昨年の九月から、一般の公立学校は第二土曜日を休日とするようになったが、私立の中高一貫教育にはそんなことは通用しない。
土曜日も普通に学校があり、普通に授業がある。ただし、午前中の三科目だけで給食はなく、部活をしている生徒たちは弁当を持参するか、学食で食べることとなる。
一九九三年五月八日(土)。
球技大会は来週の金、土の二日間で行われる。春の球技大会が終われば一学期中間試験が目前となるので、それまでは目一杯楽しむ生徒が多い。
当然、クラス一丸となって練習をしたいところだが、体育館やグラウンドは部活で使われる。ということは町の体育館に行くなどしなければならなかった。
「よーし、じゃ、今日の午後から練習するぜー」
宮が言うと自然と誰もがそれに従う。宮には自然とリーダーシップが備わっているようだった。
第三話
球技大会
其ノ二 土曜の午後に
サッカー組とバスケ組は午後一時から公園に集合して練習することになった。公園にはサッカーグラウンドが二面もあり、自由に開放されている。また、バスケットゴールも設置されている。クラスを取りまとめる宮がサッカーとバスケの両方にいることもあって、ちょうどよかった。
「それにしても、雷斗は本当にジャンプ力あるよなあ」
祐一からレイアップシュートの訓練を受けていた雷斗が「そう?」と少し照れながら答える。
「中一のときにこっちに来たときからすごい奴だったけど、改めてみると本当にすごいよな」
「ありがとう」
時に凛々しく、時に可愛らしい笑顔も見せる雷斗はクラスの人気者だ。男でも女でも懐かせるその無敵の笑顔を見ると、彼のために何かしてやりたいと誰でも思わせられる。
「よし、じゃあ次はジャンプシュートな」
祐一が実演でシュートを放ち、その際のフォームについて細かく雷斗に指導を入れていく。
それを横目で見ながら、結月と紫苑はドリブルの練習を続けていた。
結月の目から見ても、雷斗が日に日に上手くなっていくのが分かった。最初はレイアップなんて十回やっても入らなかったのに、今ではもう十回に九回は入っている。飲み込みが早いのだ。自分みたいな運動音痴とは全然違う。いや、結月とて平均よりはずっと上なのだが。
「私も雷斗くんくらい運動神経があったらなあ」
ぽつりと呟いた言葉に紫苑が反応した。
「大丈夫。陽ノ水さんはエリトリアよりいい」
「え?」
結月の思考がストップする。エリトリア? いったいどういう意味なのか、まったく意味が分からない。だが、紫苑が真剣な表情で言っているのだ。きっと自分を慰めたりしてくれてるのだと思うけど。
「──冗談」
冗談?
言っている意味がまだ理解できない。だが、ゆっくりと分かってきた。さっきの言葉が冗談だと言っているのだ。
「え、で、でも、エリトリアって、どういう意味?」
「国の名前。今月独立する」
「その国よりもいいって、どういうこと?」
ますます意味が分からない。
「意味はないの」
「え?」
「意味のない冗談を言うのが、流行なの」
そんな流行があっただろうか。少なくとも結月は知らない。
だが、紫苑がわずかに目線を逸らしてうつむき加減にして、少しだけ顔が赤らんでいるところを見ると、もしかして言ってしまってから後悔しているのかもしれない。
「そっか」
「うん」
「紫苑ちゃん、面白いね」
笑顔で結月が言うと、紫苑もほっとしたようだった。無表情ないつもの彼女に戻って「ありがとう」と答えた。
「そういえば、紫苑ちゃんって、いつもみんなのこと名字で呼ぶよね」
「日本人は礼儀を重んじるから、名字にさんづけするのが一番丁寧」
真剣に言うあたりが彼女らしいが、いつまでもそうされるのは少し残念な気がする。
「私が紫苑ちゃんって呼ぶの、迷惑だった?」
「言われるのは嫌いじゃない」
「じゃあ、私も結月って呼んでほしいな」
二度、瞬きをしてから「結月?」と尋ね返した。
「うん。だって、友達だし」
「友達……」
真剣な表情のまま、その顔が赤くなっていく。色白美人が照れて顔を赤くするのが、こんなにも破壊力のある兵器だとは、結月も今まで知らなかった。
「結月さん──で、いいの?」
「うん。ありがとう、紫苑ちゃん」
「どういたしまして」
だが、最後のやり取りの頃にはもういつもの通り、感情を表に出さない紫苑だった。
(可愛いなあ、紫苑ちゃん)
結月もミス鳳雛に選ばれているくらいだから立派に美少女なのだが、こうした造形美の可愛さというのはまた違うものだと思っている。それに紫苑は、一見全く感情がないように見えるのだが、その実こんなに多彩な感情を隠している。それが時折表に出てくると、破壊力抜群の兵器に変わるのだ。
「球技大会、がんばろうね、紫苑ちゃん」
こく、と彼女は一つだけ頷いた。
一方、体育館組は、バドミントン組、バレーボール組との合同練習となった。
町の体育館はバドミントンコートとバレーボールコートがちゃんと別れていて、練習ができるようになっている。土曜日の午後は混んでいるかと思いきや、それほどでもなかった。運がいい。
世宇留はサッカーと掛け持ちになるため、先にサッカーの練習の方にいき、後から合流する形となっている。そうした理由から、伊恩も真夏と一緒にバレーの練習を優先し、二種目組が揃ってからバドミントンの練習をすることになった。
人数が少ないため、バドミントンの来島や冬沢、そして雨宮らもバレーの相手をすることになり、多人数で練習することとなった。もっとも、キーマンである雷斗はバスケットの練習に出ているため欠席となったが。
「真夏さんは、ソフトの方はいいの?」
伊恩が尋ねると、真夏は残念そうな表情で「うーん」と唸った。
「ソフトも今日は主力メンバーがちょっと用事あるから、三時からの練習なんだ」
「じゃあ、バレーの練習がちょうど終わるくらいか」
「そうなの。だから、世宇留くんがバドミントンしてる姿も見られないんだ」
がっくりと肩を落とす。真夏が世宇留に本気なのは周知の事実だ。
「結月は雷斗くんと一緒だから、羨ましいなあ」
「本当だね」
何気なく言った伊恩だったが、それは真夏の次の言葉を呼び込む餌でしかなかった。
「そういう伊恩くんは、浮いた話の一つもないの?」
「僕? 僕は何も」
答えて苦笑する。そう簡単にシエナのことを吹っ切ることはできない。そして、それができなければ自分が誰かを好きになるなんていうことはできないだろう。
「でも、伊恩くんは人気があるから、好きになってくれる子の十人や二十人はいるでしょ」
「まさか」
笑って答える。だが、四月の初めに咲から告白されたこともある。そもそも鳳雛では雷斗と世宇留がダントツの一番人気と二番人気なのだが、伊恩も差のない三番手なのだ。それに伊恩の優しさをもってすればなびかない女性などいるだろうか。本気で口説かれたら真夏だって危ないかもしれない。
「じゃあさ、このクラスの中で、可愛いなとか思う子はいないの?」
随分と真夏は深く追及してくる──そういえば。
(そっか。咲さんと真夏さんは仲がいいんだっけ)
事情を知っていて、探ってきているのかもしれない。
「今のところはね」
──そう、いない。
彼女はここに、いない。
「あ、い、伊恩くん?」
「え?」
真夏を見返す。なぜか、顔がすーすーする。いや、目の周りだけが。
「あ」
泣いていた。
自然と、勝手に、涙が出ていた。
(しまった)
シエナのことを考えていたから、自分の心が勝手に悲鳴をあげていたらしい。
「ごめん。ちょっと疲れたから、顔洗ってくる」
伊恩は顔を見られないようにして体育館を出る。
そのまま水飲み場までくると、蛇口をひねり、手で水をすくう。
勢いよく顔を洗い、タオルで拭き取る。
(まずいなあ。思い出すたびにこれじゃ、先が思いやられる)
ただシエナを想っているだけなのに、周りがそれを許さない。
雷斗や世宇留も、自分には分からないようにしているのだろうが、早くシエナのことから立ち直ってほしいと考えているようだ。
リステルだけが『今のままでいい』と言ってくれた。今の自分を認めてくれたのは彼だけだった。
(思い出かあ。この気持ちが思い出になんて、なるのかな)
タオルに顔を埋めたまま考える。まずい。また涙が出そうになる。
彼女が死んでから、一年半。確かに、このあふれ出る想いを忘れる、思い出にするにはちょうどいい時期なのだろう。だが。
「伊恩くん」
声がかかる。聞きなれた声。
「咲さん」
「大丈夫? 何か、急いで出ていったみたいだったけど……」
それで追いかけてきたということか。逆に今は会いたくなかった。彼女のことを、もっと思い出してしまいそうで。
「いや、大丈夫だよ。ちょっと頭を冷やしてただけ」
「それならいいけど」
所在なさげに立ち往生している。どうやら自分が何か声をかけるか、戻るかしないと彼女も動きようがないみたいだった。
「そういえば、咲さんってバドミントン部だったんだね」
思い出したように言う。正直、咲という人物も名前と顔くらいしか分かっていなかった。バドミントン部に入っていたなんていうことは全く知らなかった。
「うん。バドミントン、面白いから」
「どんなところが?」
尋ねられて咲は考え込む。
「難しいな、その質問」
「そ、そうかな」
「伊恩くんは、どうして花の世話が好きなの?」
「え」
言われて考える。別に理由があるわけではない。ただ、花を世話することに熱中している。世話をすることは好きだし楽しいが、その理由といわれても。
「そっか。好きだからとしか、言いようがないんだ」
伊恩が言うと咲はくすっと笑った。
好きなものに理由はない。ただ、好きだから、としか言いようがない。
伊恩はシエナのことが好きだ。では、シエナのどこが好きなのだろうか。かわいいところやけなげなところはもちろん好きだ。なら、もっとかわいい人、もっとけなげな人に心を動かされるだろうか。違う。
シエナだから好きなのだ。彼女以外のことを考えられるはずがない。
「咲さん」
真剣な表情に変わって、伊恩は相手の顔を見る。
「この間はごめん。突然、逃げ出しちゃって」
「ううん」
「でも、僕に好きな子がいるっていうのは本当だから。だから、ごめん」
「うん」
咲はきょろきょろと周りを見て、誰もいないことを確認すると伊恩に近づいてきて手を取る。
「咲さん」
「伊恩くんの好きな人って、どんな人?」
「どんな、って」
「雷斗くんが前に言ってたの。伊恩くんはもう、その人のことを忘れた方がいいって。何を言ってるのかは分からなかったけど」
「うん」
やはり雷斗は自分がいつまでもシエナのことにこだわってほしくはないようだ。当然といえば当然だ。雷斗はいつでも自分を心配してくれている。
だが忘れられないものを、無理に忘れることはできない。気持ちの整理がついてはいても、自分はまだシエナを忘れることはできないのだ。
「ごめんね」
伊恩はまた涙が流れ出した。
「それを説明すると、認めてしまうようで、怖いんだ」
シエナは、死んだ。
たったそれだけのことを口にするのが、今の自分にはできない。いや、これから先、できるようになるだろうか。一年半も経って、自分はまだ思い出にすることができないでいる。ならば、何年経てば彼女のことを忘れられるのだろうか。
「うん、待ってるね」
咲は手を握ったまま、笑顔で言った。
「咲さん」
「伊恩くんがきちんとその子のことを考えられるようになったら、もう一回私のことも見てほしいな」
「う、うん」
笑顔の咲に思わず顔が赤らむ。
可愛い、と。確かに思った。
「じゃ、顔拭いて。練習、戻ろうか」
「あ、うん」
また泣いていた。まったく、自分はシエナのこととなるとすぐにめそめそする。
だが、まだしばらくはいいだろう。自分以外の誰が、これほどシエナのことを考えるだろうか。もう記憶の中で風化してしまって、みんながどんどん忘れていく中、せめて自分くらいは覚えていないと彼女がかわいそうだ。
手を離して、もう一度水で顔を洗い、タオルで拭き取る。
「行こうか」
そこにあったのは、いつもの伊恩の笑顔だった。
日曜の午後に
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