二〇〇二年五月十九日(日)。

「うーん、こんなに早く来て迷惑じゃなかったかなあ」
 山口麗奈は住所にあった『水森家』を訪ねていた。瀬波裕香はここで居候しているのだという。おそらくはあの水森邦彦という人物も一緒に暮らしているのだろう。
 どういう関係なのだろうか。
 そして、あの日の『トランス』。
 自分の中に勝手に映像が出てきて、勝手に詞が生まれた。
 いったい、何が作用してそんなことが起こったのか。
 裕香と一度、じっくり話をしてみたかった。
 今でも毎日学校では話をする。引っ込み思案な裕香と唯一気軽に喋ることができるのは彼女ただ一人であった。
 彼女のおかげで、裕香もようやく周囲と打ち解け始めている。
 無論、彼女の笑顔は、誰も見たことはなかったが。
(笑うと可愛いのにな、きっと)
 実は、一つ問題が生じている。
 クラスの中に、裕香の謎めいた雰囲気がいい、と男子が盛り上がっているのだ。
 影のある美少女。確かにこんなに絵になるものはない。まるでゲームから出てきたかのような彼女の容姿、態度に男子は心を躍らせているのだ。
 だがそうなると、当然やっかみも出てくる。裕香の人気が高まることを快く思わない女子も、それに比例して増えはじめていた。
 せめて裕香がもう少し自分から周囲と話すようになれば、事態はまた変わるだろう。
 しかし今は麗奈だけがなんとか裕香と話そうとしている状態でしかない。
 それではよくないのだ。
(まだイジメとかがおこってるわけじゃないけど)
 そうなる可能性は充分にある。そうなったとき、自分が裕香を守りきれる自信はない。
 むしろ自分が一緒に標的にされる場合もありうる。
 しょせん、人間は弱者と異端者を差別する生き物なのだ。
「いけないいけない」
 今の問題はそのことではない。麗奈は首を振ってチャイムを押した。
 先に考えなければいけないのは、この『トランス』についてだ。
 そのためにここに来ているのだから。
 そう思っていると、向こうから扉が開いた。そして裕香が顔を出す。
「こんちは」
「おはようございます」
 ぺこり、と一礼する。形式ばった挨拶だが、これはいつも通りの裕香だ。
「上がってください」
 裕香が招き入れ、麗奈は遠慮なく上がった。
「お邪魔しまーす」
 リビングに入ると、邦彦が新聞を広げて読んでいるところだった。彼は落ち着いて新聞を畳むとソファから立ち上がった。
「いらっしゃい。山口、麗奈さん?」
「そうです。ええと、はじめまして、じゃないですよね。何て言ったらいいのかな」
『妹』の友人が一生懸命考えているので、思わず邦彦は笑ってしまった。
「別に普通でいいと思うよ。この間は裕香のこと、ありがとう」
「どういたしまして。でも別に、たいしたことはしてないですよ」
「保健室まで連れていってくれたんだろう? いくら裕香が軽いといっても、さすがに大変だっただろう」
「邦彦さん」
 少し、裕香が厳しい視線だった。邦彦は肩を竦めた。
「悪い悪い。それじゃ、ゆっくりしていって」
「はい。そうさせていただきます」
「麗奈、こっち」
 リビングからキッチンの方を示す。この家のつくりは面白いことに、キッチンの奥に二階への階段があるのだ。
「あ、山口さん」
 裕香の後についていこうとした麗奈を、小声で呼び止める。
「はい?」
 裕香も足を止めたが、少し迷った素振りを見せてから先に二階へ上がっていった。
「裕香のこと、よろしく頼むよ」
「といいますと?」
「笑わない子だからね。学校とかで苛められることになるかもしれない。人付き合いがおそろしく苦手だけど、嫌わないでやってほしい」
「それは、もちろんですけど」
 何か含みがある。
 やはりこの二人には、今まで自分が見たことがない不思議な『何か』がある。
「山口さんは、優しいな」
 少し、顔が赤らんだのが自分でもわかる。
「きっと裕香のことでいろいろ迷惑をかけてると思う」
「そんなことないですよ。友達ですから」
「そうだね。ありがとう、本当に」
 この人は、天然だ。そう、彼女は思った。
 こんなに素直にお礼を言われて、快く思わない人がいるはずがない。
 ましてや、この人は。
(けっこう、カッコイイし)
 最初に見たときから何となくそう思っていた。無理に裕香を連れて帰るあたり、やや強引なところもあるが、それもプラス評価の材料にしかならない。
「それじゃ、失礼します」
「ああ」
 急いで裕香の後を追いかける。
(心配性のお兄ちゃんみたい)
 心の中で、くすっ、と笑う。
 だが実際のところはどういう関係なのだろうか。それがまだ今ひとつ分からない。
 二階に上がると、部屋の扉の前で裕香が待っていた。
「何、話してたの?」
 少しむくれたような顔だった。
 この子は決して感情がないわけではないということを再認識させられる。
「可愛い裕香ちゃんをよろしく頼むって」
 好き。
 多分この子は、水森邦彦という男性のことが好きなのだ。
「そう」
 その証拠に、こんなにも安心した雰囲気を醸しているではないか。
「どうぞ」
 扉を開けて、中に招き入れる。
 そこは、ごくありふれた部屋だった。ピンクと白のカーペット。壁には特別な装飾はなく、カーテンはやはり薄いピンクに青と白の模様入り。ベッドと机、洋服タンスがあって、中央にはテーブルと座布団が二枚。どうやら自分を出迎えてくれていたようだった。
「座って」
 そう言うので、言われたまま麗奈は座った。
「そういえば、裕香と邦彦さんって、どういう関係なの?」
 別に深く立ち入るつもりはなかったが、それくらいは聞いてもかまわないだろうと麗奈は判断した。だいたい、居候先の相手が若い健康な男子なのだ。それも血がつながっているわけでもないだろう。
「お父さんの職場で働いている人の息子です」
「ふーん。たしかお父さんって、海外だったよね」
「はい」
「それで日本で住むところがないからここに、って感じ?」
「はい」
「なるほどなるほど」
 用意されていたお茶を「いただきます」と断ってから飲む。
「それで裕香ちゃんは、その邦彦さんにラブなんだ」
 裕香は全く表情を変えなかった。
「いいえ」
「あれ、そうなの? てっきりお互いの親承認のカップルかと思っちゃった」
 寂しげに俯く。何を意図しているのかはさすがにわからなかった。
「それじゃ、私が邦彦さん狙っちゃおうかな」
「それは無理」
 無理、という辺りで少しカチンときた。
「どうしてよ」
「邦彦さん、恋人がいるから」
 なるほどと納得しつつも、さすがに『無理』と言われるのは我慢ならなかった。
「いいかい裕香ちゃん」
「はい」
「そういう事情があるときはね、相手にいきなり『無理』とか言っちゃ駄目。先に理由を言わない相手の気に障るから」
 裕香はショックを受けたように顔色を変えて頭を下げた。
「すみませんでした」
「あ、いや、そんなにかしこまられると、困ったな。別に謝ってもらおうとかいうんじゃなくて、裕香、海外長かったからそういうところ分からないと思ったから」
「はい。いろいろ教えてください」
 何だか、何も知らない無垢な赤子にものを教えているようだった。
「あ、それじゃあひょっとして、邦彦さんには恋人がいるから自分は身を引こうとか、そういうこと考えてる?」
「いいえ」
「じゃあ本当に、好きとかっていう感情はないの?」
 残念だった。
 二人の関係にはきっと恋愛感情が絡んでいると思ったのに、全くそういうところはないというのだろうか。
 だが、裕香は迅速に返事ができなかった。少しためらっているようだった。
「お、お? 実はやっぱり好きなのかな?」
「……そうでは、ありません」
 裕香は言葉を選んでいるようだった。日本語を完全に使いこなすことができないだけではなく、なんと表現すればいいのかが分からないという様子だ。
「信頼しています。でも……」
 信頼、とは難しい言葉を選んだものだ。
 この二人を見たとき、何かすごく危ういものを感じた。そして『トランス』した。
 ──そうだ。
「あ、ねえ、裕香。ちょっと見てほしいものがあるんだ」
 そう言って鞄の中からごそごそと詞のノートを取り出す。
「……なに?」
「私ね、TROYっていうバンドの作詞してるんだ。それで、裕香にも見てもらおうかと思って」
 いいか悪いか、ちょっとだけでも見てくれないかというお願いだった。だが本当の目的は別にある。
 この詞を見たとき、彼女が何を思うかが知りたかった。






『追憶の愛』

 胸の奥に潜む 突き上げるこの衝動
 伝えられない気持ちを ただひたすら押し込める
 何もかもをなくし 僕はただ愛を叫ぶ
 もう二度とこの気持ちを 伝えることできなくて

 魂がきしむ音が聞こえるか?
 僕はただ 君だけを求めているのに

 冷たい雨が僕の心を凍らせていく
 追憶の愛……ただ君だけを抱きしめたくて
 舞い降りた夜 溶けないココロ 伝わらない愛
 せめてこの夜の夢では君の首に接吻を……






 二人を見たときに『トランス』した詞だ。
 最初にそれを見たとき、裕香には特別何も変化はなかった。
 が、途中で固まる。
 そして目を背け、がたがたと震えた。
「ちょっ……裕香、どうしたの?」
「だい、じょうぶ……」
 ぱたん、とノートを閉じる。
「……雨は、嫌い」
 どうやら、詞の中に出てくるフレーズが彼女に衝撃を与えているようだった。
 冷たい雨。
 そういえばあの日、転校初日も雨が降っていた。
(どうして?)
 よほど、尋ねたかったができなかった。
 本当に裕香が苦しんでいるように見えたからだ。
「あ、じゃあ、他の詞も見てよ。それならいいでしょ?」
 少し迷ってから、裕香はコクリと頷いた。
 1つずつ、ゆっくりと裕香は詞を読む。
 それを見ながら、麗奈は今の裕香の様子について考えていた。
(やっぱり、この現象には何かある)
 そして今の『追憶の愛』は、彼女に衝撃を与えていた。
 それはおそらく、雨というワンフレーズのみが問題だったのではないだろう。おそらくは詞全体、そしてキーワードに『雨』があったに違いない。
 TROYは男性ボーカルになる予定だ。だからこの詞は、男性視点で描かれている。
 じゃあ──この詞の主人公が見ている『君』はどのような様子なのだろう。
 自分には分からない。
 何故なら、勝手に指が動いて、勝手に詞が完成していたからだ。
 だがこの詞の中では『君』の姿がイメージされているに違いない。
 おそらく裕香はそれを読み取った。
 いや、現実のワンシーンとして頭の中に『君』の姿を描くことができたのかもしれない。
「読み終わった?」
 裕香は頷く。
「よければ感想を聞かせてほしいな」
 裕香は少し考えてから、1つずつ感想を告げた。
 それはかなり的確なものだった。良いところは褒め、悪いところはおかしい、とはっきり言う。なまじ嘘がつけない性格なだけに、非常に客観的な感想をもらうことができた。
 作詞者としては、非常にありがたい相手だった。
「ありがとう、裕香」
「……いえ」
「それから、もう1つ見てほしい詞があったんだ。これ、昨日できた奴なんだけどさ」
 そして、私は『あの』詞を取り出した。
 昨日『彼』に出会ったときに『トランス』した詞。
『傷口に染み込む雨』
「あ……ごめん、今のなし!」
 先ほどの裕香の様子を思い出して、手渡す寸前で引っ込める。
「どうして?」
「うーんと、その、えーと、まだ未完成だった。あははは」
 また発作が起きるかもしれない。しかも、自分のせいでだ。それは防ぎたかった。
「そう」
「うん。あ、それじゃ、私そろそろ行くね。ごめん、今日は慌ただしくって」
「いいえ。楽しかったから」
 麗奈は目を丸く見開く。
 楽しい?
 今彼女は、そう言ったのだろうか。
「裕香ちゃん」
「はい」
「そういうときは、もう少し嬉しそうな顔をするもんよ」
「分かりました」
 だが全く表情が変化しない彼女を見て、麗奈はぷっと吹き出した。
「ごめんごめん。人には得手不得手があるよね。裕香はそのままでいいよ」
「はい」
「それじゃ、ご馳走様。また来てもいいかな?」
「はい」
 そうして麗奈は部屋を出て、階段を降りた。
 リビングでは邦彦が、今度は難しそうな専門書を開いて何か勉強しているようだった。
「あれ、もう帰るのかい?」
「はい。ちょっとまだ他に用事があるんで」
「そうか。じゃ、今度はもっとゆっくり時間が取れるときにおいで。裕香も喜んでるみたいだから」
 喜んでいる? 麗奈は裕香をじっくりと見る。だがその表情には全く変化はない。
 だがさっきは確かに『楽しかった』と言った。
 邦彦には、裕香の心の動きが読めるのだろうか。
「ええと、それじゃあお邪魔しました」
 なにやら気まずくなって、早々に麗奈は退散した。
「また明日」
 麗奈は裕香からかけられた言葉に、またしても驚かされた。
 決して今までは自分から挨拶なんてしない子だったのに。
「うん。また明日ね、裕香」
 収穫はあった。
 自分が『トランス』するのは『自分では見えない何か』を感じ取って、それを無意識で詞にしてしまっているのだ。
 だとしたら、この詞は、何を見ているんだろう。






『傷口に染み込む雨』

 流された魂の向こう
 癒されてゆく闇のほとり
 止まらない傷口に染みる
 雨はまだヤみそうにない。

 何故、戻れないのか
 オマエは進むしかないのか。
 何故、譲れないのか
 ワタシはついていけないのか。

 サビついた躯(からだ)、今はもう動けないで
 心は今も、道の向こうへ進んでいる
 キズついた心、夢はもう消え失せて
 誰も見えない、闇の中で、朽ち果てる……。






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