Seventh Heaven

第3話 butterfly






「フェイトさんは、優しすぎます」
 いきなり、ぴしゃりと言われた。
 クレアが怒っているのは明らかで、それに対して何の反論もフェイトはなかった。
 たしかにこの一週間、ネルのことはほとんど話すことすらできなかった。
 だが、それはあくまであの子を助けるためであって、それ以上の感情を持ったことなどない。
「いいですか、誰に対しても優しいということは、たった一人の女性に対しては優しくないということだってあるんです」
「はい」
「セラさんのことを気にかけるのはいいんです。ただ、その間、ずっとネルに対してはほとんど何も話したりしなかったのでしょう?」
「はい」
「ネルがどれだけ、フェイトさんのことで思い悩んでいるか、分かりますか?」
 すみません、と頭を下げる。ふう、とクレアは息をついた。
「ま、ネルも悪いといえば悪いんですけど。あの子、恋愛については決して積極的ではないですから」
 それは確かに。恋愛に関してリードしているのは常に自分の方だ。もちろん、彼女は素で自分を惑わせるのだけれど。
「私は、ネルに、幸せになってほしいんです」
 クレアは真剣な表情でフェイトを見つめた。
「どうしてそこまで」
「おかしいですか? 友人のことを心配するのは」
「いえ、おかしくはないですけど」
「じゃあ、フェイトさんだけには秘密を明かしましょう」
 妖笑を浮かべて、こっそりとクレアはささやく。
「実は」
 ごく、とフェイトは唾を飲み込む。
「ネルは、私の初恋の相手なんです」
 ごふっ、と噎せ返った。
「く、クレアさん」
「だって、子供の頃のネルって、すごく凛々しかったんですもの。男の子と間違えるくらい」
「間違えたんですね」
「初対面の時に。一目ぼれしてしまったんです。でもすぐにネルのお父様、ネーベル様から『女の子同士、仲良くしてやってくれ』と言われまして、驚いてしまって。それが、私の一番古い記憶なんです。まだ三歳か、それくらいだったと思います」
「ませてたんですね」
「そうですね。でも、私はその相手がネルだったことが、すごく嬉しいんです。それくらい私は、ネルのことが好きですから。私がネルに恋をしていると言っても、言い過ぎではないくらい」
「過激な発言ですね。じゃあ僕は恋敵ですか?」
「そうです。でも、フェイトさんだから私は身を引いたんです」
 クレアの瞳の奥に、冷たさが返ってくる。
「フェイトさんなら、安心してネルを任せられると思ったから。でも、ネルを悲しませるようでしたら私が許しません」
「まるで結婚式の友人スピーチみたいですよ。でも、心得ました」
「分かっていただけるなら、充分です」
 クレアはそう言って笑い、冷めたレモンティーを含んだ。
「ネルはお父様も亡くなり、お母様も病弱な方であまり屋敷の外へ出られるような方ではありません。ゼルファー家は今、ネル一人で支えている状態です」
 ネルの母、リーゼルとは以前に何度も話はしている。優しい女性で、不思議と話があう女性だった。フェイトの母、リョウコがかなり活発な女性であるのと正反対の女性だった。
 その瞬間、フェイトは何故だか背中に悪寒を感じてきょろきょろと辺りを見回す。
「フェイトさん?」
「あ、いえ。何でもありません。じゃあ、クレアさん。早速というわけじゃないですけど、ネルのところに行ってきます」
「あら」
 立ち上がろうとするフェイトに苦笑する。
「まるで入れ知恵してしまったみたいですね」
「でも、実際最近ネルを放ったらかしにしていたのは事実です。どうも僕は一つのことに集中すると他のことに気が回らなくて」
「あの女の子」
 クレアは真剣な表情で尋ねた。
「また、何かの前兆でしょうか」
 フェイトは少し考えてから頷いてこたえた。
「そうだと思います」
 クレアはふぅー、とため息をつく。
「休まる暇もないですね」
「本当です」






 そうして、フェイトは城に戻ってネルの自室へと向かう。
 側近の豪華絢爛漫才コンビは何故だかいなくて、一人で書類の山と格闘しているネルの前に座り、いつものように仕事を手伝い始めた。
 いつもの、とはいっても休暇の前に手伝って以来になるから、こうして一緒に仕事をするのは久しぶりのことだった。
 いつも仕事をする時は、必ず何かを話さなければならないということはない。フェイトもやることは心得ているので、手際よく作業を進めていく。
 少しして、先に口を開いたのはネルの方だった。
「セラのことはいいのかい?」
 その話からくるとは思わなかったが、フェイトは「ああ」と答えた。
「別に始終一緒にいなきゃいけないってこともないし、今は精神的にも落ち着いたみたいだから」
「ならいいけどね。私を気遣ってるんなら、気にしなくていいよ」
 仕事の手は決して緩めない。だが、その言い方がフェイトの気に障った。
「気をつかってるわけじゃないよ。僕は」
「クレアに言われて来たんだろう?」
 先に情報が入っていたのか、ネルは正確なところをついてきた。「まあそうだけど」と一旦肯定する。
「でも僕だって、ネルの傍にいたいし、ネルの役に立ちたいんだ」
「私にとって、今のあんたは邪魔だよ」
 仕事をしながらはっきりと言われる。
「どういう」
「あんたのことが分からないとでも思ってるのかい? 厄介ごとがあったらすぐに首を突っ込み、困っている人がいたら助けたいと思う。今までそんなことが何度あったと思ってるんだい。ファリンやタイネーブの時もそうだし、アミーナとディオンの時も、エレナ様のときも、この間のシルメリアだって。あんたがそういう奴だってことはもう分かってるし、だから私だってあんたに惚れたんだ。だから、今のあんたが私を気にかける必要なんてないんだよ。あんたはあんたの思うとおりにやればいい」
 言い切ってネルは、ふう、と大きく息をついた。
「分かるだろう? 私は今、いらいらしてるんだ。あんたがあの子ばっかりかまってるからね。嫉妬してるんだよ。だからって、気遣ってもらわなければいけないほど私は弱くない。それに、あの子には頼れる人があんたの他に誰もいないんだ。助けてやりなよ」
「ネル、僕は」
「あんたが近くにいてくれるのは嬉しいよ。でもね、他の女の子が気になっているのに傍にいられるのは、いないよりもっと辛いんだ」
 フェイトは、一切の言動を封じられた。
 だが、それでも彼女に何か声をかけなければいけない。
「僕が一番傍にいたいと思うのはネルのところだから」
 フェイトは立ち上がって、仕事の手を休めない女性に向かって言う。
「でも、今は感謝するよ。できるだけ早く解決して、君のところに戻ってくるから」
 そうして、フェイトは部屋を出ていった。
 それから少しして、ネルの頭が書類の上に落ちた。
「ばか」
 馬鹿なのは自分か。
 それとも彼の方か。






 その夜。
 寝静まったシランド城の中。
 燭台の灯に照らされて、一人の少女が廊下を歩く。
 その目はどこか虚ろで。
 自分の意思というものが感じられない。
 ただ、彼女は歩いていた。
 彼女がたどりついた先は、大聖堂。
 その中へ、彼女は扉を押し開けて入っていった。
 鍵はかかっていない。
 何故。
 そんなことを問う者は、ここにはいなかった。






「どういうことですかっ!」
 翌朝。フェイトは荒い剣幕でクレアに詰め寄った。
 壁際では視線を合わせないように目を閉じたネルが、口元をマフラーに隠している。
 そしてクレアは真剣な表情で彼を見返した。
「どうもこうもありません」
 ぴしゃりとクレアは言い切る。
「セラさんは、重要参考人です。身柄は光牙師団で預からせていただきます」
「彼女は記憶を失って、何も分からないんだ!」
 フェイトは厳しい態度のクレアにくってかかる。
「そんな彼女が、人を殺したりするはずがないじゃないですか!」






 大聖堂を開けた神官は、異臭が漂っていることに気づいた。
 錆の匂い。いや、違う。これは、
 血。
 おびただしい、血の香り。
「ひっ」
 そして、神官は見た。
 大聖堂の、アペリス神像の前。
 そこに、セラが座っていた。
 呆然と、自意識もなく。
 四肢が分断された、死体と共に。






「殺されたのは光牙師団の三級構成員、ラオ・プローンです。この事件は光牙師団が全力を上げて解決します。セラさんが無実なら、その中で分かることでしょう」
「何も分からない彼女を尋問するつもりですか」
「彼女が見たこと、聞いたことを話してくれればいいことです。ですが、今の状態ではそれもままなりません。彼女の回復待ちです」
 セラは、自意識が戻ってきていなかった。
 蒼い服は赤い血でまみれ、その血溜まりの中で完全に自分というものを見失ってしまっていたのだ。
「だったら、僕に話させてください。少しでも手がかりは多い方がいいんでしょう?」
「できません。城内での事件はクリムゾンブレイドが全て管理しなければなりません。私がラオの件は光牙師団で扱うと決めました。これは、光牙師団のプライドがかかっているんです。フェイトさんに横槍を入れてほしくないんです」
「それで事件が解決できなかったらどうするんです!」
「どうして事件を解決できないと決めつけるんです!」
 この二人がここまで言い合うというのも珍しい。いつもはネルを間に挟んで一緒にからかったりするくらい仲がいいというのに。
「そこまでにしておきなよ、二人とも」
 ネルが二人の諍いを止める。
「私はフェイトを支持するよ」
「ネル!」
 ネルは冷静にそう答えたが、完全に頭に血が上っているのはこの時、クレアの方であった。
「あの子のことはフェイトの方が専門だ。他に誰が彼女と話して心を開いてくれてるっていうんだい? この場合、一番話しやすい人間が話すのが一番いい」
「あなた」
 クレアは正面からネルを睨みつけた。
 だが、その目が全く揺らいでいないのを見て、クレアはため息をつく。
「馬鹿ね、あなた」
「仕方がないさ」
「では、フェイトさんのことはあなたに任せるわ、ネル」
 クレアはそう言って背もたれに体を預けた。
「あなたもクリムゾンブレイドですものね。私の決定と抵触しなければいくらでも活動の自由がきく。好きになさい」
「ああ。フェイト、行っといで。私はまだクレアと話があるから」
「ネル」
 彼女が協力してくれるかどうかというのは、正直フェイトは考えていなかった。
 普段の彼女なら協力してくれるだろうし、感情が先に立てば協力はしてくれなかっただろう。
 理解のある女性で、助かる。
「ありがとう」
「さっさと行きな。これでも私は我慢してるんだからね」
「ああ。ごめん」
 フェイトはそう言い残し、彼女が監禁されている部屋へと急ぐ。
 それを見送ったクレアが大きくため息をついた。
「全く、馬鹿よあなたは。こういう事態とはいえ、彼女からフェイトさんを取り戻す絶好の機会じゃない」
「別に私はフェイトについてセラと争っているわけじゃない。フェイトがセラのことを思っているのはそんな感情じゃなくて、単なる親切心だからね」
「理解しているのはいいけれど、感情がついていってないわよ、ネル。怖い顔」
 近づいたネルの頬にクレアが触れると、彼女もようやく苦笑した。
 だが、すぐに真剣な表情に戻る。
「今回の件、フェイトの言う通り、セラには動機がない」
「そうね。問題はそこ」
「それに、殺された方の相手ってのが問題だ」
「分かってるわ。ラオは、光牙師団の中でも一番、素行が悪かったから」
 そう、ラオは貴族としては名のあるプローン家の次男で、名を上げるために軍に入った男だった。だが素行が悪く、戦闘に連れていけば略奪したり、最悪の場合は民間人の女性を襲ったことすらある。
「彼がセラさんを襲った、もしくは襲おうとした。その可能性があるということを言いたいのでしょう?」
「ああ。だからあんたが光牙師団だけで調査を行おうとした。それもよく分かってる。でも、いずれにしてもこのまま放っておくには大きな事件だ」
「そうね。こうした体質っていうのは、外から来た人が直さない限り無理なのかしら」
 彼は、どの組織にも所属していない。強いていえばシーハーツという国に属しているが、それすら正確な言い方ではない。
 彼はただ、ネルの傍にいるだけなのだ。
「あなたは、フェイトさんの宿木ってことね」
「どういう意味だい」
「それ以上の意味はないわよ。ただ、必ずフェイトさんが帰ってくる場所はあなたのところだって思っただけ」
 ちょっと憎たらしいけれどね、とクレアはさらに微笑んで、彼女を抱きしめる。
「クレア?」
「フェイトさんはいい方よ。手放したりしたら駄目よ」
「分かってるさ」





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