カルチャー
第6話 angel-fishの涙
もちろん、既にカルサアで一度拷問を受けているタイネーブやファリンに歩かせることはできなかった。タイネーブはクリフが、ファリンはフェイトがそれぞれ背負い、夜のうちに一行はひたすらカルサアからアリアスへと向かった。
夜だったことが幸いしたのか、また修練場での混乱のおかげだったのか、道中ほとんど人らしい人、見張りらしい見張りに会うことがなかった。
このままいけば、アリアスに着く。
だが、その途中でついにフェイトの息が上がった。
無理もない。アーリグリフで拷問を受けて、アーリグリフ地下水路を抜け、カルサアへ、そしてカルサア修練場へ。
たった一日でおそるべき強行軍だ。しかもその間、休みらしい休みは全くない。
「フェイトさぁん」
耳元で、舐めるようなファリンの声が聞こえる。
「私は、大丈夫ですからぁ」
「すみません。本当に辛いので僕に話させることで余計な体力を使わせないでください」
ファリンに辛くあたってしまったが、それもやむをえないとフェイトは唇を噛む。
もはや二十四時間以上動き続けている。拷問と戦闘とで体は完全に悲鳴を上げている。
だが、それでも自分は急がなければならないのだ。
(前回よりも、ずっと早くアリアスにつけるんだ)
以前はカルサアで一泊、そしてアリアスで一泊、さらにカルサア修練場へ行って引き返してきてまたアリアスで一泊。その翌日にペターニへ出発したということを考えれば──
(今日のうちにペターニへ向かうことができれば、三日の節約だ)
三日分、アミーナに無理をさせることを防ぐことができるのだ。
もはや今のフェイトの頭の中にはそのことしかない。アミーナに少しも無理をさせるわけにはいかない。
必ず彼女を助けるのだ。
そればかりが頭の中にあった。
やがて、陽が昇り始めた。
その陽を目にしたとき、足が軽くよろめく。
(くそっ)
自分の体力のなさがうらめしい。もしこれが元の世界だったら、これくらいでまいったなんて言わせないのに、こっちの世界のフェイトは随分と体力がない──
(いや、違う)
まだ体力はあった。少なくともファリンたちを助けるまでは余力があった。
ファリンを背負ってここまで来たにしても、この疲労度はそれまでとは比べ物にならない。
(そうか、ディストラクション)
初めてこの力を使ったとき、自分は昏睡状態に陥った。つまりそれだけのエネルギーを必要とする行動だったのだ。
(しまったな。何も力が使えるかどうかを試すのは、もっと後になってからでよかったのに)
誤算だった。確かにエレナとの戦いの時にも一度ディストラクションは使っていたが、確かにめまいがしたのを覚えている。あの時は戦いの疲れかと思っていたのだが。
(アリアスまで、あとどれくらいだ……?)
一時間、二時間でつくような距離ではないということは分かっていた。
休憩を取りたかったが、それよりも早くアリアスに着きたかった。
そこまで行くことができれば、少なくともファリンという枷はなくなる。身動きが取れるようになる。ペターニが見えてくる。
長く辛い街道をひたすら歩く。
既に頭の中はからっぽで、それでも歩む速度は変わらず、だからこそクリフもネルも、フェイトはまだ元気なのだと安心していた。
本当はもう、倒れる寸前だというのに。
それでも気力でもたせるあたりが、自分らしいとも思う。
(アリアスだ……)
目の前が霞む。
既に陽は高く上って──いや、既に西に傾いている。
休みも取らず、水も食糧も補給しない半日もの強行軍。しかも人を一人背負って。
自分の体がばらばらになるかと思うほどの疲労。
「ありがとう、フェイト」
ぽんと、フェイトの肩に手が置かれる。
「もういいよ。迎えが来た」
自分の憔悴した表情に、ネルが驚いた様子だった。
そして、自分たちが目指すアリアスから、何人か馬に乗ってやってくるのが見えた。
「フェイトさぁん……」
「アリアスに着いたのか……」
「ああ。悪かったね。こんな荷物を運ばせて」
「こんな、はひどいですぅ」
「そうだね。ネルにとってファリンさんが大切な部下なのと同じように、僕もファリンさんのことは大切に思っているから」
「え、え、えええっ?」
ぽん、とファリンの顔が赤らむ。
「とにかくそれじゃあ──」
フェイトはファリンを大地に下ろす。
瞬間、強烈な眩暈と吐気をもよおすが、それでも必死にこらえる。
(まだだ)
歯を食いしばり、気力で持ちこたえる。
(まだ倒れるわけにはいかないだろ、フェイト・ラインゴッド!)
ペターニまでは倒れるわけにはいかない。
アミーナが無理しているのを止めるまでは、倒れてはいけない。
自分よりも、アミーナの方がずっと辛く、苦しい思いをしているのだから。
ファリンとタイネーブが馬に乗せられたのを見て、フェイトたちもアリアス入りする。
久しぶりのアリアスだった。いや、元の世界では何度も来ているから、別に久しぶりという感じがするはずはなかった──見知った景色であれば。
戦争が終わってからの一年半で、アリアスは随分復興した。だが、ここはまだその戦争前なのだ。
(こんなに荒廃してたっけ……)
あちこちに焼けた家が残っており、墓がたくさんあり、人々の顔に元気がない。
まさにここは、前線だった。
「ネル」
「なんだい」
「クレアさんに会いたい。もう一人のクリムゾンブレイドに」
「今すぐにかい?」
「一分、一秒でも早く。僕はすぐにでもペターニに向かいたい」
「何言ってるんだい、そんな体で!」
ふらついているのは誰の目にも明らかだった。このままならフェイトが倒れるのも時間の問題だ。
「でも、急ぐんだ」
「あんたが倒れたら意味ないだろう!」
「ペターニまででいいんだ。ペターニに着くことができれば、それで……」
今日中に出発したい。そうすれば明日の朝には間違いなく明日の朝にはペターニに着く。
今日もまた彼女は花を摘みに行き、花売りをしているだろう。それをもう止める術はない。
だが、明日の朝までにたどりついていなければ、明日彼女はまた無理をするのだ。
絶対に、今日中にアリアスを出て、翌朝までにペターニに着かなければならないのだ。
「……なんで、そこまで」
「後悔したくないんだ。だから、ネル、時間は貴重なんだ」
倒れる寸前まで衰弱しているのに、その表情は何かに追われるかのように切羽詰っていた。
ネルはため息をついた。
「分かった。案内するよ」
「ありがとう」
ほっと一息つくフェイト。
そう、ここまで来たのなら、別にクレアに挨拶などする必要はない。このまま休憩もいらないからすぐにペターニへ向かえばいい。月が頂点に出るまでには間違いなくペターニに着いているだろう。
だが、フェイトにはまだここでやらなければならないことがあったのだ。
「この家だよ」
家というよりは巨大な屋敷であった。ここが前線の本部基地になっているのだという。
ネルが扉を開けて中に入る。既にファリン、タイネーブが連れ込まれていたらしく、ネルが帰ってくることも既に事前に知れ渡っていた。
「お帰りなさいませ、ネル様」
「お怪我はありませんか」
「お部屋の用意は整っております」
何人かの部下たちに一気に話しかけられ、ネルは苦笑する。
「いや、すぐにクレアと話したいんだ。今は会議室かい?」
「はい。ご案内いたします」
「ああ。フェイト、クリフ。こっちだ」
屋敷の一階奥の部屋にネルが入っていく。
荒く肩で息をしていたフェイトだったが、その部屋に入る前はさすがに呼吸を整えた。
クレアに弱みを見せるわけにはいかない。
交渉は有利に運ばなければならない。
意を決すと、フェイトはその部屋に入った。
既にクレアとネルは友人同士の再会を終わらせていた。そして自分たちに腰掛けるように勧めてくる。
椅子に座った瞬間、恐ろしいほどの睡魔が襲いかかってきたが、ここで寝るわけにはいかない。気力を振り絞ってなんとかもちこたえる。
「フェイトさんに、クリフさんですね」
「なんだ、もう知ってんのか」
「ええ。報告は先ほど受けました。ネルと部下たちを助けてくれてありがとうございました」
「僕は感謝されるようなことは何もしていません。僕は自分勝手なので、自分がしたいように行動しただけです」
「それでも感謝させてください。私たちにとってあなたは大切な恩人です」
「話が伝わっているのなら早いですね。では、その恩人から一つお願いがあるんですが、聞き入れてもらえるでしょうか。いえ、お願いじゃないですね、これは」
フェイトは印象づけるために苦笑した。
「これは脅迫です。もし聞き入れてもらえないのなら、僕はシーハーツに協力することはしません」
「なっ、あんた!」
ネルが驚いて立ち上がる。
「条件は二つだって言ったじゃないか!」
「それはネルさんに対して言ったのであって、クレアさんに対して言ったわけじゃありません。僕は最初に言いました、『条件がある』と。そして次に『あなたへの条件は二つ』とも言いました。つまり、それ以外にも条件があるということです」
「そんなの、屁理屈じゃないか!」
激怒してテーブルを叩くネル。
「ネル」
クレアがその友人に声をかけて落ち着ける。
「それでその、条件というのをうかがってもよろしいですか?」
「そうだね」
フェイトは運ばれてきた茶を口に含む。
考えてみれば、水分を補給するのはしばらくぶりだったような気がした。
「今回の件でネルはどういう処分を受けるんですか?」
「はい?」
「僕たちを連れて帰るという任務だったはずなのに、一緒に修練場まで行ってしまった。いくらクリムゾンブレイドでも、それは任務を遂行したとはいえないんじゃないですか?」
「その通りです。規則に照らせば、ネルはクリムゾンブレイドの地位を剥奪されるほどのことをしています」
ネルは何も言わない。彼女もクリムゾンブレイドだ。任務に対する厳しさは人一倍ある。そして今回自分の選択がこうなることも予測していたのだろう。
「地位の剥奪ですか」
「おそらくそういう方向になるでしょう」
「では条件です。その処分を出さないでください」
ネルは目を見開いた。クレアはその前の段階で話の流れからそう言ってくると予測していたのか、さほど動揺を表にしない。
「私の方にもいくつか疑問があるのですが」
「どうぞ」
「どうしてネルを助けようとしてくれるのですか?」
「元々僕が自分勝手に行動しただけなのに、その罪を背負わせるわけにはいかないじゃないですか」
「それは違います。ネルの任務は、もしフェイトさんたちが──お気を悪くされないでください──シーハーツへ来ていただけないのなら、フェイトさんたちを亡き者にする。そこまでの任務を与えられていたのです」
「知っています。最初に言われましたから。ネルの言うことを承諾して生きてアーリグリフを出るか、承諾せずここで死ぬかと」
クレアは苦笑した。なんと幅のない二択なのだろう。
「結論から言いますと、ネルへの処分を無いことにすることはできません」
「僕がシーハーツに協力をしないと言ってもですか」
「はい。これは組織の問題ですから、個人の感情や意見を反映させるわけにはいきません。必ず組織が崩れる原因になりますから」
「そのこだわりが国を逆に滅ぼすかもしれませんよ」
「と、言いますと?」
「簡単です。僕が逆にアーリグリフと手を組んで、この国を滅ぼしにかかるかもしれないということです」
そこまで言い切られるとは思っていなかったのか、クレアはさすがに顔をしかめる。
「国のためを思うのなら、ネルへの処分はなかったことにしてください」
「ですが……」
「フェイト、もういい」
だが、今度は間に割って入ったのはネルだった。
「もともとこうなることは分かっていたんだ。だから、もういい」
「僕がよくないよ。何度も言うけど、僕はわがままなんだ。絶対に自分の思い通りにしてみせる。それだけの価値が僕にあることを知っているからね」
フェイトは立ち上がった。
「行こう、クリフ」
「お、おいフェイト」
彼の顔には表情がなかった。
本気の顔だ。
「まずはペターニだ。そこで僕はやることがあるから。でもその後はアーリグリフに行って、ヴォックスと協力してこの国を責め滅ぼす。徹底的に」
深空
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