「隠してたのか、悠斗」
「サプライズがあった方が面白いと思ってな」
【11−A】
四月。真央は無事に高校二年生になった。
PCに入力している真央の記録は膨大な量になっている。いつかこれらをすべて読み返したりする日が来るのだろうか。そうなるとしたら、やはり彼女がいなくなった後のことなのか。
量が増えるほどに自分が真央をどれだけ大切に思ってきたのかが分かる。日記というのは自分で読み返すためにつけるもの。つまり、これらの記録はいずれ自分が必要とするからこそつけているものなのだ。
今朝も元気に真央は自転車に乗って学校へと向かった。
(さて)
この一年間続けてきた日課に取り掛かることにした。
真央がいてはできないこと、そして真央がいないうちにしておかなければならないこと。
まずは着替えだ。いつものように動きやすい服装になる。次に玄関でランニングシューズを履く。これで準備完了。
真央が出かけてから最初の一時間はランニング。それが真央が学校に通い始めてからの日課だった。
一日中家の中にいては当然ながら体がなまる。運動をしなければ自分の体はなまってしまってどうにもならないだろう。
都会は空気が綺麗ではないが、それでも東京都内に比べればまだマシな方だ。
いつものランニングコースを、決まった時間に走る。
このときだけが、何も考えない時間。真央のことや他のいろいろなことを何も考えないでいられる時間だった。
そうして三十分ほど走って、公園の横を通り過ぎるところだった。
何の偶然だろうか。
そこを通りがかった際にどこかで見た顔がそこにあった。
「……」
女だ。それも、美形だ。
なかなか誰かということが思い出せなかった。それは相手も同じらしく、こちらをじっと見つめている。
「どこかで、お会いしましたよね」
相手の方から尋ねてきた。
「ええ。自分もそう思っていたところです」
足を止めて相手の言葉に合わせる。さて、いったいどこで出会っただろうか。
「失礼ですが、お名前は」
「ああ、失礼。天野悠斗といいます」
「天野悠斗さん……」
女性はかみしめるように呟く。
「ああ、思い出しました」
女性はにこりと笑う。
「多和平でお会いしたんですわ」
「多和平……ああ、北海道の」
思い出してきた。確かに、そこで出会った記憶がある。
「たしか、藤代みやこさん」
「よく覚えてらっしゃいましたね」
「真央が、たまにあなたのことを口にする。多和平で出会った女性にもう一度会いたい、と」
「そうだったわね。真央ちゃん、元気にしてます?」
「ええ。今日も元気に学校へ行きました」
「そう」
みやこは微笑んで手提げのカバンから財布を取り出す。
「これ」
渡されたのは名刺だった。見るとみやこの名前と有名な企業の名前が一緒に書いてある。
「大企業の社員だったんですか。恐れ入ります」
「で、営業であちこち出歩いているっていうわけ」
「訪問販売ですか? あまりうまくはいかないと聞いていますが」
「まあ。それでも私、成績はいい方なのよ」
みやこが微笑む。
「久しぶりに真央ちゃんに会いたいわね」
「真央も会いたがっていましたよ。もしよければ夕方にでもどこかで待ち合わせましょうか」
「そうね。夕方じゃちょっと早いかな。夜七時くらいなら。ディナーでも一緒にしましょう」
「分かりました。ご希望はありますか」
「そうね」
みやこは少し考えてから、
「岩槻の方に美味しいイタリアレストランの店があるの。そこでどうかしら」
「分かりました。岩槻の方だと──」
「大宮から東部野田線に乗り換え。岩槻駅の出口で待ち合わせましょう。予約は私の方でとっておくわ」
「ありがとうございます」
「どういたしまして。私もね、ずっと気になっていたのよ。あのときの女の子はどうしているのかなって。それから、無愛想なお兄さんのことも」
くす、とみやこは笑う。
「少し、表情が柔らかくなったみたいね。この一年半の間に、どんな変化があったのかしら?」
「特別何もあったわけではないと思いますが」
「そうかしら? 大好きなお兄さんと一緒に暮らしていて、それで本当に何もなかったのかしら?」
たった一度しか会ったことがないはずなのに、自分たちのことをさも分かっているかのように話す。
「まあ、私も仕事中だし、後でゆっくりと話しましょう。それじゃ、七時に」
そう言ってみやこが立ち去っていく。なかなか苦手な感じのする相手だな、とこのときはそのくらいにしか思わなかった。
真央が帰ってきたのが午後五時半。先にメールで連絡をしておいたので時間までに帰ってこられた。
「珍しいな、悠斗。今日はどういう風の吹き回しだ?」
「いろいろあってな。お前に会わせたい人がいる」
「私に?」
自分が誰かを紹介することなど今までに一度もなかった。だから真央も驚いている。
「すぐに準備をしろ。出かけるぞ」
「分かった」
一方、自分の方はといえばとっくに準備はできている。真央と違って一日中家にいるだけなのだから当然といえば当然だが。
「すまない、待たせた」
真央はグリーンを基調としたストライプとズボンで身支度を整えた。なかなか似合っている。
「境さんと木ノ下さんに感謝だな」
「悠斗と買い物に行ったら私にピンクしか着せようとしない。女の子ならピンクというのは偏見はなはだしい」
「気をつける」
確かにそういう意識があったのは確かだ。はじめのころはそんな色の服しか買っていなかったが、高校で友人たちと服を買うようになってから真央の私服はバリエーションに富むようになった。
「それで、どこへ行くんだ?」
「岩槻だ」
言われた通りに交通機関で移動する。そうして岩槻駅に到着したのは午後六時四五分。まだ十五分前だったが。
「あら、早かったわね」
相手の女性は既にもう到着していた。
「え」
その顔を見て、真央が驚いている。
「嘘、まさか、みやこ、さん?」
「覚えててくれたのね。っていうか、お兄さんから私のことは教えてくれなかったの?」
みやこの言葉に真央が睨んでくる。
「隠してたのか、悠斗」
「サプライズがあった方が面白いと思ってな」
「あら、薄情なお兄さんね。とにかく久しぶり。元気だった?」
「はい。みやこさんもお元気そうで良かったです」
「ありがとう。真央ちゃんは少し大きくなったかしら?」
「身長は少し伸びたみたいです」
「胸も少し大きくなったみたいね」
くすくす、と笑いながらみやこは言う。
「どんどんいい女になっていくわね」
「そんなこと」
「好きな男性をいつでも振り向かせられるように、いつでも女は磨いておかないと駄目よ」
「はい」
不思議な姉妹会話だった。あえて会話には入らないようにして様子を見守る。
「それじゃあ移動しましょうか。美味しいイタリアンの店を紹介するわ」
「ありがとうございます」
そうして二人が歩き出し、自分もそれについていく。
「みやこさんはどうしてこちらに?」
「仕事が東京だから」
当然、都内より埼玉の方が家賃は安い。通勤時間がそれほど変わらないのなら埼玉に住んだ方が断然得だ。
「北海道の方じゃなかったんですね」
「あそこは単に思い出の場所っていうだけよ」
笑顔でみやこが言う。
「今日、偶然お兄さんに会ったから、真央ちゃんどうしてるのかって聞いて、それで今日は食事に行こうっていうことになったのよ」
「ふうん」
真央がそう頷いて自分の方を見る。
「今日はどこに行ってたんだ?」
「いつもの日課だ。ランニングしている間に出会った」
「なるほど。すごい偶然だな」
真央が納得したように頷く。
「ここよ」
そう言ってみやこが到着した店の中に入っていく。なかなか洒落た雰囲気だった。
「食べたいものある?」
いくつか確認をとって、ピザにパスタ、カルパッチョなど適当に頼む。
「お兄さん、お酒は?」
「いや、結構」
「そう。じゃあ私もソフトドリンクで付き合おうかしら」
注文をすませ、ドリンクが運ばれてくるとまずは再会を祝して乾杯をする。
「まさか北海道で出会った二人にこんなところで会えるとは思ってもみなかったけど」
「私もです。あの頃はまだ、あまり人慣れしてなかった頃だったから、みやこさんのことはそれからもすごい気になってたんですけど」
「あら、嬉しい。でも、人慣れって、何かあまり使わない言葉ね」
「私、病気で義務教育ほとんど受けてませんから」
「そうなの? でも高校生だったわよね」
「はい。中学卒業の資格は持ってるので、あとは悠斗に勉強を教えてもらいました」
「そう。大変だったわね」
それほどでも、と真央は謙遜して答える。確かに勉強だけなら真央はいくらでもできるが、この場合は『義務教育をほとんど受けられなかった』ことに対する気遣いだったのだろう。
それからしばらくはお互いのことを話し合うような感じだったのだが、食事も半ばにさしかかったところでみやこが尋ねてきた。
「そういえば、今年のゴールデンウィークはどうするの?」
「決めてません。旅行には行きたいと思ってるんですけど。ETC車は高速道路千円ですから、その圏内で」
そんな渋滞に巻き込まれるようなことは自分としては面倒だったのだが、真央は『それも連休旅行の醍醐味』と言ってきかないのだ。
「北海道は? また行こうとか思わないの?」
「以前も行きましたし」
「でも、他にこれという場所もないのよね。それなら北海道に行くのもいいんじゃなくて?」
うーん、と真央が考え込む。五年という短い時間の中で、同じところに何度も行くのはもったいないような気がしてならない。だが、
「思い出の場所っていうのは、何回行ってもいいものよ」
「みやこさんにとっては多和平ですか?」
「多和平もそう。でも他にも思い出の場所もあれば、行きたい場所も多いわ。私はそれが北海道だったというだけ。真央ちゃんはどう?」
少し真央は考えてから答える。
「悠斗との大事な旅の思い出の詰まった場所です。行けるなら行きたいです」
「それなら、私も一緒に回らせてもらえるかしら?」
みやこは真央と自分を見比べて言う。
「一緒に?」
「ええ。私、真央ちゃんのことが気に入ったのよ。私も一人で北海道旅行の予定だったんだけど、誰か一緒にいた方が旅は楽しいし」
「どうする、悠斗?」
真央が尋ねてくる。というより、これは明らかに、
「行きたいか?」
「私は行きたい。悠斗はどうだ?」
「異存はない」
「決まりね」
みやこは嬉しそうに笑う。
「それじゃ、五月一日に女満別空港か中標津空港に到着する飛行機に乗ってきて。そこまで迎えに行くわ。あと、帰りは旭川空港から」
「迎えに?」
「私、四月二九日から北海道入りしてるもの。二日先に行ってるのよ」
「なるほど」
「だが、今からとなると宿の手配がな」
「そうね、確かに難しいかもしれないけど、取れるところは取れるものよ。飛行機さえ手続きしてくれれば、私の方で宿の手配してあげるわ」
「一、二度しか会ったことのない相手に、普通そこまでするものか?」
「ええ。私、真央ちゃんが気に入ったもの。それに、お兄さんも」
くす、とみやこは綺麗に笑う。
「是非ご一緒させてほしいと思うわ。真央ちゃんはどう?」
「私もみやこさんが好きだ。もしよければ一緒に行きたい」
ここまで真央がこだわるのも珍しいことだった。
「分かった。他人のプランで行動してみるのも面白いだろう」
「ありがとう、悠斗」
「お前が行きたいのなら、それが一番だ」
真央が嬉しそうに笑う。それを見ていたみやこがやはりくすくすと笑った。
「やっぱり真央ちゃんは、お兄さんと一緒のときが一番輝くみたいね」
真央は赤面した。
【B】
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