『あたしも花が咲くところ一緒に見たい』

 あの言葉が僕の心の中に刻まれてから、もう一年以上が過ぎた。
 結局忘れることなんかできなくて。彼女にはもう二度と会うことができないと分かっていても、ここで花と土と草とに触れていると、彼女がここにいてくれるような気がして。
 いや、間違いなく僕はこの場所で彼女と『会話』している。

『ありがとう……伊恩。大……好き……』

 そう言って、僕の腕の中で消えた君。
 あの別れは、多分──僕の中で、決して消えることはないと思う。





第一話

“闇の者”狩り

其ノ三 風に消えた少女





 雷斗と世宇留の二人が職員室に呼ばれている間、伊恩は一人で花壇の世話をしていた。
 休みの日といえども学校に来て世話をするくらい、ここの花壇は『伊恩専用』となっていた。一応の当番はあるのだが、中学生が花いじりなどあまりするものではない。女の子のうち半分くらいが当番の時に顔を見せにくるくらいで、伊恩以外の人間がここの花壇の世話をすることはあまりない。
 実際、伊恩にとっても都合が良かった。この花壇は自分にとって大切な場所であって、なるべくここではゆっくり一人でいたい。
 伊恩が毎日世話をしているおかげで、ここの花たちはとても元気に咲いている。
 花が好きだなんて男らしくないだろうかなんていうことも考えたこともあるが、ある人に『自分が好きなものならそれでいい』と断言されて以来、伊恩はそれを隠すようなことはしていない。
 ただ。
(寂しいよ)
 雷斗がこの世界に戻ってきてからしばらくは感じていなかったが、ここ最近、やけに彼女のことを考えるようになっている。
 会いたい。
 だが、もう彼女には会えない。
 明らかな現実の前に、自分の立つ地面がぐらぐらと揺れている。
 心が割れそうになる。
 彼女のことを考えれば、考えるほど──

 と、その時、後ろで土を踏む音。

「シエ……」
 立ち上がって振り向く。
 だが、そこにいたのは彼女ではなく、クラスメートの雨宮咲(あまみやさき)だった。
「あ、伊恩くん」
 驚いたかのように、咲は一歩退く。
「ご、ごめん。ちょっと人違いしちゃって。どうしたの、咲さん」
 雷斗や伊恩は女の子のことを分け隔てなく、さんとつけて呼んでいる。昔は誰でも女の子には、ちゃん、とつけていたのだが(雷斗は今でもそうしている)、彼女が亡くなってからはそうした親しさも少し失われてしまったかのようだった。
「あ、ううん。一応今日、私も当番だったから」
「あ、そっか。ごめん、もう手入れは終わっちゃったんだけど」
「ごめんなさい、遅れちゃって。ちょっと先生に呼ばれてたから」
「いいよ。僕は好きでやってるんだし。花は好きだからね」
 伊恩の綺麗な白い手は土で汚れ、額には汗が浮き出ている。土いじりというのはなかなか大変な作業で、雑草を抜いたりするだけでもこの広さの花壇ではけっこう大変な作業だ。
「随分、綺麗に咲いたね」
 咲は近づいてきて伊恩の隣にしゃがむ。うん、と頷いて伊恩もしゃがんだ。
「こっちの花は春咲の花だからね。僕は向こうの花壇の、秋咲の花の方が好きなんだけど。向こうも肥料はあげてるから、秋には綺麗な花が咲くよ。リンドウにアザレア、それに──コスモス」
 隣の花壇を見ながら、視線はそこからさらに遠くに移る。
 コスモス──約束の花。彼女と一緒に見る花。
「そうなんだ。伊恩くん、詳しいんだね」
「ずっとやっているとね。いろいろと調べたりすることもあるし」
 穏やかに微笑んでいた伊恩を、咲がじっと見つめてくる。
「あっ、と、どうかした?」
 その視線に気付いた伊恩が咲に尋ねる。
「私、今日がチャンスかな、って思ってたの。なかなか伊恩くんと二人になれることって、なかったから」
(──え?)
 小さな可愛らしい顔を横にして、ひざをかかえたまま、じっと自分を見つめてくる。
「私、ずっと見てた。去年、一緒のクラスになってからずうっと。伊恩くんはそんなこと、気付いていなかったと思うけど、私はずっと伊恩くんのこと、大好きだった」
(まっ、て)
 ズキリ、と心が痛む。
 よりにもよって、この場所で、そんなことを。
「私と──」
「ごめんっ!」
 何かを考えるより早く、先に言葉が出ていた。
「伊恩くん?」
「ごめん、咲さん。僕は」
 その少女の顔が、悲しそうに歪む。
「僕は──他に、好きな人がいるから」
 だが、この状況はどう考えてもおかしいものだった。
 少女は悲しそうにしているが、それもある程度予測済みのことだったのか、取り乱すようなところは全くなかった。
 それに対して完全に我を見失っているのは伊恩の方だ。完全に動転して、パニックに陥っている。
「ごめん!」
 立ち上がると、伊恩はそのまま逃げる。
 走って、走って、走って逃げた。
 どこまで逃げたのかは分からない。はあ、はあ、と荒く息をつく。
 全く。
 よりにもよって。
 彼女との思い出の場所で、あのようなことを言われたら。
 ──嫌でも、思い出さずにはいられない。

『伊恩と……普通の……“人間の”の女の子として……出会いたかった……』

 最期の言葉。
 何度も、何度も繰り返し自分の頭の中で繰り返された言葉。

『花を……見ながらずっと一緒に……話して……いたかった……』

 自分の力は届かず、癒すこともできず、ただ、ただ自分の腕の中で笑いながら逝った少女。

『“好き”という……気持ちを教えて……くれた……』

 自分だって同じだ。初めて好きになった相手。彼女のこと以外、あの時は何も考えられなかった。

『ありがとう……伊恩……大……好き……』

 そして、消えた。
 自分の腕の中で。
 亡骸を弔うことさえできず。
 彼女は塵となり、空気となり。

 そして、彼女の魂が、あのコスモスの花に宿った。一輪だけ開いた、つぼみ。

「どうして君は死んでしまったんだ……っ!」

 空を見上げる。だが、そこには、青い空が広がっているばかりだった。その空も涙でにじむ。
 駄目だ。
 自分はまだ、忘れることなんてできない。
 この気持ちだけは風に消えることなく、ずっと彼女を追い求め続けている──

「シエナ……っ!」






「あれ?」
 雷斗は花壇にやってきたが、そこに伊恩はいない。
「おかしいな、教室に鞄はあったのに」
 どこかに行っているのだろうか。外靴はなかったから、絶対に花壇だと思ったのだが。
「外で花壇でもないところ……」
 残念ながら、伊恩の行動半径を考えても花壇以外に行く場所など全く思いつかない。それとも部活の友人のところにでも行っているのだろうか。
「あ、雷斗くん」
 と、そこに声をかけてきたのは同じクラスの雨宮咲であった。
「あ、咲ちゃん。伊恩見なかった?」
 何も知らない雷斗は普通に尋ねる。が、咲の表情が一瞬にして曇ったため、容易に何かあったのだと察しがつく。
「どうしたの?」
「……伊恩くんとちょっと話してて。ねえ、雷斗くんは知ってるの?」
「何が?」
「伊恩くんが、好きな人」
 ──その言葉で、何があったのかを全て察した。
「咲ちゃんは、伊恩が好きなんだ」
 顔を真っ赤にして俯く。純情な子だ。
「そっか。でも、その話をここでするのはまずかったかな。伊恩、あの子のこと忘れられてないから。伊恩、逃げ出していかなかった?」
 咲は驚いたようにして頷いた。
「伊恩くんは、」
「あ、ごめん。俺、その人のこと伊恩の断りなしに話したくないから。でも、伊恩もその人のこと、そろそろ忘れる時期じゃないかなとは思うんだ」






 戦いは一年間かかった。
 ダーク・アースにおける“闇の者”の盟主、ダウザードが“闇の者”を組織して人間に対して戦いを挑んだ。人間側の皇子、ミカドは諸事情があってホープ・アースへとやってきていた。雷斗はその護衛としてついてきていた。伊恩と出会ったのもその時だ。
 それは今からもう二年前の五月。まだ、自分たちは中学一年生だった。
 伊恩だけではない。そこで雷斗は世宇留や結月、宮、真夏といった仲間たちに出会った。
 そしてこの戦いに巻き込まれた伊恩は、そこで“闇の者”の少女と出会う。
 それが、シエナだった。
 シエナは伊恩と恋に落ち、ダウザードから離れて伊恩に味方をしようとした。
 だが、それによって、彼女は粛清の対象となって殺された。
 伊恩の目の前で。

 そして、彼女が殺されたのが、この花壇の前だった──






「俺、咲ちゃんのこと応援してるよ。俺も伊恩には幸せになってほしいから」
「雷斗くん」
 伊恩と同じように美形の雷斗からそう言われると、さすがの咲も赤くなって俯く。
「でも、この場所だとちょっとまずかったね。場所を変えて、もう一度話してみたら、伊恩も多分少しは落ち着くことができると思うから」
「うん、分かった」
 聞きたいことはたくさんあるだろうに、それを聞かないでくれるのは聡明な証拠だろう。優しく、暖かく見守ることができる少女ならば、伊恩にとって相応しい女の子だと思う。
(伊恩も、ずっと過去に捕われてちゃ駄目だもんな)
 いつかは伊恩も立ち直っていくのかもしれない。だが、あのままだと伊恩はいつまで経ってもこの花壇から、シエナから離れることはしないだろう。
 伊恩が立ち直るためのいい機会だと思う。
「雷斗くんって、伊恩くんのことがよく分かってるんだね」
「一応、一緒に暮らしてるしね」






 もちろんそれだけが理由ではない。自分にとって伊恩は大切な半身。生まれる場所こそ違えど、もともとは同じ父、同じ母から肉体をうけた双子なのだ。
 何の因果か、自分は母親から離れてダーク・アースで生を受けることになってしまったが、それでも双子としてのつながりは強く感じている。
 もちろんずっと離れていたし、苗字も異なる。だから学校内で自分たちが双子だということを知っているのは自分たちの他には世宇留だけだ。






「がんばってね、咲ちゃん。応援してるから」
「ありがとう、雷斗くん。雷斗くんもがんばってね」
 ? と顔に疑問符を浮かべた雷斗に、咲はくすっと笑った。
「結月ちゃんのこと、好きなんでしょ?」

 ──今度は、雷斗の顔が真っ赤に染まる番だった。







二つの“狩り”

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