2009年1月22日(木)。この日から、県内の私立高校は第一回の入試が始まる。
 高校入試のシステムというのは都道府県ごとに異なる。この県の場合、日程は高校ごとに異なり、受験回数も一回とは限らず、何回かに分けて行われる。それもこれも、私学の場合は実際に入学してくれなければ即売り上げにひびくため、少しでも早い段階で生徒を囲い込みたいという希望があるのだろう。
 併願で受験してくる生徒は合格してもほとんどが別の高校へ行ってしまう。だからこそ単願・推薦でどれだけ生徒を確保できるかが問題ということになる。
 逆に言えば、単願で勝負するのであれば、よほど高い学力の高校でなければほぼ合格は可能だということになる。
 新設『さいたま第一』高校は創設時点で関東の大学の多くと提携を結んだ。次の年、三年生が最初の受験となるが、有名私立大学に推薦入学する枠を多く持っている。将来的に有名私立大学を目指す生徒にとっては非常に魅力的な条件だ。したがって、一年目より二年目、二年目より三年目の方が、認知度の高まりにつれて徐々に狭き門になるはずだった。
 十二月の時点で、真央は中学三年までの力は充分についた。自分の教育が中学三年より『少し上』の内容で行っていたため、教科書レベルより上の力がついたものと判断している。
「よし、行くか」
 玄関で靴を履き、部屋から出てきた真央を出迎える。
「うん」
 真央は『制服』を着ていた。県外からの受験であるということで、おもいきって北海道で使われている学校の制服を乃木に取り寄せさせた。少し制服の方が大きいようにも見えるが、あまり気になるほどでもない。
「変か?」
「いや、こうしてみると真っ当な中学生に見えるな」
「そうか。悠斗がそう言ってくれるのなら安心だな」
 にこりともせずに真央が言って、靴を履く。
「全部持ってるな?」
「受験票も筆記用具も弁当も全部持った。問題ない」
「よし」
 そして二人は家を出る。エレベーターを降りて、駐車場へ。エンジンをかけて発進。
(随分、今日は静かだな)
 何かと話しかけてくる真央らしくない。いや、もともとはこんな感じだったか。最近、少しずつ明るくなってきたが。
(ああ)
 何のことはない。
 今日がいよいよ受験ということで緊張しているのか。
(高校受験を受ける魔王というのも前代未聞だな)
 魔王育成ゲームがあったとしても、よもや高校受験をさせるようなことはあるまい。
 目的の『さいたま第一』高校は車でなら十分ほどの距離。目的地にすぐ到着して、いよいよ送り出すときが来た。
「心配するな」
 真央の頭に手をぽんと置く。
「今のお前なら、試験なんか軽く合格できる」
「いや、そうじゃないんだ」
 真央がじっと見つめてくる。
「テストに受かる自信はある。そうじゃなくて、その」
 珍しく言いよどんでいる。こんな真央を見るのは初めてかもしれない。
「悠斗と離れて一人で行動するのが初めてだから、その方が緊張している」
 言われてみれば、今まで自分はずっと真央のことばかり考えて、真央が自分の目の届くところだけで活動させてきた。
「そうか」
 それは自分の失敗だった。
「過保護だったな。少し、お前一人で行動させてみればよかった」
「一応、一人で何でもできるようになったつもりだが、私はとかく一般常識に疎い。万が一のことを考えると、正直不安だ」
「万が一のときは、学校の先生に尋ねるといい」
「そうする。学校の中に悠斗はいないからな」
 そうして真央が扉に手をかける。その彼女を一度止めた。
「ああ、待て」
 そして懐に入れていた封筒を、真央に渡す。
「どうしても不安で、耐えられなくなったらそれを開けてみろ」
「わかった」
「何でもないときに開けるなよ。効果がなくなる」
「わかった」
 それを大切そうにカバンにしまうと、真央は扉を開けた。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
 そのやりとりは、もしかすると初めてだったのかもしれない。
 扉がしまって、真央が校門から中に入っていくのを確認する。完全に姿が見えなくなってから、車を発進させた。
(一人になるのは半年ぶりだな)
 ここまで、ずっと真央が傍にいた。真央のためだけに過ごしてきた半年間。これがあと四年半。
 不思議なことに、嫌になったことは一度もない。一人でいても、真央が一緒にいても、変わらない居心地の良さ。意外なほど、彼女の存在が苦痛にならない。
 そのまま車を運転して、行きつけの喫茶店へ向かう。といっても、もう半年、ここには来ていなかったが。
「いらっしゃいませ……おや、懐かしい」
 店内に人はいない。モーニングが終わった九時半。世間の人々は既に出社して働いている時間なのだろう。
「ブレンド」
「かしこまりました。久しぶりだね、新しい仕事はうまくいってるのかい」
「仕事というか何というか、微妙だな」
 確かに自分は、自分の全ての時間を犠牲にして働いている。だが、働いているという感覚はない。
「結局、アルバイトの話は流れてしまったんだね」
「まあ、今の俺にはそんな余裕はないな」
 毎日真央の面倒で、何も他にすることがない。
「この間、朋絵さんが来てたよ」
 久しぶりに聞いた名前だった。というより、この半年、ほとんど思い出しもしなかった。一度、真央に聞かれたとき意外は。
「懐かしい名前だな」
「お前さんのことを気にしてた」
「そうか」
「あんなに綺麗な子を振るなんて、もったいない」
「振ったのか振られたのか、微妙なところだな」
 形としては朋絵に振られた格好になるのだろうが、それでも原因が自分のせいとなると、それは振ったことになるのかもしれない。それに、朋絵と恋人として付き合うよりも、真央の兄でいることの方がずっと楽しい。
「新しい子は、見つかったのかい?」
「恋人ではないんだが」
「そうか。まあ、お前さんが幸せならそれでいいよ。誰かを泣かせた分だけ、幸せにならなきゃ採算が合わないってもんだ」
 ごゆっくり、とマスターはブレンドを置いて下がる。あまり話したくないという雰囲気を感じ取ってくれたのだろうか。
(もう、一時間目が終了するころか)
 ブレンドを飲みながら時間を確認。全国の受験生の保護者というのはこういう気持ちなのか。
 さいたま第一高校は五科目受験。真央が誕生してからこの半年は、社会的常識と通常の中学三年生の必須知識を埋め込むことがほぼ毎日のように繰り返された。その中でも遊びに連れていったり、社会化見学をしたりと、そうした教育に関することも忘れてはいない。新しいものを見るたびに真央は興味津々といった様子だった。
 高校受験をすることについては本人も強く望むところになっていた。『普通』の学生とはどんなものなのだろうかという疑問、不安。それらを学ぶことによって真央はさらに成長する。
(さて)
 今日の結果がいかなるものであっても、出迎えるのが家族である自分の役目だ。どうやって真央を労わってやろうかと考える。ご馳走というほどのものはできないし、サプライズにすらならないだろう。だが、
(そうだな、別に料理でなくてもサプライズはできるか)
 思い立って、コーヒーを飲み干す。代金を置いて立ち上がった。
「またのお越しを」
「ああ。今度は相手も一緒に連れてくる」
「楽しみにしてるよ」
 マスターに挨拶して外に出る。
(さて)
 東京に出るか、それとも県内ですませるか。真央の終了時間を考えるなら、東京に出たとしてもあまり長い時間をかけることはできないだろう。それなら車で移動できるところに向かう方がいいか。
 高校に合格しなかったら問題になるかもしれないが、まあどのみち使うものだからかまわないだろうと考え、悠斗は車を走らせ、さいたま市北区のショッピングモール、ステラタウンへと向かった。
 雑貨屋が並ぶ中に一軒のサイクルショップ。あまり広くないスペースの中に大量に自転車が並んでいる。これは好みのものを探すだけでも大変な作業になりそうだ。
(一応通学を考えるわけだから、前カゴの方が便利だろうな)
 カゴはやや大きめで、なおかつ全体的におしゃれなものを選ばなければならない。
 その中でようやく気に入ったデザインを一つ見つける。
 前カゴで水色の車体、通学用自転車ブリヂストン・アルベルト27インチ。定価、54,800円。
(高いな)
 だが、幸い金には困っていない。それに、金額に関係なく自分が気に入ったものをプレゼントしたいとも思う。
 というわけでためらうことなく購入を決定。即金で支払い、そのまま車へ運ぶ。
 気に入ってくれるといいのだが、まあ真央に限って嫌がることはないだろうが。
 いや、待て。
(……考えてみれば、あいつ、自転車に乗れるか?)
 まあ、些細な問題だろう。もし乗れなければ練習させるしかない。どのみち自転車がなければ通学が大変なのだから。






 受験の終了時刻ともなると、高校の近辺は車で大混雑となる。終了したら持たせた携帯で連絡を入れることになっている。近くの公園に車を止めて連絡を待つ。
 やがて、着信があった。
「もしもし」
『悠斗か? 終わった』
「お疲れさん。今どこだ?」
『校門のところ。たくさん人がいる』
「そりゃ何百人って受けてるわけだからな」
『どうすればいい?』
「五分待ってろ。迎えに行く」
『わかった』
 車を出て、少し早足で校門へ急ぐ。
 車の渋滞の横を通りすぎ、校門前にはいまだ大量の学生と保護者たち。
(ま、自分もその一人なんだがな)
 ちょうど校門の出口のところに真央はいた。
 だが、一人ではない。
(なんだ?)
 別の女の子が一人。真央よりも背が低い。同じ受験生だろうか。
 真央がこちらに気づいて手を小さく上げる。そしてその女生徒とあいさつをかわしてこちらへ近づいてくる。
「お疲れさん」
「さっきも聞いたけど──うん、やはり一人で知らない人間の中に放り込まれるのは大変だな」
「塾の直前模試を受けたときも大変そうにしてたな、そういえば」
「やっていてよかった。初めてここに連れてこられたとしたら、完全にパニックだった。今日はそうしたこともなく、最後まできちんとできた」
「そいつは重畳。で、さっきの女の子は?」
「私の隣で受験した子だ。高校に入ったら友達になってほしいと言われた」
「ほう、そりゃめでたい」
 掛け値なしにめでたい。真央を高校へ通わせるのは、他の人間ともっと触れ合ってほしいからだ。友人ができるのはこの上なくめでたい。
「名前は聞いたのか?」
「サカイマユコ」
「ちゃんと覚えてるのか。感心感心」
「人の名前をすぐに忘れるほど頭は悪くない」
「いや、能力の問題じゃない。興味関心の問題だ。他の人間なんかどうでもいい、なんて考えられると困るからな」
 なるほど、と真央は頷く。
「悠斗がそう考えるのは自然なことだ。悠斗は私の中に眠る魔王を制するという崇高な目的があるからな」
「別にたいしたことをしているつもりはないけどな。お前と楽しく毎日過ごしてるだけだ」
「悠斗は楽しいか?」
「楽しいね。今日は半年ぶりの半日オフだったわけだが、ほとんどお前のことしか考えてなかった」
 すると真央は少し顔を赤らめる。
「殺し文句だな」
「この程度で殺されるな」
「悠斗は知らないうちに女の人をその気にさせるところがある。気をつけた方がいい。それに、私も女なんだからな」
 残念なことに、真央にたいしてはまるで女というものを感じない。もちろん年齢のこともある。だが、それ以上に真央は『別人』という感覚がしない。一緒にいても気のかからない、もう一人の自分のような存在。
(相手にのめりこんでいるのは俺の方だな)
 自嘲する。だが、真央のことならそれもいいと思える。
「それで、今日はこれからどうする?」
「受験も終わったことだし、合格の前祝いでもしよう」
「気が早いな」
「どうせ一週間もしないうちに結果は分かる」
 そして自分は真央の合格を疑っていない。このレベルで不合格になるような鍛え方はしていない。
「悠斗」
 真央は足を止めて、三歩後ろから声をかけた。
「どうした?」
「ありがとう」
 それは、素直な感謝の言葉。
 何に対して言ったものかは分からない。だが、彼女がそう言いたくなったのだとしたら、それは自分の行動が相手を喜ばせたということなのだろう。
「どういたしまして。でも、あまり気にするな。保護者ってのは被保護者を一番に考えるのが当たり前のことなんだからな」
「それは義務感ではないな?」
「義務にしないとやらない親がいるのも現実だ。でも、俺は俺がやりたいようにやっているだけだ。お前はそれに甘えてのっかってればいい」
「なるほど。遠慮はないということか」
 真央は笑って近づく。
「手をつないでも?」
「ああ」
 触れた手は冷たくなっていた。ずいぶん外で待たせてしまったのだろうか。
「学校が始まったら、あまり悠斗とたくさんいられなくなるな」
「お前は今に、俺と一緒にいるより学校の方が楽しくなるよ。毎日学校に行くのが楽しみになる」
「学校に行くのは楽しみだ。でも、悠斗がいない」
「そりゃいたらびっくりだ」
「だから私は、毎日学校を行くのを楽しみにできるし、帰ってきて悠斗に会うことができるのも楽しみにできる。幸せ者だな」
 言うようになった。隣で小悪魔のように笑う彼女に、自分も微笑みかけた。






【6】







「悠斗は鬼だ。悪魔だ。私が今まで一度でも自転車に乗ったことがあるとでも思ったかこの人でなし」
「それは笑顔で言う台詞ではないと思うぞ」









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