そういうときもあるわな。で、どうするんだ?」
「ファリンさんとタイネーブさんは近いうちに修練場に連れていかれる。修練場に入られたら罠をしかけられる。だったら先回りするんだ」
「先に修練場に攻撃しかけるってのか?」
「ああ。アーリグリフの現状はある程度確認している」
修練場は【漆黒】の拠点だ。
だが、現在【漆黒】のほとんどはアルベルが引き連れて王都アーリグリフにいる。修練場にいるのは半分以下だ。
その【漆黒】を率いているのは豪腕のシェルビー。手勢は多いわけではない。
シェルビーはヴォックスの息がかかっている。どのみち早いうちに倒さなければ和平交渉のときに障害となる。
だから、作戦としては非常に単純。【漆黒】が二人を修練場に入れる前に、先に修練場に攻撃をしかける。シェルビー一人を討ち取ってしまえば指揮命令系統は混乱する。その混乱に乗じて二人を救出してしまえばいい。
「大胆な作戦をたてるな」
クリフが頭を押さえた。
「でもシェルビーを倒しやすいのは間違いなく今なんだ。今なら強襲するだけで余力を残して目的を達成できるはずだ」
「まあ、お前の言うことにも一理はある」
「けど、無謀だと思うかい?」
「そんなことはないぜ。俺を信用してくれるんだろ?」
「もちろん信頼している」
クリフの能力は高い。自分にはその能力の高さが把握できないくらいに。クラウストロ人の中でも能力がある方だと話には聞いているが、底が見えないとはまさにこのことだ。
「というわけで、すぐにでも行こう」
フェイトは話を切り上げた。
一秒でも、今の自分には無駄に使える時間はない。
月が昇っていた。
シェルビーはようやくめぐってきたこのチャンスを逃すつもりはなかった。クリムゾンブレイドと技術者二人。それを捕らえるだけで、自分はこの【漆黒】の団長になることができる。
もちろん、後ろにはヴォックスがいる。今はその名前を利用するが、いつかはヴォックスから一人だちし、自分がこの国を動かす。
それだけの野心が彼にはあった。
だが、野心があっても、能力が伴うかは別の問題だ。
この日、彼はそれを知る最後の機会を手にする。
酒が回り始めた深夜。突如襲った轟音と振動に、不審な表情を浮かべる。
「なにごとだ」
シェルビーが様子を見てくるように指示する。いらいらと待たされること数分、彼のもとに届いた報告は『敵襲』だった。
「敵襲だと? この修練場に誰が攻めてくるというのだ!」
彼の頭の中には、自分から攻めていくことはあっても、敵から攻められるというものはなかった。さらに言うならば、この修練場に攻め込んでくるような命知らずがいるということも頭にはなかった。
「ええい、侵入者がいるのならさっさと捕らえてくればよいではないか!」
手にしていたワイングラスを忌々しげに床に叩きつける。給仕していたマユがびくっと体をすくませた。
「報告いたします!」
何名かの【漆黒】がやってきて、続けざまに報告を繰り返す。
「ええい、分かった。さっさとその侵入者を片付けてこい!」
「はっ!」
そしてばらばらと【漆黒】が駆け出していく。部屋の中に残った【漆黒】はほんの数名だった。
「やれやれ。使えぬ部下を持つと苦労するわ!」
酒の勢いで言わせたのだろうか。だがその言葉に反応するかのように【漆黒】が動いた。
「申し上げます」
「なんだ!」
「【漆黒】の副将軍シェルビー様が、侵入者によって殺害されたとの報告です」
「……なんだと?」
その【漆黒】が動いた。
素早く動いた【漆黒】が、いつの間にか手にしていたナイフをシェルビーの喉元に突き刺す。
「がはっ」
シェルビーが目を見開いて目の前の【漆黒】に手を伸ばし、その仮面に手をかける。
ゆっくりと仮面が落ち、その中から藍色の髪の青年が現れた。
(まさか──)
シェルビーは、徐々に白くなっていく頭の中で、自分を殺した相手の名前を最後に思い浮かべていた。
アネモネ
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