ある日の昼下がり。
木漏れ日の射す散策路。
そこで聞いた言葉が自分の運命を決定的に変えることになろうとは、フェイトは思いもしなかった。
『では、フェイトさんは『霊』というものを信じますか?』
彼女がいったい何を言いたいのか、言いたかったのか。
今にして思えば、彼女の言動は最初から最後まで首尾一貫していたのだけれど。
そのときの自分はあまりにも無知で、何も知らなさすぎて。
だから自分がこのとき、
あまりにも大きすぎる不幸と、
それに見合うだけのささやかな幸福を、
同時に手にしていたということなど。
気付く余地もなかったのだ。
組曲『Ghost』
Overture
シーハーツで暮らし始めて半年。フェイトは二人のクリムゾンブレイドの小間使いとしてせわしなく働いていた。
世界が平和になったからといって、フェイト自体は宇宙に居場所がなくなってしまった。大学は無期限休校、もっとも仮に大学に行けるとしても、宇宙連邦から『要人』として認定されてしまったフェイトが今まで通りの暮らしを続けることができるはずもなく、一度身を隠すのがいいだろうということになった。
シーハーツはそんなフェイトを受け入れるのに何の問題もなく、知識も力もあるフェイトを優遇することになった。今では六師団の団長たちみんなから信頼される良き相談役となっていた。
「あれ、この資料って、何だい?」
大量の紙資料。手書きで人物名と数値が羅列されている。
「ああ、それは各師団員の数値だね」
「数値? 何の?」
「政治力や武力、血統限界値なんかを一覧にしてあるのさ。誰がどの任務に適しているか、それを見ながら判断する」
「へえ」
ぺらぺらと紙をめくる。なるほど、膨大な資料だ。何千、何万という人物に関する評価資料がこの紙束なのだ。
「ふうん、血統限界値って、あまり高くならないものなんだね」
見ると、ほとんどの師団員が10から20の間に収まっている、というより20という数字をまず見ない。時折20という数字が見えると、それはほとんどが二級、一級構成員だ。
「この国では施力の強さが位の高さみたいなものだからね。タイネーブみたいに血統限界値が大きくないのに二級構成員まで上り詰めたのは稀な例さ」
「へえ」
封魔師団『闇』だと、ファリンが28%、アストールが22%、タイネーブは3%しかない。確かに上級の構成員でこれだけ低いのは珍しいのだろう。
「ヴァンさんでも18%か。ルージュさんが33%。すごいや」
そうして連鎖師団『土』の最初のページを見る。すると、
「え、30%?」
20%どころか30%の人物が存在した。それなのに階級は四級と低い。
「ネル、この人は?」
「ん、ああ。アイーダか」
するとネルは少し顔を曇らせた。
「血統限界値が高いのに四級って珍しいね」
「珍しいというより、その子くらいだよ。そんな妙な人事が成立しているのはね」
「そうなの?」
「シーハーツ六師団には、血統限界値30%を超えている者は三級構成員からスタート、っていう内規があるんだ」
「じゃあ、この人は」
「そう。三級を授与しようとしたんだけど、それを正面から断って四級構成員になり、その後も何度昇級させようとしてもそのたびに断り続けている変わり者さ」
「へえ。断るなんていうことが可能なんだ」
「まあ、普通はないけどね。でも昇級するくらいなら辞めるとまで言われたらね」
ネルは肩をすくめる。つまり、このアイーダという人物は上の階級を目指す意思が全くないということだ。
「なんでだろう」
「まあ、彼女は本当に『変わり者』だから、上の階級になられるよりはありがたいところもあるんだけど」
「さっきから『変わり者』って、他に何かあるのかい?」
「まあ、話してみれば分かるよ。行ってくるかい?」
「行くって、この人のところに?」
「ああ。この子は連鎖師団だけどシランド勤務。探せば会えるだろうさ。そういえばここ一ヶ月くらい、町の横手にある公園に一人でよくいるって聞いたよ。ほら」
と、ネルは近くにあった階級章を手渡す。
「これは?」
「三級構成員の階級章。会いに行くといっても理由が必要だろう? 三級構成員への昇格を受けてくれって頼まれたって言えば話もしやすいだろ」
「でも、受け取ってくれないんだろ」
「多分ね。そこはアンタの口先次第さ」
フェイトは首をひねる。だが、この変わった経歴の人物は確かに気になった。
「分かった。話してみるよ」
「ああ。でも、本当に変わってるからね。面食らうんじゃないよ」
「ああ、気をつける」
そうしてフェイトは階級章を手にとって立ち上がる。
「それじゃ、ちょっと行ってくる」
「ああ。ゆっくりしておいで」
そうしてフェイトを見送ったネルもまた肩をすくめた。
「ま、徒労に終わるのが関の山だろうけどね」
手の中には階級章。
ただ、それが何故か、徐々に重く、冷たくなっていくようにフェイトには感じられていた。
最初は気軽に引き受けただけだったのに、それが時間の経過と共に何か、自分が間違った方向に進んでいるかのような錯覚に陥っていく。
(ただ階級章を渡してみて、話を聞くだけなんだけどな)
それなのに、何だろうこの動悸は。ただ、あの資料を見て、アイーダという女性の評価に触れてから確実に何かのスイッチが入ってしまった。ゲームでいうならば、イベントのフラグが立ったというところだろうか。
(落ち着け落ち着け。これはもうゲームじゃない。とっくに現実なんだから)
少し頭を整理するだけで、少しずつ自分の気持ちが落ち着いていく。そうして彼は東の公園へとやってきた。
(本当にいるのかな)
木々の間を小鳥が飛びまわり、散歩に来ている老人や、遊んでいる子供たち。語らう恋人もいる。ここは憩いの場。誰もがここで安らぎを得られる。
だが、アイーダらしき人物はいない。ネルは、ここに一人でいる、と言っていた。となると、どこかのベンチか、散歩をしているかくらいしか考えられない。
公園の奥、高い木が何本も連なっているところに足を踏み入れる。公園として使われるのは手前側で、奥の方は散策のコースになっている。
まあ、とりあえずは一周してこようと思い、歩き始める。
散策はほんの二キロくらい。歩いて三十分もかからない。ネルはゆっくりしてこいと言ったから、それこそ今日一日、ここでゆっくりしてもかまわないだろう。
「いいところだな」
木漏れ日が葉の間から差し込んでくる。小鳥の囀りが聞こえる。同じように散策している人とすれ違うときに会釈すると、相手も会釈してくる。
公園に来ることはほとんどなかったが、また来たくなる場所だった。
木々の手入れはしっかりとされている。これも光牙師団の仕事なのだろうか。
(あれ)
その、木々の間。
注意しないと、うっかり見過ごしてしまいそうなところ。一本の木に背を預けて座りこんでいる女性の姿があった。
黒いショートカットの髪と、真っ白な肌。人形細工のようなきめ細かい顔の造り。それを形容するなら『綺麗』以外の何ものでもなかった。
(この子だ)
フェイトは頷くと、その木々の間に足を踏み入れた。その足音に、彼女の体がぴく、と動いてゆっくりと目を開けた。
深い、漆黒の瞳。
「こんにちは」
「……おはようございまふ」
ふぁ、と口を小さく丸く開けて欠伸する。子供っぽい仕草が妙に可愛かった。
「そうですか」
と、突然彼女は頷く。
「え、何が」
「はじめまして、フェイト・ラインゴッド様」
彼女は立ち上がってシーハーツ式の敬礼をした。
「あれ、僕の名前を知っているんだ」
「おそらく六師団で、フェイト様のことを知らない人はいないと思います」
「へえ。僕って有名人?」
「クリムゾンブレイドのお二方と同じくらいには」
「あまり実感がないや。そういう君は、アイーダ、だよね」
「違います」
「あれ」
フェイトは首をひねった。
「そっか、ごめん。ここにアイーダがいるって聞いたから、来てみたんだけど」
「冗談です」
「え?」
「すみませんでした。私がアイーダです」
無表情で言う。冗談を言っているようには見えない。ときどきこういう人がいる。本人は冗談を言っているつもりなのに、あまりに本気で言っているように見えるから冗談に聞こえない人が。
「……またやってしまいました」
「何を?」
「笑えない冗談を言うことです」
「いや、うん、冗談を言う場面じゃなかったと思うけど、えーと、たとえば他には」
「そうですね」
すると、アイーダは再び敬礼するポーズをとった。
「アイーン」
「……」
「……」
「……」
「……」
ふう、とアイーダはため息をつく。
「今のは、アイーダとアイーンをかけてみた上に、シーハーツの敬礼とアイーンのポーズを」
「ああ、ごめん。僕が悪かったから許して」
「いえ、やはり私には冗談を言う資格がないようです。大変申し訳ありませんでした」
ぺこり、と頭を下げる。
なるほど、納得した。確かにこの子は変わっている。
「ところで、話は変わりますが」
「え?」
「三級構成員の件ならお断り申し上げます。私は階級を上げるつもりはありませんので。せっかく足を運んでいただいたのに恐縮ですが」
「え? え?」
突然自分が訪れた目的を当てられて、フェイトは完全に動揺する。
「ど、どうして」
「フェイト様の手に、三級構成員の階級章が見えました」
「え、あ、これか」
納得した。フェイトは動悸を抑えつつ、アイーダに向き直る。
「別に強引に押し付けるつもりはないよ。もしよければ、理由を教えてくれないかな」
「理由、ですか」
彼女の表情はまったく変わらない。人形細工。
「四という数字が好きなんです」
「……ええと、それも冗談?」
「いえ、本当です」
「いや、えーと」
どう答えていいものか。フェイトが悩んでいると、冷たい表情のまま逆にアイーダが尋ねてきた。
「私が三級を受け入れないのは、それほど問題ですか?」
「いや、そんなことはないよ。ただ、君がどうして固辞するのかが気になっているだけで」
「そうですね。四が好きというのが一番の理由ですが、他にもあります」
四好きというのは譲れないラインらしい。
「私はこういう性格ですし、人付き合いもうまくないので、人の上に立つ資格がありません」
「それは、人の上に立ってみて実際に指示を出してみてから考えることだと思うけど。それに、アイーダが高い能力の持ち主なら、そうした人を動かすスキルも身につけてほしいと思うよ」
「人を動かすことなら、できます」
「そうなの?」
「はい」
そう言って、アイーダは右の人差し指を、まっすぐフェイトに向ける。
「あっち向いて、ホイ」
アイーダの指は左へ。だが、フェイトの顔は動かない。
「……動きません」
「いや、それは」
「これはフェイト様が動かない方がルール違反だと思います」
なんだろう、この究極マイペース症候群。
「いや、人を動かすっていうのはそういう意味じゃないんだ」
「そうですね。冗談がすぎました」
冗談だったのか。
「いずれにしても、私が人の上に立つことはできません。すみません」
「その理由を教えてほしいんだ。駄目なのかな」
アイーダは少しだけ目を細めると、試すように言った。
「では、フェイトさんは『霊』というものを信じますか?」
「霊? 霊って、幽霊とか、そういうの?」
「はい」
「アイーダは信じてるんだ」
「信じているというより、私の目には見えていますから、信じるも信じないもありません」
そのお人形さんは、抑揚のない口調で言う。
「私は人の上に立ちたくないというのではないのです。人と接する機会を少なくしたいだけなんです。人と接していると、いろいろな霊に出会って、その霊たちはたいてい苦しいものを背負っていますから、それが私に伝わってしまう。だからあまり人と触れ合いたくないんです」
何と答えるべきなのか。
フェイトが困って考え込んでいると、アイーダはふう、と息をついて言った。
「冗談です。あまり、真に受けないでください」
ぐ、と閉口する。
「もし、本当に今のが冗談で言ったのだとしたら、君はかなり嫌な人間だよ、アイーダ」
「そうですね。今度から気をつけます」
「本当のことくらい、冗談に濁して言うことはないだろう」
え、と逆にアイーダは驚いた顔を見せる。
「君の考えは分かった。ただ、僕の方も少し落ち着いて考えたい。また来させてもらうよ、アイーダ」
「私のことは、あまり気にかけないでください。私は自分の職務だけを淡々とこなすだけですから」
「悪いけど」
フェイトはアイーダに指差す。
「僕は、自分の納得のいかないことは、徹底的にやる性質なんだ」
「はあ」
「あっちむいて、ホイ」
フェイトが下を指差すと、つられてアイーダも下を向く。
「人を動かすのは、僕の方が得意みたいだしね」
「いえ、それはただ単に私が動かされやすいだけですから」
「それじゃ、また今度」
「はあ。しーゆー」
気の抜ける挨拶を受けて少し脱力したが、フェイトは踵を返すと、来た道を戻る。
その足が、徐々に早まる。
(なんてことだ)
今、彼の心の中は、好奇心で満ち溢れていた。
(いったい、何者なんだ、彼女は)
徹底的にやる。その宣言は嘘ではない。
連鎖師団四級構成員アイーダ。彼女のことを、徹底的に調べ上げてみせる。
2 今すぐ・・・壊して・・・
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