部屋の戸に鍵はかからない。それでも礼儀として伊恩は戸を叩く。
 中からは返事はない。だが、聞いているのは間違いない。返事をすることもできないくらい動揺しているのだろう。
(玲魅)
 いつも自分に迫ってくる少女。
 だが、その少女の本当の気持ちを、どことなく伊恩は気付いていた。
(僕が玲魅に本気になれなかったのは、それが原因なのかも)
 客観的に見て可愛い子だ。外見はもちろんのこと、話していて気疲れすることもないし、相手が自分を束縛することもない。いつでもじゃれあっていられる、そんな仲。
 玲魅だってきっと、自分のことを好きだ好きだと言っておきながら、本気でそんなことは言っていなかったに違いない。それもこの年までくれば、それは無意識のものではなく、かなり意識の表面にあらわれているはず。
 そして、もう玲魅はそのことにはっきりと気付いているはずだ。
「入るよ」
 かちゃ、と音を立ててノブが回る。
 中は暗く、カーテンのかかっていない窓は大きく開かれている。
 その窓の下に、壁に背を預けて玲魅が足を伸ばして座っていた。
「来ないで」
 泣いているのだろうか。
 その言葉が悲痛の色で染まっていることに、伊恩は当然気付いていた。





第二話

黄金週間

其ノ六 君がいるだけで





 伊恩はただ玲魅の傍にいる。
 泣いているのに、泣いていない。
 泣いていないのに、泣いている。
 彼女はただ、その場に座り込んでは呆然とただ虚空を眺めている。
 伊恩はその隣に座っている。
 ただ、座っている。
 静寂の時間だけが、ただ流れている。
(ギリシャ、かあ)
 確かに、遠い。一日や二日休みがあったからといって簡単に会いに行けるような距離ではない。
(でも、二度と会えないっていうわけでもない……よね)
 そう。自分に比べれば、そんなことはどうってことない。
(そうだよね、シエナ)
 彼女に会ったのはほんの数回だけれど、最初の一回で心ごと惹かれた。気高さと優しさを同時に感じた。初めて会うタイプの女性だった。
 あの心強さに惹かれた。
 そんな彼女には、もう二度と会えない。彼女はこの空気に溶けてしまったから。
(それに比べれば、会えるんだから)
 伊恩は少しでも励ましてあげたいと思った。だが、それが今の彼女にとってはなんの慰めにもならないということを知っている。喪失というのは、周りが何かを言ったからといって容易く埋められるものではない。時間をかけてゆっくりと埋められていくものだ。だいたい、伊恩からしてまだその喪失が完全に埋められたというわけではないのだ。
「ボク、さ」
 やがて、ぽつりと玲魅が話し出した。
「伊恩のこと、好きじゃなかったのかなあ……」
 突然そんなことを言い始める。だが、ある程度その感情について分かっていた伊恩は素直に頷いた。
「そうかもね」
「驚かないんだ」
「玲魅の気持ちがどこにあるのか、なんとなく分かってたから」
 そう。
 自分が永遠に手の届かない年上の女性を追い続けているように、彼女もまた永遠に手の届かない相手を追い求めているのだ。
 自分の、父親を。
「ボク、パパのことが本当に好き」
「うん」
「好き。好き。好き……気付いてた。気付いてて、ずっと自分を騙してた」
「うん。でも、気持ちは分かるよ。伯父さん、カッコいいし」
 伊恩の父親の真琴も優しげで印象的な男性だが、伯父の総夢はさらに厳しさと強さを兼ね備えた人物だった。父がいつも『兄にはかなわないよ』と言うのが分かる。その影響もあってか、自分も兄である雷斗にはかなわないと思うようになってしまったが、それは事実だからかまわない。
「ボク、お母さんの代わりになれないかと思った」
「うん」
「でも、駄目だなあ……どんなにがんばってもパパはやっぱり、パパだから」
 えへへ、と笑ってから隣に座る伊恩の服の袖を両手で掴んできた。
「ちょっとだけ泣くから」
「うん」
「これ以上、伊恩に迷惑かけたりしないけど、今日だけ、ごめん」
「うん」
 何か気のきいた言葉をかけるべきかとも思ったが、むしろこういう時に言葉はいらない。それは喪失の記憶がある自分だからこそ分かる。
 玲魅は、声を立てずに泣いた。ただ体を震わせて泣いた。声を立てないことが、精一杯の現実への抵抗なのだということを、伊恩は分かっていた。






 総夢の妻、佳苗(かなえ)は玲魅が三歳の時に亡くなった。
 心不全。もともと臓器の調子が悪いところがあったが、風邪をこじらせた後に臓器が軒並み作動しなくなった。風邪は万病の元とはよくいったものだ。
 誰からも目を引く養子をしているというのに、彼女の性格は反比例して地味で、質素だった。服やアクセサリーも目立たないものばかり。誰かの後ろに隠れているのが趣味とでもいうような、自分の主張をしない女性だった。
 彼女のことはずっと昔から知っている。知ってはいたが、ほとんど話したことはなかった。彼女には家族がいなかった。目立たず、大人しい彼女に家族がいないことなどほとんど誰も知らない。実際、大学で同じゼミを受講することになっても、意見を交換する以外の会話を、総夢はほとんどしたことがなかった。
 そんな彼女が、食堂でコーヒーを飲んでいる自分に、声をかけてきた。おそらくそれは、彼女にとって初めての行動で、かつとても勇気のいる行動だったのだろう。
『総夢くん、ブラックばかり飲んでると、胃があれちゃうからダメだよ』
 そう言って彼女はミルクを置いていった。
 なんとはなしにミルクを入れてみた。コーヒーの苦味はなくなってしまったが、それも悪い味ではなかった。
 それから、総夢と佳苗は少しずつ会話が増えるようになった。
 彼女は健康にとても気を使う人で、睡眠時間もほぼ毎日変わらないし、酒もほどほどにしか飲まなかった。何を言っても『長生きしたいから』と答え、周りを辟易させたものだ。
 そう。それは彼女の体質上、当然のことなのだ。何故なら彼女は、



「短命だと、最初から分かっていたからだ」
 総夢は胸のロザリオを握り締めた。カッコいい男性がそうする仕草はとても絵になるが、この場合はそれがあまりにはまりすぎて、見る側に苦しさを与える。
「じゃあ……玲魅は」
「そうだ。人間と“闇の者”のハーフ。“闇の者”と違って短命ではないが、それでも特殊な能力はいくつもある。直感が優れているというのか、探し物を見つけるのが大の得意だ」
 人間と“闇の者”のハーフ。そうした例がダーク・アースにないというわけではない。もちろん“闇の者”は人間型に限るのだが。
「雷斗君。一つ、教えてもらいたいことがあるんだ」
 そうしていよいよ本題に入る。
 だが、ここまでの話である程度の予測はつく。もちろん自分が教えられることなど多くはない。つまり、ダーク・アースに関すること。それを総夢伯父は知りたがっている。
「なんですか」
「妻の故郷を、見たい」
 ロザリオが強く握られる。
「俺を、ダーク・アースへ連れていってもらえないか」
 さすがに動きが止まる。
 それは決して不可能ではない。現に伊恩は先の戦いの時は最後に世界を渡ってダーク・アースまで行き、戦争に参加している。
 だが、今でこそ戦争は終わっているとはいえ、決して治安が完全によくなっているわけではない。国王ルアスはよくやっているが、戦争の傷痕は一、二年で癒えるはずがないのだ。
「危険です」
「無理だとは言わないんだな」
「はい。今のダーク・アースはある意味、無秩序です。危険なところへ伊恩の伯父さんを連れていくのはちょっと」
「おいおい。俺は君の伯父でもあるんだぜ」
 ふっ、と笑う。大人の魅力にあふれた笑いだった。
「そうでした」
「まあ、いきなり伯父だなどと言われても、家族すらいなかった君には分かりづらいのかもしれない。だが、私は君のことも伊恩君と同様に大切な甥だと思っている」
「あ、えと」
 カッコイイ男性からそんなふうに言われると、さすがの雷斗も照れる。
「危険は覚悟の上だ。それに、これは『我々』からの正式な要請だと思ってくれてかまわない」
 我々? と雷斗は首をかしげる。総夢はポケットから何やら取り出すと、雷斗の手の上に載せた。
「これ──!」
 それはもちろん見覚えのあるものだった。
“闇の者”保護機関、略称PDOのブレスレッド。
 それをつけていれば“闇の者”の持つ波動を完全に打ち消すことができるという。あの三國教諭が持っていたものと同じものだ。
「どうして伯父さんが」
「俺は“闇の者”の女性を妻に持っていた。となると、当然“そうした”関係があってもおかしくないとは思わないかい?」
 たしかにその通りだ。妻の佳苗が亡くなったのは病気によるものだった。とすれば、それまで佳苗はハンターたちから逃れきっていたということになる。つまり、
「佳苗伯母さんを助けるために、PDOに入ったんですか?」
「少し違う」
 伯父は正確に訂正した。

「俺は子供の頃からPDOのメンバーだった。ついでに言わせてもらうならば、俺がPDO日本支部の役員だ」






「パパって、昔からいろんなことをよく知っていたんだ。ボクのこの『力』のこととかさ」
 そう。館風家は総じてファンタジー好きだ。父親は作家になり、伯父は現実路線の外資系サラリーマンだが、それでもファンタジー小説をよく読んでいるらしいし、ファンタジー小説家の父親によくアドバイスなどもしていると聞いた。
「失くした物を探すのが上手だったりとか」
「うん。それも一つだけど、他にもいろいろ。見えないものが見えたり、とかね。だから、あの時も、見えてた」
 どき、と心臓が早鐘を打つ。あのとき、という言葉だけでこんなにも敏感に反応する。もちろん、何のことを話しているのかなどはっきりしている。
「伊恩が、どんな女の子のことを考えているのか、はっきり見えた。綺麗な子だね。シエナさん、って言うの?」
「どうして」
「見えないものが見えて、知らないことを知っている。そんな『力』のせいで、小さい頃はよく苛められたよ。今は隠してるから、単に直感が鋭いだけで通ってるけど」
 あはは、と玲魅が笑う。
「小さい頃からパパの回りには人がたくさんいた。色んな人に紹介されたりもしたよ。だからずっと昔から憧れてた」
 その総夢とは、切ることのできない血のつながりがある。
 当然玲魅もそのことを分かっていて、それを必死に押し殺そうとした。だが。
「抑えきれない気持ちに、そろそろサヨナラしなきゃね」
「玲魅」
「ボクだって分かってるんだ。パパがボクのことを見てくれないっていうのは。親離れしないといけないのは分かってた。諦めないといけないのも分かってた。これはいいきっかけかもしれない」
 前向きな玲魅が戻ってきた。こと恋愛にかけては不器用なところもあるが、それでも元気で快活なのが彼女の一番の長所だ。
「ねえ、伊恩」
「なに?」
「ボク、今度こそ本気で、伊恩のこと好きになってもいい?」
 上目で見つめてくる。伊恩は苦笑して答えた。
「いいよ。でも、伯父さんのことが本当に吹っ切れてからね」
 それよりも。
 自分が、シエナのことを吹っ切ることは、本当にできるのだろうか──?
 そのかすかな迷いを、玲魅は見逃さなかった。
「嘘つき」
 そして、微笑む。
「でも、ありがと」
 慰めてくれているというのは彼女にも分かったのだ。







YAH-YAH-YAH

もどる