Singles-β

第1話 10 Years After






 しとしと、と暗闇に雨が降る。
 少しずつ寒さが強まる初秋。月のない夜に降る雨は冷たい。
 男は馬車から降りると、白い息を吐き出す。
 まだ夏が終わったばかりだというのに、この寒さだ。今年の気象は、かなり歪んでいる。
「お帰りなさいませ、旦那様。久しぶりの子爵領はいかがでございましたか」
 玄関で出迎えた執事に向かって、青年は羽織っていたコートを渡した。「まあまあだ」と口にしながら、屋敷の中へと入っていく。
 ミハエル子爵はここしばらく、一年ぶりに自分の領土である子爵領へと戻っていた。それには理由がある。今年の冬にやってくるであろう、食糧不足に備えるためだ。
「何か飲むものをくれ」
「用意してございます」
 屋敷の中は、この寒さのためにまだ秋になったばかりだというのに暖炉に火がくべられていた。
 リビングには既に子爵の好きなワインと、つまみになるような料理が並べられていた。
「ふふ、こんな豪華なものを食べられるのは夏の間だけだな」
「旦那様の領民は今年の冬も飢えることはありますまい」
「どうだろうな。今夏の寒さをみろ。このままいけばまず間違いなくアーリグリフ全土で食糧不足が起こる。今のアーリグリフに食糧を輸入するだけのゆとりも外交力もない。いや、その芽はあったのにつぶされた。あの新王によってな」
「旦那様」
「大丈夫だ。まだ酒など入っておらぬよ。この屋敷の中にいるもので、俺よりも国王に忠誠を誓っているものなどいるものか」
 そう言ってからワインを飲む。ソファに背を預け、大きく息を吐いた。
「お前もやるか」
 執事は傍らに立ったまま首を振った。
「私は旦那様に仕えることが役目ですから」
「そして言うのだな。そろそろ奥方をむかえられてはどうか、と」
「さようでございます。ミハエル子爵家の跡取りを作ることも、旦那様の大切なお役目にございます」
「なに、時期がくればそういう話も出るだろう。だが、今年は駄目だな。そのような余裕はなくなる」
 そう言って、彼は子爵領の様子を思い浮かべた。
 今年の夏は寒かった。記録的な冷夏だ。このままでは苗も育たず、冬を越すことも厳しくなるだろうと思われた。
 春には既にその兆候はあった。春野菜の味が例年と異なった。それが全ての始まりだった。
 正確な気温の調査を繰り返すうちに、夏の気温が上がらないことが予測された。その段階で領民には『穀物を食いつぶさないこと』をお触れとして出したが、おそらく効果は出ないだろう。
 彼はすぐに穀物を各地から買い込んだ。領民を救うための量は何とか確保できた。あとは秋の収穫の時に減税を行い、領民の様子に応じて食糧を出す。それで冬は越せるだろう。見込みはついた。
 だがそれは、子爵領の領民に限る。
 そのような対策をしている貴族は他にいないだろう。少なくともそういう動きを他であるなどということは聞いたことがない。
 どのみちそれを進言したところで、領民のことを人間と思っていないような貴族連中にはどうするつもりもないだろう。領民が餓死しようが、何も思わないような連中だ。
 既に収穫の時期は近い。あちこちで今年の苗は育ちが悪いということがちらほらと聞くようになってきた。それはまだ兆候にすぎない。
 今年は、その収穫ができないところも必ず出てくるだろう。
「国王様は何も対策を講じられないのでしょうか」
「しているさ。少なくとも俺の思い描く方向とは大きく違うがな」
「と、おおせられますと」
 彼は春の段階で新王、アーリグリフ十三世には今年の秋の不作について進言をしていた。今のうちに余裕のある他国、要するにシーハーツから食糧を買い付けておくべきだと。
 だが、王はそれを聞かなかった。軍備の拡張のための費用が優先されたのだ。その軍備拡張を強行に推進したのは疾風のヴォックス公爵。まあ、ある程度予想はしていたものの、新王の政治力もその程度だったかと少し落胆したのを覚えている。
「では、今年の冬はどう越されるおつもりなのでしょうか」
「このままいけば、戦争しかないだろうな」
 アーリグリフがシーハーツに戦争を行う。おそらくそのときは何らかの口実が必要となる。
 おそらくはアペリス神の信仰に関することを口実として使うのだろう。たとえば、アペリス教の信者が国王の暗殺をたくらんだ、それを裏から指示したのがシーハーツだ、などとそういうあらすじがもう立てられているに違いない。
「くだらない」
 彼は吐き捨てた。国の対面だの、国力を高めるだの、そんな話はどうでもいいのだ。王はいかに領民を幸せに統治するか、それが任務なのだから。
「その国王陛下から、召喚状が届いております」
「召喚? いまさらこの俺にか?」
 新王の改革によって領地を没収された貴族は数知れなかったが、ミハエル子爵は少数派の、領地を残された側の貴族であった。
 能力の高いものを採用する現在の『人事院制』は現状で上手に運営ができていた。温厚なウォルター老が議長となって全ての人事権を握り、能力がないと切り捨てられたものは領土も召し上げられ、一方で能力があると思われるものはたとえ爵位がなくとも採用していく。
 確かに先王の時よりもすごしやすくなったのは確かだ。馬鹿な貴族たちの相手をする回数が減った。
 とはいえ、民を苦しめるというのであれば、どんな王でも愚王には違いあるまい。
「まあいい。いつだ?」
「三日後、とのことです」
「何の話をするつもりかな。思い通りにならない私をいっそ牢にでも入れるか」
「旦那様」
「冗談だ。だが、俺が王の立場ならそうせざるをえないだろう。少なくとも俺は王の意に必ずしも沿って行動しているわけではない。ましてや戦争など」
 戦争だけは許されない。無駄に散らす命を王は何だと考えているのか、残された家族の苦しみを王は少しでも考えたことがあるのか──!
「旦那様」
 執事の声が聞こえる。気が高ぶっていた自分に気づく。
「ああ、すまない」
「どうか、早くご結婚を」
「またその話か」
「そうしなければ、旦那様はご婚約者のことをいつまでもお忘れになることができません」
 ふ、と彼は笑った。
「ミリアのことは言うな」
「はい」
「もう少ししたら眠る。お前も今日は休んでいい」
「それではお言葉に甘えさせていただきます」
 下がれ、と言ったら執事は必ず下がる。それは約束だった。
 一人で考えたいときは必ずそうして誰もいない空間を作る。
 それが彼の、自己防衛なのだ。
(ミリア)
 二十になる前に亡くなった娘。
(もう、十年にもなるのか)
 来年には自分も三十になる。
 彼女と十の差がつく。
(未練だな)
 しばし、彼は過去を思い出していた。






 翌朝、子爵は屋敷の裏庭にある小さな墓の前にいた。
 昨夜の雨で、草花が朝日を受けて輝いている。
 今日、ここに来るために昨日は急いで戻ってきたのだ。
「やあ、ミリア」
 それは、十年近くも前になくなった婚約者の墓。
「君の故郷を見てきたよ。今年は君が亡くなった年と同じように、とても寒い」
 墓石を吹きながら、声に出して話しかける。そこに彼女がいるかのように。
「きっとまた盗賊も出るだろうね。でも大丈夫。今年は返り討ちにできるから」
 盗賊が出ても領民を守ることができるように、準備は完了している。
 不作の年は治安も悪くなる。その辺りはぬかりない。十年前に学習済みだ。
「あのときはまだ、俺も若かったからな」



 十年前の不作の年、父親から代を受け継いで三年目、もうすぐ二十になる若いミハエル子爵は食糧を最優先にし、治安に回すお金を節約した。全てはそれが間違いだった。
 冬も半ばを過ぎて無事に春を迎えられそうだと思った瞬間のことだった。食糧にまだ余裕があるということをどこで聞きつけたのか、盗賊たちがミハエル子爵領を襲った。人員が減り、ろくな訓練もしていない兵では盗賊たちを追い払うこともままならなかった。そうしている間に被害は増大していった。
 最愛のミリアを失ったのも、そのときだった。
 後悔してもしきれない。全ては自分の決断だった。自分の決断が全てを狂わせた。
 上に立つものは、ありとあらゆることを頭の中に入れて活動しなければならない。
 立ち直る時間すら与えられず、彼はひたすら領土の復興に努めた。
 がむしゃらに走り続けてきた十年。
 あれからもうすぐ、十年になる。



「今年の冬で、君がなくなって十年になるよ。そして春が来れば、俺はもう三十だ」
 年月の経つのは早い。
 この十年、自分はいったい何をしてきたのだろう。何も為すことのない十年だった。何も得ることのない十年だった。
 領民たちが幸せそうな顔をしていても、どんなに感謝の言葉を投げかけてくれても、自分の心は全く満たされなかった。
 それは贖罪だ。
 領民たちを守ることができなかった自分は、どんなことをしてでも領民たちを今度こそ守りきらなければならない。
 今年の冬は、きっと盗賊が出る。
「まあ、そうなっても大丈夫だけれどね」
 子爵は腰の剣に手を触れた。
 剣一本では何も変わらない。大切な人を守ることすらできない。
 大切な人を守るためには、戦いそのものを亡くす努力をしなければならない。
(戦争は、回避できない)
 それなのに、自分にはその力がない。
 アーリグリフ王には既に何度も進言したことだ。不作の冬がやってくる、対策を打つべきだ。具体的に何をどうすればいいのかまで王には進言した。
 だが、あの王は。
『まだ不作になると決まったわけではない。今は国力を高めることが先決だ』
 あの王は、昔の自分と同じだ。
 来るべき災厄に充分に準備することを知らない。
「アーリグリフなど」
 国を捨てた王母エーデグリフ。彼女は何故このような不毛な土地を選んだのか。
「滅びてしまえばいいのだ」
 いつしか、子爵の思想は危険な方向へと向かっていた。






 二日後、子爵は王の呼び出しに応え、王城へとやってきていた。
 アーリグリフ城は相変わらず無駄に大きい。いったい誰がこのような辺境の土地をほしがるのだろうか。それに他国の軍勢がここまで侵略してきたとしたら、もはやアーリグリフには起死回生のチャンスは残っていないだろう。
 誰もここまで侵略してくるはずがないから大きな城を作ることは無駄だし、仮に侵略してきたとしたらどのような城を建てていたとしても滅びは免れない。いずれにしても無駄な大きさだ。
(仕方がないな。全てが無駄と無能でできている国だ)
 無能の大半は追放されたが、その中でも巨大な無能の親玉がまだそこにいる。
 アーリグリフ十三世が。
 子爵は国王の前に進むと、うやうやしく膝をついた。
「お久しゅうございます、陛下。ご壮健そうで何よりでございます」
 たとえ心の中でどのようなことを思っていたとしても、本人に向かってそれを言うような者はいない。思ってもいないことを平然と口にできなければ貴族などやってはいられない。
「うむ。お前も元気そうで何よりだ。子爵領へ戻っていたそうだな」
「はい。久しぶりに知己に会いたかったものですから」
「お前の知己とやらが、お前と同様に優秀な者ならば、ぜひこの城に召抱えたいものだ」
「伝えておきましょう」
 簡単なやり取りから入るのは当然のことだ。幸いといっていいのか、今ここにはウォルターもヴォックスもいない。
「今日、お前に来てもらったのは他でもない。ちょうど領地に帰っていたというのならもう分かっているのだろう。今年の収穫のことは」
「無論でございます。私は何度か、国王陛下にその旨上申いたしました」
「ああ。そして現実のこととなったようだな。被害予測の報告が一週間前にやってきたところだ。まさか俺もここまでの被害になるとは思わなかった。このままでは餓死者が出るどころの騒ぎではなくなる」
 それを何度も自分は上申していたはずだった。全くといっていいほど、国王には通じていなかったようだ。
「以前一度、お前からの話を直接聞いたことがあったが、お前はこれほどの規模になると予測していたのか?」
「おそれおおきことながら」
「なるほど。もう少しお前の意見を聞くべきであったな。だが、今となっては後の祭だ」
 はたしてこの会話の内容から、国王は自分にいったい何をさせようというのだろうか。おそらくはあまり芳しくないことだとは思うが。
「お前に一つ頼みがある」
「頼みでございますか」
「そうだ。この不作を乗り切る手段がもしあるのなら、教えてはくれまいか」
 ことここにいたって、もはやその方策はない。当然だ、必要になる金額は軍備拡張費に全て費やされた。
 だとすればもう、子爵に打てる手は一つだけだ。
「簡単なことです、陛下。シーハーツから援助を受けることです」
「援助?」
「そうです。今年の不作を乗り切るだけの食糧を買うことは今のアーリグリフではできますまい。であれば、余裕のある国から譲ってもらうしか方法はありません」
 当然のことながら王は顔をしかめた。それでは国の対面というものが保たれない。当然といえば当然だ。
「陛下。事は急を要します。今年の冬ではシーハーツにもそれほど余力はないでしょう。今のうちに援助を申し出ておくべきです」
「なるほどな──いや、分かった。お前の意見には聞くところがある。検討してみよう」
「陛下」
「下がっていい」
 王は、その意見を容れるのを避けた。そう子爵は感じた。
(ヴォックス公のことを考えたか)
 シーハーツから援助を受けるなどもってのほか、ヴォックスならばおそらくそのように言うだろう。
 結局、ヴォックスの言動に逆らうこともできないような国王だったということだ。
「失礼いたします」
 子爵は王の間を辞してから、一つため息をついた。





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