Memory

第1話 a whisper in the Afternoon






 その日は聖都シランドにしては珍しく風の強い、天候の悪い日だった。
 灼熱の太陽も今日はその姿を見せず、見上げると灰色の雲がかかっている。おかげで若干暑さが和らいでいるが、そのかわりいつ雨が降ってもおかしくない、そんな空模様だった。
 雨が降りそうだからといって仕事が変わるわけではない。フェイトは相変わらずネルの手伝いなどをしていたし、ネルはクレアの不在の分までシランドの仕事を片付けなければならなかった。無論、光牙師団の仕事にまで口を挟むわけではないが、クリムゾンブレイドでなければ決裁ができないことなど山のようにある。
 フェイト・ラインゴッドというのはそうしたネルにとっては都合のいい相手であった。シーハート二七世より、クリムゾンブレイド補佐の立場を半ば公式に認められているのだ。ネルもそれが分かっていて、国の決裁事項でもフェイトに相談することが多くなっている。無論、絶対にもらすことができないものまで頼り切るようなことはしないが。
 フェイトも自分の立場をよく分かっている。あくまで自分は『他の国から来たアドバイザー』という立場だ。もちろん、そのアドバイザーという地位も、かつてアーリグリフとの戦争でヴォックスを倒し、平和をもたらした救世主であるという威光があってこそだ。
「一雨来るね」
 ネルは窓から外を見て言う。その隣に立ったフェイトも「うん」と頷いた。
「今日はマリアとアミーナが出かけてるはずだから、あたらないといいけど」
「そうだね」
 あれ以来すっかりマリアに懐いたアミーナは、いつも一緒に遊んでいる。マリアとしても他に特別何かをしているというわけでもなく、今はその状況を楽しんでいるらしい。
「それに、今日は」
「うん」
 あれから二ヶ月。
 既に季節は夏。冷帯気候のアーリグリフですら真夏日になる夏。ましてや北部に位置するこのシランドの暑さたるや、なかなかのものだ。
 摂氏にして三十度を超える日が続き、それが夜中にも残るので熱帯夜となる。それでもこのシランド城内は涼しい方らしい。何しろ施術によって冷風があちこちから出されている。それに対して城下で舗装されているところは照り返しでさらに温度が上がる。地獄のような暑さになっているのは容易に予想できる。
 そう。今日は──前線、アリアスの村からクレア・ラーズバードがシランドに戻ってくる予定日だった。
 第一陣のカルサア復興が終了したのに伴い、ルージュ・ルイーズとお供のダリアは現場を部下に任せて引き上げてきた。アーリグリフにしても対面があるので、後は救援物資のやりくりだけになる算段だ。
 既にルージュたちはアリアスでの現場責任者の地位を引き継ぎ、今度はアリアス復興の指揮をとっている。戦争の爪あとは一年や二年で復興できるものではない。だが、アーリグリフで学んだ技術をもってすれば、アリアスでの復興作業もはかどるだろう。
 そしてクレアは前線でできることをすべて終えたと判断し、いよいよシランドに戻ってくることになったのだ。
「春以来か。クレアに会うのも久しぶりだね」
 ネルが嬉しそうに言う。フェイトはカルサアに行く際に一度アリアスに立ち寄っていたが、ネルの方はといえば春にフェイトと一緒にアリアスまで出向いた時以来だ。その時もすぐに取って返してきたので、満足に話し合うということができていなかった。
「一つ、確認したいんだけど」
 フェイトが少し緊張したように言う。
「なんだい、改まって」
「いや、クレアさんがここに戻ってきたら、軍の全権はクレアさんが指揮するわけだろ?」
「そりゃあね。総大将だから」
「そうしたら、ネルはまた、アーリグリフ勤務とかになるのかい?」
 ネルはフェイトが何を悩んでいるのかが分かった。もしもネルがアーリグリフ勤務となれば離れ離れになってしまう。それを考えたのだろう。
「私はアーリグリフには行かないよ。何しろ、面が割れているのにスパイ活動なんかできるはずがないだろ?」
 確かにその通りだ。説得力のある説明に表情を崩した。
「よかったよ」
「素直だね」
「僕はもともとネルのことだけは素直なんだ」
 何を言ってるんだい、とネルはマフラーに顔を埋めて息を吐く。
「あんたももう少し、物の言い方を覚えてくれるとありがたいんだけどね」
 ツンとした様子だが、それが照れ隠しであるということはフェイトにも分かっている。こうした素直になれないところまで、フェイトはネルを愛している。
「……なんだい、その顔は」
 考えていることがそのまま表情に出ている。フェイトが何を考えているかなど、ネルにはお見通しだ。
「あ」
 フェイトが会話を逸らすようにして外を見る。
 すると、ぽつり、ぽつりと次第に雨音が始まった。
「やっぱり来たか」
「そうしたらこちらで受け入れ準備をしておかないとね」
 城下では慌しく人が家に戻り、徐々に喧騒が静まる。
 だが、その雨がこの暑さを奪い取ってくれる。
「アミーナ、大丈夫かな」
 フェイトの呟きに、ネルがただ小さく頷いた。






 クレアが到着したのはそれから一時間ほどしてからだった。
 マリアとアミーナからは先ほど連絡があり、今日はペターニにあるマリアの家に泊まってくるとのことだった。まあ、雨の中をわざわざ戻ってくる必要はない。今日はクレアも交えて夜中まで一緒に話すことができると思うと、それはそれで嬉しい。
 ルム車での移動だったため雨を直接受けたわけではなかったが、雨の中で車に乗るのは大変に疲れる作業だ。たった一時間とはいえ、クレアの顔にはわずかに疲労が浮かんでいた。
 ルム車ごと城門までやってきて、階段の前で止まる。盛大な出迎えなどはない。もしそんなことをしていたら、ネルなど行く先々で歓待を受けなければならない。
 だが、今日だけは別だ。前もって帰還が分かっているのだ。フェイトとネル、それに光牙師団の一級構成員のヴァン、二級構成員のグレイが出迎えている。
「クレア」
 もちろん、最初に彼女に近づいていくのはネルだ。
「ネル。久しぶりね」
「ああ。あんたも変わらないようで、嬉しいよ」
 そうして親友同士が抱きしめあう。その二人が雨に当たらないよう、傘で覆ったのがフェイトだった。
「フェイトさんも、お久しぶりです」
「はい。クレアさんも元気そうですね」
「向こうはもうほとんどやることもありませんでしたから。これから大変な仕事が待ち構えているかと思うと、正直竦んでるんです」
「あんたがそんなこと思うはずがないだろ。仕事の鬼なんだからさ」
「あなたには負けるわよ、ネル」
 そして傘を下ろして敬礼をするヴァンとグレイに、クレアも敬礼を返した。
「濡れるから敬礼はもういいわよ。ヴァン、グレイ。留守をありがとう」
「いえ。クレア様のお力になれて嬉しいです」
 グレイが顔を上気させて言う。
 グレイに限らず、光牙師団の団員は半分以上が非公開組織『クレアファンクラブ』の会員だ。この聡明で麗しい団長の傍にいられるというだけで嬉しいものなのかもしれない。
 ふと、そんな人間をどこかで見たような記憶があった。しばらく考えて思い至る。
(あ)
 フェイトの頭の中に、一人の男の名前が思い浮かんだ。
(リーベルか)
 確かに見向きもしてもらえず、しかもその能力だけは信頼を置いてもらえているというこの立ち位置、まさにクォークにおけるリーベルの立場だ。
 もっともリーベルと違い、グレイはただクレアを崇拝するだけで、クレアの傍にいるフェイトやヴァンらを敵対視することなく、仲良く接してくれているのだが。
「ヴァンもありがとう」
「いえ。向こうにはミリィを置いてきたのですか?」
 光牙師団の二級構成員、ミリィ・シャオロン。そういえばいつもクレアの傍に女性が控えていたということをフェイトは思い出す。
「ええ。私が離れるとはいえ、細かい引継ぎとかは残るでしょうし、そうしたら彼女が一番適任だから。こっちは変わりない?」
「はい。報告に差し上げたこと以外には何も。ただ、私的なことでよければ、一件」
「何かしら」
「今度、妻を娶ることになりました」



 間。



『はあっ!?』
 全員の声がハモる。全員の仰天ぶりに言ったヴァンの方がたじろぐ。
 何しろ妻である。刺身のツマとかの落ちではないのか、とか誰かが一瞬考えた。妻。つま。ツマ。wife。何しろヴァンに妻だ。もちろん決してヴァンの容貌がよろしくないとか、そういうことではない。むしろヴァンは理知的で冷静で大人の魅力と風格を漂わせ、なおかつ見目もよろしいという三拍子どころか十二拍子くらいはありそうな男性だ。そういう噂が流れない方が今までおかしかったのだが、それでもヴァンが妻を娶るというのはこの国で一番ありえないような気がするのは決して四人の錯覚ではないだろう。彼の女性遍歴は一言でいうなら朴念仁という言葉につきる。今日はこの後、雨だけではなく、聖剣ファーウェルが降るかもしれない。
「ど、どういうことですか、ヴァン!」
「いえ、申し上げた通りですが」
「申し上げた通りって、私は聞いてないよ」
「僕も」
「副団長、いつの間に……」
 四つの視線がヴァンを睨みつける。クレアの歓迎でここに揃っているはずなのに、主役はすっかりヴァンだ。
「相手は誰なの?」
「はい」
 ヴァンはちらりとネルを見る。彼女は疑問符を浮かべた。
「ネル様には伝わっているかと思ったのですが。【闇】のタイネーブと」






 また、間。さっきよりも、若干長い。






『ええええええええええええええええええっ!』
 驚かない方がどうかしている。
 何しろタイネーブだ。タイネーブ。タイネーブ。タイネーブ。確かに彼女も見目は悪くない。だが、その男勝りの乱暴さと酒癖の悪さ、そして実はびっくり天然ボケというこちらも三拍子どころか三・三・七拍子そろったパーソナリティのおかげで全く男とは縁遠いと思われていた。
 この件に関して、後に友人代表である某二級構成員は語る。

『タイネーブですかぁ? ええ、ヴァン様とタイネーブでしたらぁ、とてもお似合いだと思いますぅ〜。あ、黙ってた理由ですかぁ? だってぇ、いつそれが発覚するか考えるだけで、楽しいじゃないですかぁ〜』

 ちなみに彼女の本音は『なんでタイネーブ『なんか』が私より先に結婚するんですかぁ〜?』という内容であったことはこの際非公開にしておこう。
「それで、式はいつなんですか」
 若干険悪になったクレアとネルを発言させないように、フェイトが強引に話を切り替える。
「ああ、それなんだが、式は立てずに籍だけ入れようと思ってね。国がこういう状態だし、何かと時間も費用も──」
『駄目です(だよ)!』
 と、そこでクレアとネルが同時に口を挟む。
「ヴァン!? あなた、女の子の気持ちを考えてないでしょう。タイネーブだって、盛大に式をあげてもらえれば、それで嬉しいと思うものなのよ!?」
「そうだね。それに一級構成員と二級構成員、それも光と闇の結婚式なら、大々的に披露しないとお互いのメンツに関わる。あんたたちの結婚っていうのは私的にはすまされないんだよ?」
「その分だと陛下にもまだご報告してないんでしょう? これからただちに報告して、それから式と今後の日程について話し合うわよ!?」
「グレイ! 悪いけど、タイネーブを探して連れてきてくれないか。この場で徹底的に問い詰めてやらないといけないからね」
 ──と、一気に女性陣二人が盛り上がる。グレイはその剣幕に追われるように一目散に城の中へ入っていった。残されたフェイトとヴァンとが顔を見合わせてため息をついた。
「……なんとなく、ヴァンさんが報告しなかった理由が分かります」
「察してくれて嬉しいよ。私はもともとこの国の生まれじゃないし、盛大に祝われるのも心苦しいのだが」
「何を言ってるの! ヴァンは私にとってかけがえのない補佐なんですから、もっと胸をはって堂々としていなさい!」
「そうだよ。それに、タイネーブは戦災孤児だって知ってるはずだね? それだけ結婚や家族ってものに憧れがあるんだ。それをないがしろにしたら許さないよ!」
 というわけで。
 雨なのにどこか晴れやかな一幕はこうして開けた。






 ──もちろん、フェイトとネルの二人にとって、束の間の休息の終わりは次の戦いの開始と同義だ。
 その日、執政官を訪れた一人の少年がいた。
 黒い髪で、まだ十歳かそこらくらいにしか見えないが、それに見合わないほどたくましく鍛え上げられた体と、紅く光る瞳が印象的だった。
「そなたの名は」
 大事な用件、ということでとりあえず出向いたが、確かにその少年そのものが尋常ではない。慎重に相手の出方を探りながらラッセルが尋ねる。
「ブラムスだ。用件は、こちらの国に滞在している『アミーナ』という少女と引き合わせてほしい、というものだ」





ゆがんだ真珠

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