すれい ──イリス──






 人は時に、わずかな距離を埋めるのに長い時間を必要とする、と言ったのは誰だったか。






 アーリグリフ戦役が始まる前。クレセント・ラ・シャロムは【風】の二級構成員として、グリーテン地方の調査にあたっていた。ただ、ずっとグリーテンに入り浸っているわけでもない。特に彼女は『家』の問題もあり、『前線』に立つことはほとんどないと言ってもよかった。
 もっとも、グリーテン地方で『前線』を統括するのは【風】の一級構成員であるラウル・ソレイユと、その下についている二級構成員マイセンの二名。いずれも才能あふれる人材で、クレセントが入る隙間などなかった。
 現在の【風】は、団長のブルー・レイヴンを筆頭とし、一級構成員が二名、二級構成員が四名。ここまでが管理職となっている。そのうち前線に出ているのがラウルとマイセンのペア。後衛の一級構成員がサラ、二級構成員がヴァル・グラッドのペアで実務がなされている。さらには重要機密を各地へ伝達して回る遊撃手的な存在のクランと、ブルー直属のクレセント・ラ・シャロム。どの役職も決しておろそかにできない役割だった。
 特にクレセントの役割は、ブルーの考えに助言を与えるブレインの役割でもあり、さらにはブルーの考えを実行する存在ともなる。自分で考え、行動ができる彼女の能力をブルーは家柄を抜きにして高く評価していたし、また家柄を全く問わずに自分を評価してくれるブルーを、クレセントは尊敬してもいた。
 もっとも、ブルーには目の上のタンコブである一級構成員のサラが始終くっついているので、あまり『砕けた』会話ができるわけでもない。非常に残念なところだ。
 彼女の本性を知っているのは、この国ではたった二人。一人は直属の上司であるブルー。そしてもう一人は同じ士官学校の同朋であるファリン。これだけだ。
 普段の彼女は誰に対しても気さくで、誰とでも仲が良い。だがそれはポーズで、彼女の本性は別にある。
 その日、彼女はいつものようにブルーの部屋で仕事をしていた。ブルーはたまたま来客で席を外していたが、そのときシランドから戻ってきたクランが顔を見せた。
「あ、クランさん♪ どうも、お疲れ様です♪」
 笑顔で、歌うように、弾むように会話を行う。それは長い間の訓練で見につけた仮面だ。ある種、自分のもう一つの人格と言ってもいい。
「ああ、お疲れ、クレセント。調子、いいみたいだね」
「はい♪ 元気が取り柄ですから♪」
 その意気、と笑ってクランがすぐに立ち去っていく。まあ、たいがいはこのようなものだ。
 自分とは挨拶程度。本当に付き合おうとすると、その後ろにシャロム家の姿が見えてくる。だからこの国の男たちはまったく不甲斐ない。
「笑顔が消えたぞ、クレセント」
 扉は閉まっていたはずなのに、部屋の中で声が聞こえた。おそるおそる振り向くと、いつの間にか扉の内側にブルーが立っている。
「脅かさないでください」
「なに、私の信頼する部下がどういう顔で仕事をしているのか、少し観察していただけだ」
「あなたの前では素の表情ですよ、どうせ」
 ふん、と両手を上げる。
「普段から誰にでもそうしていればいいと思うのだがな」
「何度も言わせないでください。あのシャロム家の令嬢がこんな性格では親が困るでしょう。あと私も余計な陰口をたたかれます。シャロム家のくせにとか、シャロム家のくせにとか!」
「二回言うことか」
 苦笑しながらブルーは席につく。
「だが、いつまでもその調子では、婿を取ることもできないだろう」
「嫁って言わないんですね」
「シャロム家の一人娘を手放すような方ではないだろう。伯爵は貴族の信頼のおける人物から婿を取ろうとするのではないか?」
「でしょうね。気持ち悪い」
 素で言うとブルーが笑う。
「いっそ、今度のアーリグリフ戦で前線に立てないかな、と思ってるんですよ」
「前線に。何故?」
「戦争の中で死んでいったなら家にとっても誉れでしょうし、私も後々の面倒事を一切考えなくてすみますので」
「それは賢い選択ではないな」
 ブルーが頷いて答える。
「何故です?」
「私とファリンが悲しむ」
 そう。
 この二人が、自分をこの世界につなぎとめている楔。大人になるにつれ、次第に重くのしかかってきたこの『シャロム』という重圧に負けずにこられたのは、仕官学校時代にファリンと出会い、その後この上司にめぐりあえたからだ。
「あなたには感謝しています、ブルー様」
 ふう、と息をつく。
「それなのにどうして、あなたは私を選んでくれないんでしょうね」
「お前こそ、気もないのにそういうことを言うものではない」
 たしかに。クレセントは肩をすくめた。
「恋愛をするのはいいことだ」
 ブルーは少し表情を和らげる。
「そういう相手にめぐりあえるといいな」
「この国にいる限りは無理でしょう」
「かもしれん」
 そう。シャロム家、という言葉が自分を縛る。いっそシャロム家の勢力が完全になくなってしまえば、話は別かもしれない。それでも自分に近づいてくる人間は、家柄と関係なく自分と付き合いたいという人間だ。
(ま、どうにもならないか)
 どうせ自分の未来は決まっている。親の決めた婚約者と結ばれて、シャロム家のために子供を残す。つまらない未来だ。アーリグリフ戦で戦死する方がずっとマシ。
「それはそうと、お前、最近の【闇】の動き、聞いていたか?」
「いいえ。私のところに入ってくる情報は、ブルー様を経由するものがほとんどですから」
「だろうな。なんでも、ファリンとタイネーブが【漆黒】に捕まっていたらしい。つい昨日のことだ」
 いきなりの内容に顔が青ざめる。が、すぐに気を取り戻す。ブルーが何でもない様子で言っているのだから、別に生死に関わっているわけではないのだろう。
「怪我はしたが命に別状はないらしい。それも、救出のされ方が尋常ではなくてな」
「救出?」
「ネル様が例の技術者を追っているだろう。その方たちに助けられたらしい」
「技術者──ああ、グリーテンから来たんじゃないかっていう、あのアーリグリフに落ちた」
「そうだ。で、二人が捕まったところをその技術者が助けにいったらしい。カルサアの修練場までな」
「あの中に」
 さすがに冷や汗が出る。あの修練場はもともと処刑場として使われていた場所。今は【漆黒】六千が詰める前線基地だ。
「なんでもその技術者、【豪腕】のシェルビーを仕留めたらしいぞ」
「それは、すごい」
「ああ。案外本当に我らの救世主となってくれるのかもしれんな。もしかしたら今ごろ、ペターニまで来ているかもしれん。ネル様がシランドまで連れていくという話だったからな」
「そうですか」
「会ってみたいとは思わんか?」
 それは確かに興味がある。それにファリンを助けてくれたというのならお礼も言いたい。
「否定はしませんけど」
「もし戦いに協力してくれるのなら、いずれ会えるだろうな。楽しみにしておくといい」
「はあ」
「気のない返事だ」
 そう言われても、それ以外に返事のしようがない。
「それから、任務」
「はい?」
「これからクレア様のところまで、一通、手紙を届けてほしい」
「手紙ですか。そういうのはクランの仕事かと思っていました」
「冗談ではなく、いくつか理由があってな。この仕事をクランに任せるわけにはいかん」
 いつになく厳しい口調でブルーが言う。何があったというのか。
「一泊くらいならしてきても文句はない」
「は?」
「いくら救出されたとはいえ、ファリンも無傷ではなかろう。行って様子を見てこい、と言っているのだ」
「ありがとうございます!」
 クレセントは立ち上がって敬礼する。
「今から行ってきてかまわない。頼むぞ」
「はっ!」
 すぐにクレセントは支度を始める。そして準備完了次第、すぐに出発することとなった。
「では、行ってまいります」
「頼んだぞ」
 真剣な表情。どうも、この手紙は尋常ならざる内容が書かれているようだ。
 ルムを一頭用意して、それに乗っていこうとしていたところだった。
「クレセントじゃないか?」
 突然、声をかけられた。それは自分たちにとっては、絶対に聞き違えてはならない相手。
「ネル様♪」
 準備の手を止めて敬礼する。
「アリアスからもうこちらに来られてたんですね♪」
「ああ。昨日のうちには着いてたよ」
「さすが、お早いですね♪ ファリン、大丈夫ですか?」
「ふふ、アンタたちは本当に仲がいいね。大丈夫。怪我はしてるみたいだけど、命に関わるわけじゃない」
「よかったです♪ 実は今、ブルー様からアリアスまで急用を頼まれまして、ファリンの様子も見てこようと思ってたんです♪」
「アンタがついててくれればファリンもすぐに回復するだろうね。ああ、それはそうとちょうどよかった。アンタに一つ、頼みがあるんだけど」
「ネル様が、私にですか?」
 意外なことだ。いったい何だというのだろう。
「一人、優秀な医師を紹介してほしい」
「医師ですか?」
「そうだ。ちょっと具合を悪くした女の子がいてね。かかりつけで見てやってほしいんだ。金は私が払う。だから、腕のいい医師、アンタなら知っているだろう?」
 それはもちろん。このペターニのことなら自分の両親を除けば、自分ほど詳しいものはそうそういないだろう。それにコネもあれば、ペターニ領主の娘ということで顔もきく。
「分かりました。急ぎのようですし、ネル様勅命ということでご案内します♪」
「助かるよ。ブルーの命令はいいのかい?」
「ええ。実質、ファリンのお見舞いが主みたいなものですから♪」
 本当はかなり大事な仕事だというのは分かっているが、ネルにここまで言われて何もしないのでは自分の名が廃る。
「ペターニで一番腕のいい医師でしたね。こちらです♪」
 クレセントは案内を始めた。ネルも隣で小走りについてくる。
「シャロム家が信頼してかかりつけの医師にしているくらいですから、間違いありません♪」
「だと思った。助かるよ」
 そして二人は少し豪華な一軒家にたどりつく。
「すみませーん♪ 先生、いらっしゃいますか?」
 ノックしてから扉を開けると、そこは治療所になっていた。
「聞こえております。どうも、久しぶりですな、クレセント様」
 現れたのはけっこう若い女性医だった。ネルとほとんど年齢が変わらないだろう。
「お久しぶりです、ノイン先生♪」
「どうなされました。ここへ来られるなど珍しい。風邪でもひきましたか?」
「いえ、私じゃないんです♪」
「では、こちらの方ですか」
「はじめまして。ネル・ゼルファーと申します」
 名乗ると、ノインは思わず目を見張った。
「クリムゾンブレイドのネル様でしたか。これは失礼を」
「いえ、気になさらないでください。それより、先生にお願いが」
「病人、ということですか。それも重症の」
「はい。クレセントに相談したら、この街一番の医師と紹介を受けましたので、是非と思いまして」
「ですが、よろしいのですか?」
 ノインと呼ばれた女医は少し視線を厳しくする。
「この通り、私はまだ若く、経験も浅い。そのような人間に、重症の患者を預けて」
「クレセントが一番に紹介すると言ってくれた方です。間違いがあるはずがありません」
 まるで自分のことのように自信を持って言うネルに、逆にクレセントが驚く。
「信頼されているのですね」
「私の部下ですから」
「なるほど。クレセント様はよい上司をお持ちだ」
 クレセントは嬉しくなって「はい♪」と笑顔で答える。
「分かりました。すぐにうかがいましょう。どちらでしょうか」
「案内します。クレセント、アンタはここまででいいよ。仕事があるんだろう」
「はい♪ あ、先生、お代の方なんですけど、私からお払いしますので」
 クレセントが突然言い出すと、ネルが驚いたように言う。
「何言ってるんだい。私が払うってさっき言っただろう」
「でも、先生の診察代って、すっごい高いんですよ?」
 金額に見合った治療をする。それが彼女のポリシーだ。
「ああ、いえ。診察代は必要ありません。これはシャロム家のクレセント様からの依頼ですから、毎月シャロム家からいただいているかかりつけ料の中に入りますよ」
 だが、意外な申し出があった。せっかくお金を払うと言っているのに、ノインはそれをいらないというのだ。
「でも、先生」
「気にすることはない。私はシャロム家のおかげでけっこう豊かに暮らしていけるのでね。それに、クレセント様やネル様に貸しを作っておけば後でいろいろと便宜を図ってもらうこともできそうだ」
 ふふ、とノインは笑う。
「ということで、今回の代金は一切なしということでかまいませんよ」
「ありがとうございます」
 ネルが深く頭を下げる。
「では、ご案内します。クレセント、ありがとう」
「どういたしまして♪ その女の子、無事だといいですね」
「ああ。それじゃ、急ぐから」
 そうしてネルとノインを見送ったクレセントは、ペターニに行くために準備に戻る。






 そう、あと少しだったのだ。
 彼女がほんの少し、興味をもってネルについていくことができれば、蒼い髪の救世主と彼女はこの時点で出会うことができた。
 そうすれば、二人の運命は、別の方向に変わっていたのかもしれない。

 このわずかな距離を埋めるのに、二人が出会うまでに必要とする時間は、これから数ヶ月も後のことになる。





巡りあい

もどる