カルチャー
第21話 プロトタイプな凍えた雨と疵だらけの羊達
「フェイト!」
目が覚めたとき、目の前にいたのは涙を浮かべていた赤毛のクリムゾンブレイドであった。
頭がぼうっとして、よく働いていない。ただ、今まで何があったのかはよく覚えている。
「ネル……よかった、また、会えた」
弱々しい笑顔を見せ、そして右手をそっと彼女の頬にあて、その涙をそっと指で拭う。
「お前には謝らなきゃいけないことがたくさんあった。でも、それよりもずっと、会えたことが嬉しい」
「フェイト」
彼女はその手を取り、自らの手と頬とで暖めようとするかのようにしっかりと包む。
「私もだ。フェイト、このままあんたの目が覚めなかったら、どうしようかと」
「今日のネルは、随分と素直さんだね」
「馬鹿」
「でも、ありがとう」
そのまま、彼女の頭に手を回し、そっと彼女を近づける。
「──キスしても、いいかな」
彼女は近くにある彼の口からそんな言葉が飛び出したのを聞いて、思わず笑ってしまった。
「ほんとに馬鹿だね」
そして、彼女から口づけを落とした。
(そう。僕は守らなければならないんだ)
フラッドの話から察するに、自分はフラッドのコンピュータの中に存在している。エターナルスフィアにいた自分とは別人なのだ。
新たに生まれたこの世界を守るのは、この世界の住人である自分しかいない。
(フラッド。君の思い通りにはさせない)
ディオンを助ける。フラッドと決裂した以上、彼は何があってもディオンを殺そうとしてくるだろう。
(だったら、僕も全力でディオンを守る)
フェイトは、ゆっくりとその手を彼女の背に回す。そして、唇も彼女の口から首筋へと徐々に移動する。
「ちょ、フェイ──」
そのまま、彼女をベッドに引きずり込む。そして服をはだけさせた。
「何する──んっ」
その口をまた、唇で塞ぐ。
少しの間、抵抗していた彼女だったが、徐々にその力が抜けて、フェイトが絡める舌にあわせるようになってきた。
そして、ゆっくりと唇を離す。
「ごめん、ネル。こうでもしないと、いつまでも『ここ』を覗き込んでる奴がいるもんだからさ」
ベッドの中、彼女のすぐ近くで彼は謝罪した。
これからネルには一つ、大事なことを頼まなければならない。そして、それをフラッドに悟られるわけにはいかない。
彼はずっと自分の監視をしているのだろうが、さすがに濡れ場になってしまっては、あの純情少年がいつまでも見ているとは思えない。
きっとあわてて、画面から目を離すはずだ。
この時間だけが、唯一のチャンス。
「どういう意味だい?」
「ああ、別にこのテントの外から誰かが覗いてるっていうわけじゃないんだ。いうなれば、僕は今『神』に見張られていると言ってもいい」
「神、だって?」
「ああ。それもアペリスとかじゃない。もっと性質の悪い奴にね」
創造主、フラッド。
ふざけた話だ。だが、この世界にいる自分たちにとって、これほど不愉快な現実はない。
「ネルに頼みがある。少なくとも『神』も僕らの濡れ場まで見ようとはしないからね。この時間だけが僕に残された唯一のチャンスなんだ」
「な、何を言って……」
「ネル、頼む。これから──」
念には念を入れて、フェイトは小さな、小さな声でネルに耳打ちした。
「どうして『そう』しなければならないんだい?」
全てを聞き終わったネルは、改めて尋ね直してきた。
「決まってる。助けるためさ」
フェイトは笑って答えた。そして、ベッドから降りる。
「僕はどれくらい寝ていた?」
「丸一日だよ。もうすぐ朝になる。戦争も三日目さ」
「三日目か」
今日の戦いでヴォックスとは決着をつけなければならない。何しろ、バンデーン艦がやってくるのは明日だ。
だが、フラッドは言っていた。ラスボスのヴォックスは強い、と。本気でかかってくるつもりなのだろう。何しろ前回の戦いでは、本気を出す前にバンデーン艦が来襲してしまった。
今のネルやクリフでは勝負にならないだろう。だとすれば自分が倒すしかない。
(問題は、どうやってヴォックスのところまで行くかということだ)
ベッドから降りて隣に立った彼女は、既に戦士の目に戻っていた。
「じゃ、行くよ」
「ああ。気をつけて」
「任せておきな。少なくとも、あんたにとって大切なものを私に任せてくれたっていうのは、正直嬉しいよ」
「本当に、今日のネルは素直さんだな」
「ふん」
彼女はマフラーを巻きなおすと、その中にまた顔を入れて上目づかいで見てきた。
「ヴォックスと戦うつもりかい?」
「ああ」
「あいつは強い。油断するんじゃないよ」
「ああ、分かってる。僕が負けるわけにはいかない。『みんな』の命がかかってるからね」
そう。
フラッドの意のままに操られているヴォックスを野放しにしておくだけで、たくさんの人命が消費されていくのだ。
そして、ヴォックスを止められなければ、この世界を消滅させるとも言っている。
「許さない」
フェイトは隣にネルがいることも忘れて口にしていた。
「僕は、こんなことをする彼を、絶対に許さない」
彼女はそれがヴォックスのことだと思った。だがもちろん、フェイトの心の中をしめていたのは、あの無邪気な少年の顔であった。
フェイトの覚醒は、少なからずシーハーツ軍の士気を回復させる効果をもたらした。特に喜んでいたのはファリンとタイネーブであったが、それまで張り詰めていたクレアの様子が綻んだのも良い傾向と見えた。幽静師団『水』の長であるブラウンも戻ってきたフェイトを見て笑顔になった。
いまだにヴァンの怪我は治癒しきれていなかったが、クリフは完全に起き上がっていた。もっとも戦争に出るのはミラージュから禁止されていたが。
「ご迷惑をおかけしました」
フェイトが言うと、クレアが代表して「いいえ」と答えた。
「こちらこそ、一番危険な任務を受けていただいて、申し訳ないと思っております」
「でも、ヴォックスを倒せなかったのは僕の責任です。そして、必ず今日、ヴォックスを倒します」
力強く宣言する。だが、彼は傷が癒えたばかりだ。ヴォックスを倒せるとは思えない。いや、そこまでたどりつくことすら難しいのではないか。
「無茶です!」
「無茶でもなんでも、やるしかありません。ルージュさんも亡くなって、今は早急に戦争を終わらせなきゃいけない。ヴォックスを倒すことだけがこの戦いに勝利する方法なんです。僕が行きます。誰が止めても無駄です。そう決めましたから」
「やれやれ、頑固者がついに切れちまったか」
クリフが肩をすくめた。
「しゃあねえな、保護者としては俺も付き合うか」
「クリフ、駄目です」
ミラージュが厳しい視線で睨みつける。
「あのな、そういう台詞はコイツに言えよな。俺よりずっと大怪我してたんだぜ? 悪いがな、コイツにばっかり辛い思いさせるのは俺が嫌なんだよ」
はあ、とため息をつくミラージュ。
「そう言うとは思っていました」
「だったら止めるなよな。時間の無駄だぜ」
「そのかわり、私も同行いたします。よろしいですね?」
「だとよ、フェイト」
フェイトも頷く。力強い戦力がほしいことには変わりない。
何しろ、今回はネルを連れてはいけないのだから。
「分かりました」
そして最後にクレアが締めくくる。
「ファリンとタイネーブは昨日同様に前衛を務めて」
「はっ!」
「はっ!」
「ブラウンはヴァンの代行で全軍を指揮」
「了解です」
「フェイトさん」
クレアは近づき、彼の手を握った。
「どうか、御武運を。絶対に生きて帰ってきてください」
「もちろんです。この世界を守るためにも、僕は負けませんから」
「はい」
そして──決戦の時が来た。
「なあ、フェイト」
ゆっくりとカルサア近くの山道を通る三人だったが、やがてクリフから声がかけられた。
「なんだい?」
「さっきの話だ。お前、この世界を守るため、とか言ってたな」
「あ、うん。みんなが住んでいる国だからね。守らないといけないだろ」
彼は口が滑ったことを後悔した。そして、その件に関して鋭く切り込んできたクリフを見る。どうも、今回ばかりは逃がしてはくれない様子だった。
「そろそろ、話してもいいんじゃねえか? ここには俺とミラージュしかいねえんだしよ。お前、どうして未来を知っているんだ?」
単刀直入という言葉がおそろしく当てはまっていた。
もう、誤魔化すことはできない。いや、誤魔化したくない。
この世界は、この世界の人たちのものなのだから。
(だからといって、タイミングっていうのがあるからな)
この戦いは余計なことを考えて生き残れるほど甘くはない。フラッドが用意したラスボスなのだ、相当な強さだと思わねばならないだろう。
「そうだね。僕は未来を知っている。でも、僕を信頼しているのなら、クリフ。この戦いが終わったら必ず話すから、待ってくれないかな」
「この戦いが終わるまで、か?」
「ああ。この戦いには全力を尽くさないといけないし、あまり時間もないしね。多分、話すだけでも凄い時間になると思うから」
そう、話さなければならないことは無限にある。
だが、今は目の前のことが先だ。
「分かった。だが、この戦いが終わったら、だぜ」
「ああ。今度こそきちんと話すよ」
そして。
彼らはやってきた。
あの【疾風】の本拠地へ。
「待っていろ、ヴォックス」
彼の目が、真っ直ぐその本拠地を射抜いていた。
「どうなさるおつもりですか?」
【黒天使】ことサイファは傍らに立つアルベルに尋ねる。
報告が入ったのは今。そして、フェイト・ラインゴッドがヴォックスの陣に向かっていると聞いて、心が動かないはずがない。
「聞くまでもないだろ、サイファ」
答えたのはリオンであった。
「トモダチ思いの旦那が、ほったらかしにできるはずないって」
「黙ってろ、阿呆」
【黒風】ことリオンは肩をすくめた。
「リオン、サイファ。お前たちにここの陣を預ける。俺はしばらく戻ってこないだろうからな」
「らじゃー」
「はい」
そして、アルベルは自分の刀を手にすると、漆黒の陣を出た。
どうするつもりかは自分でも分からない。別にヴォックスと敵対するつもりはないし、フェイトに協力する必要も義理もない。
だが。
(あいつに協力だと? そんなことして、何になるってんだ)
彼の心の中では、既に【フェイト・ラインゴッド】という名が生きていく上で必要不可欠な要素として築き上げられてきていたのだ。
かくして、舞台は整った。
フラッドの用意した舞台に上がった者たち。
その中心人物であるフェイトは、手薄な疾風の陣に突撃していった。
「ヴォックス!」
そして、目的の人物を見つける。
「来たか、フェイト・ラインゴッド」
ヴォックスは既に飛竜に乗り、臨戦態勢であった。
「お前の野望もここまでだ」
「そうそう。痛めつけられた分はキッチリ倍にして返すぜ」
クリフが骨を鳴らしながら言う。そして、最後の一人、ミラージュを見てヴォックスは顔をしかめた。
「ふむ……『前回』とはメンバーが違うな」
フェイトは目を丸くした。
「貴様、まさか」
「おお、覚えているとも。というより、あのフラッドという少年に、無理に知識を埋め込まれたにすぎぬがな」
つまらなさそうにヴォックスが答える。
「だが! いずれにしてもお前たちを倒さなければならぬのは同じこと! 今回は本気で戦わせてもらうぞ!」
闘気がヴォックスを包む。まさに本気ヴォックスの登場であった。
「それは、こっちも同じだ!」
フェイトも剣をかまえる。そして、クリフとミラージュが左右に分かれた。
「覚悟、ヴォックス!」
蟻とチョコレート
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