30.今だから言えること……

『君と共に生きていく』






 結婚式も三日後に迫った夜のことだった。
 長い夏も終わり、虫の音が響く満月の夜。式の準備をほとんど終えた二人は、ようやく一息つくことができていた。
 式が三日後とはいえ、既に各国からの賓客は集まりつつある。サンマイト共和国からも使節が既に到着していた。そしてアーリグリフ王も今日の夕刻に到着した。一緒に来たのはなんと【漆黒】の部隊長だった。
 その隊長は彼を見るなりこう言った。
『ふん、力は衰えてねえようだな、阿呆』
 相変わらずの暴力的な言葉遣いだった。変わらない彼をみることができて正直嬉しかった。
『わざわざきてくれてありがとう、アルベル。嬉しいよ』
『阿呆。国王の奴がどうしても来いっていうから来てやっただけのことだ。ったく、こんなくだらねえことに巻き込みやがって』
 時間が空いたときにでも剣の手合わせをすることを二人は約束した。結局この青年は、どこまでいっても自分のことを倒すべきライバルとして認めてくれているらしい。だからこそ国王の誘いに乗ったのだろう。どうしても嫌ならば断ることだってできたはずなのだ。
 そしてアーリグリフ王からも先に祝辞が述べられた。
『まずはおめでとうと言っておこう』
『ありがとうございます』
『いいか、ここだけの話だ』
 王はこっそりとフェイトに耳打ちする。
『正直、結婚が牢獄というのは本当だな。いつ妻の目が光っているかと思うと、安心する暇がない』
『へ、陛下』
『ふ、お前もそういう環境になるということだ。それだけは忘れないことだな』
 その言葉から、王がエレナのことを既に吹っ切れており、ロザリアとうまくいっているのだということが理解できた。この王も、優しい妻に随分と影響されているのだろう。
 そのロザリアもネルへの挨拶をすませたあと、彼のところへとやってきていた。
『おめでとうございます、フェイトさん』
『ありがとうございます。ロザリアさんもお元気そうで何よりです』
『はい。やっぱり、フェイトさんがそうだったのですね?』
『え?』
 きょとんとする彼に、王妃はクスリと笑った。
『ネルの想い人のことです。ネルが美しくなってきたということ、前にお話したと思いますが、それはフェイトさんのおかげなのでしょう?』
『それは……』
 思わず顔を赤らめる。そういえば、あのルシファーとの戦いに際してそんなことを話したことがあったような気もする。
『ネルをよろしくお願いします。私の大切な、たった一人の親友ですから』
『分かりました。ロザリアさんもお幸せに』
『私はもう、十分に幸せですから』
 綺麗に微笑む王妃の姿に、彼女も結婚したらこんな風に笑うんだろうか、とそんなことを思ったりした。
(あと三日、か)
 正直、故郷にいるときは自分が二十やそこらで結婚するなどとは夢にも思わなかった。
 このままソフィアと結婚して、何不自由なく暮らしていくのかな、とも思ったことはあった。
 だが、自分は見つけてしまったのだ。
 たとえどんなに苦しくても、辛くても、共に歩んで行きたいと思える人を。
(少し早い気もするけどな)
 でもこの気持ちはきっと変わらない。そう思える。
 彼女の中にある矛盾を、国の正義と自分の正義を、どちらかを切り捨てずに真っ向から立ち向かうあの姿勢。
 国のことを最優先にしながら、決して国のために自分を殺すようなことはしないあの精練さ。
 どれも、自分には初めての衝撃だった。
 今まで、全てに命がけで立ち向かったことなどなかった。
 なんとなく高校を卒業し、なんとなく大学に入り、そしてなんとなく研究者になるのかと思っていた。
 自分が一番したいことなんて、考えたこともなかった。
 それを考えさせてくれたのは彼女だ。
 この人の傍にいたい。
 この人を支えてあげたい。
 たった一人で、見えない力に立ち向かっていく彼女を助けたい。
 その気持ちはきっと、いつまでも変わらないのだと思う。
 ただ──
(そうだ……)
 ずっと、伝え忘れていたことがある。
 言わなければいけない言葉がある。
 今だからこそ。
 結婚を前にした今だからこそ、言っておかなければならないことがある。
(そうだな、早い方がいいか)
 もはや国は結婚式の準備で通常業務などほとんど手についていない状態だ。もちろん官僚制度が整っているから、最低限の仕事はきちんと行われている。だが、クレアやネルなどは全て結婚式のため、他国の使者と話をしたり、式の準備をしたりと大忙しだ。
 国が絡んでくるとなると、式を挙げる本人たちはそれほど忙しくはならないものだが、そこはさすがにクリムゾンブレイド、やることは山のようにあるらしかった。少なくともフェイトの十倍は働いていただろう。
 とはいえ、さすがに花嫁の血色が悪いというわけにはいかない。この時間ともなればさすがに休んでいるだろうし、話をすることだってできるだろう。
 そう思って、立ち上がろうとしたときのことだった。
「こんなところにいたのかい」
 その、彼女の声が聞こえた。
 ネル・ゼルファー。
 自分が心ごと惹かれてしまった女性。
「ネル」
「隣、いいかい?」
 彼女は返事を聞くよりも早く隣に腰を下ろした。
 月の光が地上に降り、虫の音だけが辺りに響く。
 膝を抱えて座っている彼女と、両手を後ろにやって体を支えているフェイト。
 しばらく、静かな時が流れていた。
「もうロザリアさんとの話はいいのかい?」
 差しさわりのないことから話を始めた。
「ああ。別にこれからいくらでも話す時間はあるしね。彼女だって久しぶりの故郷で、国王陛下や大神官様にご挨拶にいかなければいけないし、それにアーリグリフ王との仲介もしなければいけないからね。あれはあれで、多忙なのさ」
 少なくともここでこうして月を眺めている二人よりも、アーリグリフ王と王妃の方がはるかに今は忙しい時間を過ごしているだろう。
「じゃあもう、ネルの仕事はないの?」
「ああ、だからこうしてあんたの傍にいるんじゃないか」
 そう言うと、ネルは近づいて体を寄せてきた。彼女の香りが鼻腔をくすぐる。そっと左手で彼女を抱き寄せた。
「結婚、するんだね」
「ああ」
「なんだか、夢のような気がするよ。まさかあんたとこんなことになるとは思ってもみなかった」
「それはひどいな。僕がこの星に残ったことで、それくらいは期待してもらえてもよかったと思うんだけど」
「それはそうなんだけどさ。やっぱりあんたはこの星の人間じゃなかったから」
 結局彼女は、結婚してからもそのことで悩むことはつきないのだろう。
 彼はこの星の人間ではない。もし星々の大海で彼を必要とするようなことが起こったら、かれは宇宙へ連れ戻されるのだ。
 彼女を置いて──いや、彼女も彼を宇宙へ一人で帰させるようなことはしないだろうが。
 その恐怖だけは、彼と結婚する彼女の、永遠につきまとう宿命のようなものだ。
「僕はどこにもいかないよ。それに、もし宇宙へ行くときがあるとしたら」
「あるとしたら?」
「そのときは、君の都合なんか省みないで、絶対にネルを連れていく。僕にだってもう、ネルがいなかったら生きていくことなんかできないんだ」
「それはそれは」
 彼の目線からは彼女の顔までは見えなかったが、彼女はそのままの体勢でマフラーに顔を埋めた。照れているのだ。
「あんたのすごいところは、そういう口説き文句が素で言えるところだよ。だから他の女の子にも人気があるんだろうね」
「そうかな」
「そうだよ。少なくとも私の知る限りで五人は下らないよ。あげてみせようか?」
「せっかくこうして二人きりでいられるのに、そういう危険な話はしてほしくないっていうのが希望かな」
「じゃあやめとくよ。私も結婚式直前に婚約相手を絞め殺したなんてこと、したくないからね」
 物騒な会話だ。もちろんお互い冗談であるということは分かっていてのことだが。
「それにしても、アルベルが来たっていうのは驚いたな。一応案内は出しておいたんだけど」
「アーリグリフ王に出しておいて正解だったね。ま、私としてはあんな奴来なくてもよかったんだけどさ」
 いまだに彼女とアルベルの仲は悪い。まあ、この二人が仲良くなるなどということはおそらくありえないのだろうが。
 だが彼自身としてはアルベルを嫌ったことは一度としてない。卑怯な手段を使わず、常に正攻法で一対一の勝負を挑もうとする姿勢は、多少残虐なところはあったとしても見習うべき高潔な姿勢だと思う。
「あれでもアルベルは祝福してくれてるんだろうな」
「ま、そうだろうけどさ。だとしたらおそろしく伝えるのが下手だね」
「違いない」
 二人が同時に笑う。その振動が、触れ合う肌から伝わる。
 二人だ、ということを彼は急に意識した。
 ここ数日、常に誰か彼かが一緒にいて、二人きりになるということがほとんどなかった。本当にクリムゾンブレイドの結婚式が個人の自由にはならないということがよく分かった。
 とはいえ、式さえ終わってしまえば、あとはいくらでも自由ということにはなるが。
「あんたには、いくら感謝してもしきれないよ」
「なんだい、突然」
「シーハーツに来てから、あんたはたくさん私を助けてくれてただろう。仕事のこともそうだし、何より私の暗殺姿を見て嫌わないでくれるとは思わなかったよ」
「ああ」
 正直、あのときの経験は二人にとって何かが変わった瞬間だった。
 それまで武人としてしか彼女のことを見ていなかった彼にとって、暗躍する彼女はまさに死の女神だった。感情もなく近づき、殺す。そのための機械だった。
 だが、感情は決してないわけではない。それを無理やり押さえつけているにすぎない。そのことがよく分かるからこそ、感情を完全に拝して行動しようとする彼女を支えなければいけないと強く思うようになったのだ。
 彼女の中に、国の正義と彼女の正義が同居している。国のためには自分を殺すことができるが、絶対に従えないこともある。その明確な線引きが彼女の中でできている。だから一見矛盾しているように見えても、その実は矛盾していない。優先順位がしっかりと決められているのだ。
「尊敬に値するよ」
「何がだい?」
「ネルが。その高潔さには本当に頭が下がる。僕なんか、ネルの足元にも及ばない。まあ、育ってきた環境が違うから当たり前なのかもしれないけど。でも、結婚したらそうはいかないんだろうな」
「変わる必要なんかないよ。あんたはあんたらしくしていればいい」
「もちろん変わろうとして変わるつもりはないよ。でも、きっとこの結婚で何かは変わるんだ。それだけは分かる」
 そう、人間は何かのたびに変わる。それは間違えようのない事実なのだ。
「いい方向に変わるといいんだけどね」
「そうだね。あんたの言うとおりだと思うよ」
 と、そこに涼風がとおりぬける。さすがにこの時期、この時間帯では少々肌寒い。彼女が一度震えた。
「寒い?」
「いや。それはそうなんだけれど、もう少しここにいたい気分かな。何しろ、あんたと二人きりになれたのは本当に久しぶりだからね。それはそうと──本当によかったのかい?」
 突然そう聞かれても何のことだか分からない。何が、と尋ね直す。
「あんたのお母さんだよ」
「ああ。母さんならもう連絡はしてあるから。一時期よりは僕のことで騒がれなくなったみたいだけれど、それでも用心に越したことはないからって、しばらくしたら一度顔見せに行くってメールが来てたよ」
「そう。残念だね」
 あの母親がいるとそれはそれで気を使うので、親不孝な考えをして申し訳ないが、正直彼にとってはありがたかったというのが本音だ。ただでさえ気を使う式なのに、これ以上頭痛の種が増えるのは好ましくない。
 そのかわりといってはなんだが、マリアが暇しているとのことだったのでこちらへやってくるらしい。到着は式の直前になるとのことだった。
「へえ、マリアに会うのも久しぶりだね」
 マリアの住所は完全に不定だ。たまにエリクールに来てはペターニを中心にあれこれ活動しているかと思えば、宇宙へ帰っていろいろ飛び回っている。いったい何をしているのかよく分からない。
 マリアも彼と同様で、今は身を隠さなければならない立場にいる。もとクォークのリーダーで、なおかつアルティネイションの持ち主だ。連邦が目をつけたら危険な立場にいることに変わりはない。だからフェイトと同様、エリクールにしばらく身を隠していたのだが、今はまた宇宙で活動しているようだ。
「そうだね、もう半年以上会ってないや」
「何をやっているのか、話を聞くだけでも楽しそうだね」
「うん。クリフたちも元気でやってるといいけど」
 クリフは政治家として、ミラージュはその秘書として活動している。かつて連邦と対立していたとは思えないような見事な転身だった。
「あそこも、さっさと結婚すればいいのにね。もうクリフだって結構な歳だろう?」
「そうだろうけどね。クリフもミラージュさんも、なんだかあのままが一番似合ってるような気がするよ」
「それは、そうかもしれないね」
 今思えば懐かしい思い出だ。ルシファーとの戦いのときはマリアにソフィア、クリフ、アルベルと、みんながそこにいた。今では傍にいるのはネル、たった一人だけ。
「……ねえ、ネル」
「うん?」
 ぐい、とフェイトは抱きしめる左手に力を込める。
「一つだけ……今だから、言っておきたいことがあるんだ」
 そう。結婚式の前だからこそ。全てが決まってしまう前だからこそ。
「なんだい?」
「ああ。少し前のことになるんだけれど──」
 と、そのときだった。
「ネル様! フェイトさん!」
 大きな声が聞こえてきた。あれは、タイネーブの声だ。
「タイネーブ? こっちだ!」
 すばやく二人は立ち上がって、タイネーブを呼び寄せる。全力で走ってきたのか、彼女は息を切らせていた。
「何かあったのかい?」
 既にネルの目は仕事モードだった。厳しく部下を見つめる。
「は、はい」
 タイネーブは呼吸を整えて、答えた。





「ペターニで、反乱が起きました」





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