二〇〇二年、春。
それは、私の人生が明確なカタチを作り始めた時。
いくつもの出会いと、そしてこれから先に起こるだろうたくさんの事件を予感させる季節。
その最初は、そう。
ゴールデンウィーク明け、私の高校に一人の転校生がやってきたことだった。
『灰色の空、漆黒の夢』
君の瞳に映る僕の姿はまるで
戦場に置き去られた子供のようで
死に怯え、震え、逃亡する
臆病な心は全て見透かされていた
監獄に閉じ込められた僕の体は
渇きと餓えで今にも倒れそうで
羽は消え、失い、大地に落ちる
そう、全ては君の中で終わっていた……
「きみのひとみにうつるぼくのすがたはまるで……」
「ってきゃあああっ!」
私は思わず叫び声を上げる。
慌てて机を隠すが、後ろで男子生徒がにやにやと笑っていた。
「ゆ、ゆ、ゆ、ゆき〜〜〜っ!」
私はペンケースを手にして振り上げる。
「わ、怒るなよ。俺たちの曲の詞なんだろ?」
「それでも作詞中に見るやつがあるかーっ!!!!」
私、山口麗奈(やまぐちれいな)は市内で一、二を争う進学校、北高に通う一年生。
このたび幼なじみの田原雪人(たわらゆきと)のお願いで、ロックバンド“TROY”(トロイア)の作詞を行うことになった。
『お前の詞、すげえいいからさ。俺らの曲に詞つけてくれよ!』
何故二つ返事で引き受けてしまったのだろう。
おかげで現在必死に何曲もの歌詞を作らなければならなくなったのだ。
「で、いったい何の用よ」
「ああ、ビッグニュース。今日から転校生が来るんだってさ。けっこう可愛い女の子だって話だぜ」
「へえ、うちの学校に転入するなんてすごいわね。うちの編入試験、レベル高いんでしょ?」
「らしいぜ。俺じゃうからねえだろうな」
「お迎え試験で三百番台だった雪が言うと説得力あるわー」
「てめえ」
「先に話ふったのはあんた。それにしても、連休明けで転校してくるなんて、珍しいわね」
「なんでも帰国子女らしいぜ。まだ確かめてないけどな」
「ふーん。一ヶ月帰国が遅れたってとこ?」
「多分な。ま、来れば分かるだろ」
転校生の女の子。それも入学直後の連休明け。
(はー、なんだかドラマでありそうな展開よねー)
これが可愛い少女ではなく、かっこいい青年だというなら自分にもロマンスが生まれるかもしれないけど。
とはいえ、もともとそんなことを期待してはいない。
私には、やりたいことがあるから。
だから恋愛なんてしている暇はない。
「で、作詞の方は順調か?」
「あんたのせいでやる気なくした。というわけで締め切り一週間延長」
「んな。作詞が終わらないと曲だって完成しないんだぜ」
「じゃあ邪魔しないで。私だってこう見えても忙しいのに、わ・ざ・わ・ざ・あ・ん・た・の・た・め・に、やって『あげてる』んですからね」
「そ、そこまで強く言わなくても」
「だーいじょうぶよ。金曜日のミーティングまでには仕上げるわ。メンバーにもそう言っておいて」
と、そこで始業のチャイムが鳴った。
「転校生を紹介する」
担任の奥山の隣にいる少女。
確かに可愛い。ショートカットのサラサラした黒髪、小柄でまるっこい顔立ちで、目がくっきりと丸い。そのくせ両手で鞄を持ち、肩を落とし、周りをうかがうように怯えている。いわゆる守りたくなるタイプ。
(ヤローどもがほっとかないわね、これは)
ここまで保護欲を駆り立てる少女も珍しい。イマドキなんていう言葉があるけれど、十年前でも二十年前でもこれほどおとなしそうな子はそうそういないだろう。
「瀬波裕香といいます。よろしくお願いします」
「席は山口の後ろだ。山口、面倒見るように」
「はーい」
少女はゆっくりと歩いてきて私と視線を交わす。
「よろしく」
「よろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げる。
(不思議な子ね)
怯えている。
この『学校』という空間──いや、違う。
『人』に怯えている。
「授業道具とか、全部揃ってる?」
「はい、大丈夫です」
「一時間目は英語。二十三ページから」
「はい」
「休み時間になったら校舎案内してあげる」
「ありがとうございます」
「ん〜」
まあ、いいか。
あとでゆっくり話す時間もあるだろうし。
『pray』
闇の中、蟻どもの蠢きは誰にも伝わることなく
城壁の向こう側、つむがれた戦の勝利を願って
滅びの前。決め手となる……ヘレノス
集えよ、愛しき者を取り戻すため
(ん〜、イマイチきまらないわねえ)
授業をほったらかしで作詞を進める麗奈。
(もっとこう、滅びのイメージを強くする単語を使って)
英和辞書をぱらぱらとめくる。
(なかなかいい言葉ってないものよねえ)
『destruction ── 滅亡 ──』
滅びゆく都市、略奪された都
一度見た景色、現実の世界
ひざまずき、許しを乞い、神にすがる
誰も私を救えない
渇いた風が、この熱を巻き上げていく
太陽は裁きを与え、月はまだ出てこない
私の祈りが届くことはなく、夢と現実が絡み合う
もう、ここに私はいない──
(さて、と。そろそろ時間ね)
そう思ったところでチャイムが鳴る。
休み時間になったところでノートをしまい、後ろの席を振り返る。
「さて、瀬波さ──」
私は、目を見張った。
彼女は、真っ青になって震えていた。
「ちょっ、どうしたの?」
私が彼女の肩に触れると、彼女の体がびくんとはねた。
「瀬波さん?」
「す、すいません」
擦れた声で答える。彼女は私の目を見ようとしない。俯いて、がたがたと震えている。
「大丈夫? 保健室行く?」
回りも何事かとこっちに集まってくる。
「ほら、肩貸すよ」
「……」
呼吸もあらい。
熱があるのだろうかと額に触れる──ひどく、冷たい。
(汗かいたせいね)
見れば額にぴったりと前髪が張り付いている。
(そんなに具合悪いなら、今日は休めばよかったのに)
彼女を担ぎ上げ、保健室へと連れていく。
「おい、手貸そうか」
雪が近づいてくるけど、私は丁重にお断りした。
「セクハラ」
「それのどこが丁重だっ」
「なに、彼女に惚れたの? 口説くんなら彼女が元気なときにしなさい」
「あのなー、俺は厚意で」
「やっぱり好きなんでしょ」
「それは好意っ! 漢字で書かないと分からないこと言うなっ」
私は雪を無視して彼女を連れ出す。
そしてなんとか保健室まで連れてきた。
「ほら、大丈夫?」
ベッドに寝かせ、隣の椅子に腰かける。
「ふう、疲れた」
ふと窓の外を眺めると、いつの間にか雨が降り出していたようだった。
「五月の雨、か」
彼女の方に目を戻すと、制服のポケットからストラップが出ているのに気付いた。
(携帯?)
悪いとは思いながら、彼女の携帯に手を伸ばす。
(AUの新機種。へえ、すごく軽い)
軽く操作してみる。とても使いやすい。
(そういや、帰国子女って言ったっけ)
帰ってきたばかりなのに携帯を持ってるというのも不思議な話だ。
(何件くらい入ってるのかな)
データを覗き込む。
(登録件数──一件?)
たったの?
ということは、これは自宅か親の電話番号。
(連絡しておいた方がいいかな)
娘が学校で倒れたのだから、親には連絡しておいた方がいいのは当然だ。
(登録先、携帯になってる)
少しためらった後、思い切って電話をかけてみた。
TRRRRRR、TRRRRRR。
『もしもし、どうした。まだ授業中だろ?』
電話の相手は、意外にも若い男性のものだった。
「あ、すいません。私、瀬波裕香さんのクラスメートの、山口麗奈っていいます」
『クラスメート?』
「はい。瀬波さん、具合が悪くて、今保健室にいるんです」
『容態は?』
「すごい汗びっしょりで、動悸も激しいです。今は眠っています。
『分かった。すぐに迎えにいく』
「今からですか?』
『ええ。山口さんだったね。悪いけど、裕香についていてくれませんか』
「かまいませんけど」
『それじゃ、すぐに行くから』
プツッ。
正直、驚いた。
いろいろなことに驚いている。
何をどう言えばいいのか、電話の向こうで瀬波さんのことを気遣う様子が、あまりにも切実すぎたことが一番。それから登録されていた相手がまだ若い男性だったということ。
(そうだ、名前)
登録者の名前。
水森邦彦。
(名字、違う)
もしかして、下宿?
(ということは今の人は、保護者ということ?)
よく分からない。
とにかくついていてほしいと言われたので、そのまま保健室にとどまることにした。
雨が少しずつ弱まっていく。
もう少しで完全にやむだろう。
しばらくして。
こんこん、と扉をノックする音が聞こえた。
「失礼します」
現れたのはスーツ姿の男性。どう見ても二十代前半。
「水森、邦彦さんですか?」
「裕香は」
「こっちで眠ってます」
男性は早足で近づくと、ベッド脇に膝をついた。
「裕香」
額に手を置く。その目が細まる。
「ありがとう、ついていてくれて」
男性は視線だけを私の方に向ける。
「いいえ。それより、瀬波さんとはどういう関係なんですか?」
「ん、ああ。彼女の身元引受人といったところかな」
「お仕事は?」
「単なる学生」
再び、男性の視線が瀬波さんへと戻る。
真剣な表情だった。
「ゆうか」
その呼びかけに、瀬波さんの目が開く。
「くにひこ、さん」
「裕香。大丈夫か」
「はい。どうして、ここへ」
「具合が悪くて保健室に運ばれたと連絡があった。クラスメートの山口さんに感謝しておきなさい」
「は、はい」
彼女が私の方を向く。
「ありがとうございます」
「いいのよ。それより、具合悪いんだったら無理して学校来ない方がいいわよ。余計具合悪くなるんだから」
「気をつけます」
少女は気まずそうな表情を浮かべた。
「裕香、今日はもう帰ろう」
「はい」
「立てるか」
「もう大丈夫です」
「じゃあ、教室に行って授業道具を持って玄関に。俺は職員室の方に顔を出してくるから」
「分かりました」
「それじゃあ山口さん、裕香のこと頼みます」
「はい」
私はまた肩を貸そうとしたけれど、瀬波さんはなんとか一人で立った。大丈夫です、と笑った。
(なん、だろう)
この二人を見ていると、何故だかすごく不安になってくる。
(何かが、私を不安にさせていく)
午後になってから、再び冷たい雨が降り始めた。
私の後ろの席は、もう誰も座っていない。
(冷たい、雨か……)
『追憶の愛』
胸の奥に潜む 突き上げるこの衝動
伝えられない気持ちを ただひたすら押し込める
何もかもをなくし 僕はただ愛を叫ぶ
もう二度とこの気持ちを 伝えることできなくて
魂がきしむ音が聞こえるか?
僕はただ 君だけを求めているのに
冷たい雨が僕の心を凍らせていく
追憶の愛……ただ君だけを抱きしめたくて
舞い降りた夜 溶けないココロ 伝わらない愛
せめてこの夜の夢では君の首に接吻を……
「詞、できたのか?」
雪が覗き込んでくる。
「まあね。納得はできてないけど」
「納得できない詞を押し付けるのかよ」
「違うよ。これは私の詞じゃないからよ」
雪は顔をしかめた。
「じゃあ誰が書いたんだ」
「私よ」
「言ってること矛盾してるぞ、お前」
「あんたの頭が鈍いだけよ──じゃ、私これからバイトだから」
「おう、サンキュな。ミーティング、顔出してくれよ」
「考えとくわ」
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