女子高生、思い立ってアルバイトを始める

「お父さん、私、アルバイトがしたい」
 と、高校二年生生になった佐々木千穂は一世一代のお願いと決めて父親に話しかけた。
 今日、学校帰りに立ち寄ったマグロナルド幡ヶ谷店で、かわいらしいアルバイト募集の張り紙を見つけた。アルバイトについて真剣に考えていた千穂は、買ってもらったばかりの携帯ですぐに撮影していた。それを父親に見せる。
 遊びのためにお金がほしい、といえばそれまでなのだが、十六にもなって自分の使うお金くらい自分で稼ぎたいという気持ちがあったことが何より強い。
「なるほど。労働は確かに大事だ。世の中のことがわかるようになる」
 警察官の父親は威厳をもった様子でうなずく。
「だが、勉強はどうするつもりだ。学生の本分は勉強だろう。大学に行くのなら、時間は疎かにはできないはずだ」
「それはきちんとやる。アルバイトは週に二回。部活動も続けながらきちんとやる。もし成績が悪かったらアルバイトはやめる」
「簡単にやめるようでは、店の方にも迷惑がかかるだろう」
 父親が眉間にしわを寄せる。
「始めると決めた以上は、どんなに辛くても、苦しくても、一年以上はきちんと勤め上げなさい。店の人たちがお前にかける時間と労力を、ほんの一、二か月で棒に振るようなことをしてはいけない。こういうところのシフトは月ごとで変わるのだろうが、それでも季節の変わり目になれば新しいアルバイトも入ってくる。それまでにやめられると店が困ってしまう。多少成績が下がったとしても、それはお前の責任で解決しなければいけないよ。仕事に対しては、きちんと責任をもってやりなさい」
「じゃあ、いいの?」
「止める理由はない。お前がやりたいようにやりなさい」
「ありがとう、お父さん! やった!」
 嬉しそうに千穂は胸の前で両手を握った。
「最初のお給料で、お父さんにプレゼントするからね!」
「自分の稼いだお金だ。最初は自分のために使いなさい」
「自分のためだよ。お父さんへの感謝の気持ちを表したいんだもん」
「お前がそうしたいというのならかまわないけれど、無理をしてはいけないよ」
「うん、ありがとう、お父さん」
 こうして、佐々木千穂は無事に父親からアルバイトの承諾を受けた。
 翌日にはアルバイトの許可届けを学校に提出。【自由な校風】を謳う学校は、アルバイトに対して校則で禁止するようなことはしていない。ただし、職種や時間などは学校側に連絡をしておかなければならない。
 即日アルバイトの許可が下りた千穂は、早速その日のうちに昨日の店にやってきた。こういうことは後回しにしていても仕方がない。やると決めたその日にすぐ決めてしまう。自分の熱が高いうちにすべてを終わらせるのが一番なのだ。
 マグロナルドの店内に入ると、二十歳くらいの男性が「いらっしゃいませ!」と気持ちのいい笑顔でカウンターの向こうから声をかけてくる。
「何にいたしますか?」
「あ、いえ、違うんです。アルバイト募集の張り紙を見まして」
「アルバイトのお申込みですか? ありがとうございます」
 両手を体の前でそろえて、三十度の礼をする。それが大変サマになっていて恰好いい。
「ご連絡はいただいておりましたか?」
「あ、いいえ。張り紙を見てきたので、連絡とかは」
「分かりました。店長の木崎に聞いてまいりますので、店内でお待ちください」
 男性は別のスタッフに「カウンター、お願いします!」と元気よく話しかけると、中の方へ入っていった。
(格好いい人だなあ)
 辛くて大変じゃないんだろうかと思っていたのだが、あんなに恰好いい人がいるのなら、アルバイトもすごく楽しいのかもしれない。
 よく見ると、店内の清掃がとてもいきとどいているのに気づく。隅の方まできちんとモップがかけられている。装飾も工夫をこらしていて、商品の説明がイラスト入りで説明されているのも見ていて楽しい。マグロナルドでこんなふうに工夫されている店が他にあっただろうか。
「お客様、よろしいでしょうか」
 声をかけられるまで、先ほどの男性がやってきていたことに気付かなかった。
「あ、はい! すみません!」
「いいえ。何か面白いものでもございましたか?」
「あ、はい。このイラストかわいいなって思って」
 それは新製品の『マグロバーガー』だった。『マグロくん』と『レタスさん』のふたりが説明をしているのが面白くてかわいい。
「それ、作ったの自分なんです」
「そうなんですか! すごいですね。私、こういうのってぜんぜん才能なくて」
「自分も見よう見まねでやっただけですけど、こうしてお客様が喜んでくれたらうれしいです」
 そう言ってから、どうぞ、と案内される。厨房のさらに奥に普通のスタッフルームがあった。そこに抜群のプロポーションを誇る女性が立っていた。
「アルバイトの募集で来てくれたんだってね。店長の木崎よ。そこ、座って」
 店長の前に置かれている椅子に腰かける。
「履歴書ある?」
「はい」
 用意していた履歴書を提出する。
「ん。アルバイト経験はなしか」
「はい。経験者じゃなくてもと書いてあったので」
「もちろん歓迎だけど、長く続けられるかどうか、判断が難しいからね」
「それは父親からも言われています。最低でも一年は勤め上げなさいって」
「へえ」
 店長は少し上ずった声を出した。
「珍しいね。そんなふうに言ってくれる父親なんて」
「はい。尊敬してます」
 なるほどね、と店長はうなずく。
「どうしてこの店を?」
「昨日、店内でアルバイト募集の張り紙を見てきました」
「ああ、真奥くんの作ったやつね」
「魔王?」
 この人はいったい何を言っているのだろう、と混乱する。
「ああ、変わった名前だよね。真実に奥って書いて『まおう』っていう名前なんだって。さっき君を連れてきてくれた男の子。あだ名は『まーくん』で、うちのクルーの中で一番頼れる子」
 真奥さんっていうんだ。変わった名前だけど、素敵な人だったな。
「シフトの希望ってある?」
「週二回でお父さんと約束しているので、平日の夕方をお願いしたいです。何曜日でも大丈夫です」
「部活とかはしてないの?」
「してますけど、そんなに厳しい部活じゃないので大丈夫です」
「平日夕方は混むよ。大丈夫?」
「はい。がんばります」
「ん」
 店長はうなずいて「わかった」と言う。
「今日か明日中には連絡いくから、よろしくね」
「はい。よろしくお願いいたします」
 そうして部屋を出ると、先ほどのクルーの人が待っていた。
「お疲れ様でした」
「あ、いいえ。ありがとうございます」
「一緒に働けるのを楽しみにしています」
 その笑顔に、胸がしめつけられた。
「いいえ。こちらこそ、楽しみにしています、真奥さん」
「あれ?」
 男性は首をかしげた。
「自分、自己紹介しましたっけ」
「いいえ。店長さんが言ってました。一番頼れるって」
「そうでしたか。光栄です」
 男性は嬉しそうというよりはむしろ、驚いているという表情だった。
「私、この職場で働きたいです。よろしくお願いします。あ、遅れましたけど、私、佐々木千穂といいます」
「じゃあ改めて自分も。真奥貞夫です。変な名前だっていつも言われてます。よろしくお願いします」
 包容力のある男性だった。頼れるし、誠実そうな人だった。
 たった一日で。
 こんなに、自分の心が動いてしまうなんて。
「はい。よろしくお願いします!」
 そうして見送られて自宅に帰ると、すぐにマグロナルドから連絡があった。採用決定。明日からすぐに来てほしいということだった。
「やったっ!」
 これで働ける。
 お金を稼ぐことができるのも嬉しいが、何より、あの素敵な人と一緒にいられるのがうれしい。もっともっとあの人のことが知りたい。
 おかしなものだ。自分はこんなにも夢見る乙女だっただろうか。だが、別にそれでもいい。あんなに素敵な人がいるのだから、少しくらいは夢を見てもバチは当たらないだろう。
「決まったのかい」
 非番の父親がやってきて尋ねる。
「うん。ありがとう、お父さん」
「仕事はそんなに甘くないぞ。しっかりやりなさい」
「うん。がんばる」
 それだけを言って父親は部屋に引き上げていった。ふう、と息をつく。
 早く明日になればいい。
 そうすれば、またあの人に会えるのかもしれないのだから。
「……真奥さんのシフト、どうなってるのかな」
 同じシフトになれればいいけど、そう簡単ではないだろう。だが、この先一緒に働いていれば、何度も会う機会は出てくるはずだ。
 そうして感情が高ぶったままだったので、その日は寝付けなくて睡眠不足。次の日、眠い目をこすりながら授業を受けて、全部終わるとまっすぐにマグロナルドへ直行。
「アルバイトで採用になりました、佐々木千穂です」
 カウンターが空いたところを見てクルーに話しかける。奥へどうぞ、と一言だけかけられた。昨日の真奥さんとは対応がまったく違う。
(店長さんが頼れる人だって言ってたのがわかるなあ)
 誰にも気を配り、親切で優しく、仕事もできる。頼るのも当然だろう。
「失礼します」
「ああ、佐々木くんね。これからよろしく」
「はい、よろしくお願いします」
「じゃ、契約書書いてもらうから」
 労働契約書にいくつか記入して手続きは終了。間違いないことを店長が確認して、うん、とうなずく。
「オーケイだ。じゃ、佐々木くんは千穂っていう名前だからあだ名はちーちゃんで決まりだな」
 拒否権はないのだろうか。ないのだろう。
「じゃ、ちょっと待っててくれ。研修担当を連れてくるから」
 そう言って店長は部屋を出ていく。だれが担当なんだろう、というより、真奥さんは担当なんだろうか、と淡い期待を抱く。
 もちろんそんな希望は通るはずもなく、やってきたのは女性クルーだった。
「こっち、女性クルーリーダーの三浦くん。ありさという名前なので、あだ名は『あーたん』だ」
「三浦です。よろしく」
 少し残念そうな表情なのは気のせいではないだろう。
「はい。よろしくお願いします」
「早速だけと三浦くんから詳しい話は聞いてくれるかな。じゃ、三浦くん、よろしく」
「はい、木崎さん。それじゃ、佐々木さん。こちらへ」
「はい」
 なんだか淡々と話が進んでいくが、いったいどうなるのだろう。
「こっちが女子更衣室だから、ここで着替えてもらうわ」
「はい」
「店内のことはおいおい説明していくけれど、まずは制服に着替えてもらうわ。身長は一六〇弱ってところかしら」
「はい」
「それじゃ制服はこれでいいかしら」
 新品の制服が一着出される。着替えろ、ということらしい。
「ロッカーはここを使って。ないとは思うけど、盗難とかは責任もてないから、ちゃんと鍵をかけるのよ」
「わかりました。女性クルーって何人くらいいるんですか?」
「今は十一人ね。正直人手が足りないの。あなたが来てくれて助かるわ」
「そんなこと」
「すぐに仕事を覚えて出てもらうことになると思うから、心しておいてね。研修期間は一か月くらいだと思っていて」
「は、はい」
 着替え終わった自分に、はい、と何か手渡された。
「なんですか、これ」
「サンバイザー。頭につけて。佐々木さんにはカウンターをやってもらうことになるから」
「はい」
「準備できたわね。それじゃあ」
 と、次に渡されたのはマニュアル。けっこうな厚さがある。
「最初に説明を一気にやっちゃうから。大変だけど早く覚えてね」
 それからえんえん一時間、スタッフルームで社員としての心構えやら、基本行動などを知識として叩き込まれる。学校の勉強より実践的で難しいが、必要性が段違いに異なる。
「それじゃ、五分休憩したら今度はあいさつとお礼の練習をしてもらうから。それじゃあ少し休憩していて」
 と、放り出される。たった一時間だったが、いきなり疲れた。働く前にやることがあまりにも多かった。なるほど、働くといってもいきなりできるものではなく、その前に準備が必要なのだということがよくわかった。
 五分経ったが、三浦さんは戻ってこなかった。どうしたんだろう、と思っているとやがて扉が開く。
「こんにちは、佐々木さん」
 入ってきたのは、真奥さんだった。
「あ、真奥さん! こんにちは、です」
「うん。今日からよろしく。一緒に働けるようになったね」
 昨日と違って、丁寧な言葉づかいではなくくだけた口調だった。昨日はあくまでまだ『お客様』だったのが、今日からは『仲間』になったということなのだろう。
「はい。嬉しいです。ありがとうございます」
「うん。それで、俺が佐々木さんの研修担当になったから」
「え?」
 嘘。
「まずはあいさつと基本行動からね。大変だけどがんばっていこうか」
 まさか。
 自分が願っていたことが、こんなに簡単にかなうなんて。
「もしもし? 佐々木さん?」
 声をかけられて我に帰る。
「は、はい! がんばります! やったっ!」
 思わず、声に出してしまっていた。






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