古代オリエント




 何故響が私にこの『天は赤い河のほとり』という少女マンガを渡したのか、読んでいくうちになんとなく分かってきた。
 主人公は現代日本の女子中学生(1巻当時)なのだが、ある事情で古代のヒッタイト王国へと招かれることになる。そしてその中で、ツタンカーメン時代のエジプトと多少関連していたのだ。

(でも、漫画……よね)

 この漫画ではどこまで真実が語られているのか、少なくとも今の私に確かめる術はない。
 とにかく、この漫画から第18王朝期のエジプトをまとめると、こういうことになるらしい。
 ツタンカーメンは前王アメンホテプ4世の娘であるアンケセナーメと結婚し、王位についた。父母は不明であり、死没した時まだ18歳程という早逝のファラオだった。
 アンケセナーメは、漫画によると、その後ヒッタイトから自分の夫=新たなファラオを招こうとしたが、ヒッタイト側の謀略によって失敗。その後アイという老人と強引に婚姻させられ、このアイがファラオとなる。
 その後、エジプトでは軍事革命が起こり、第18王朝は途絶える。新たに王となったのは将軍のホレムヘブ。
 そして現在その部下として働いているのが、ラムセスである、というのだ。

(本当かなあ)

 あくまでも漫画という先入観から由紀は離れられなかった。だが、響がわざわざ自分に読ませた以上は、この漫画の中にかなりの程度真実が含まれていて、ついでに言うなら今回の秘宝に関連する秘密が隠されている、とみていいだろう。無意味に漫画を読ませるくらいなら、学術論文でも読ませるのが響のやり方だ。それをまげてまでこの本を読ませたというところには、何らかの意味があるとみて間違いない。
 この漫画を読み、エジプト関連についてもう1つ気になることがある。ネフェルティティというアメンホテプ4世の王妃についてだ。
 漫画ではもともとミタンニの王女で、アメンホテプ3世の妻として謙譲された。その後アメンホテプ4世の妻となり、王妃の地位を確立した。
 王の死後もアンケセナーメの後見人となって、エジプトを影で支配した。
 最終的にはラムセスの軍事クーデタによって捕らえられて流刑となる。

(ネフェルティティの、胸像……)

 もっとも気になるのはそこだ。
 実際に残っているこの胸像、左目がない。何故ないのかというのは学説で幾通りも説が流れているらしいが、理由が書き記された文書でも出てこない限りは永遠に未解決のままだろう。
 ネフェルティティの胸像の右目は黒硝子で出来ているらしい。

(どうして、片目がないんだろう)

 単純なその疑問は、過去幾人もの学者が、時にはその人物の学者生命をかけてまで研究されたものである。
 そして、もう一つの疑問。

(今回のメール、いったいどういう秘宝について書かれたものなんだろう)

 結局それはまだ響から教えてもらっていない。前回も途中まで何も教えてはもらえなかった。ただひたすら聖書と歴史の勉強をさせられていた。
 今回もそうなるのだろうか。
 だとしたら勉強させられるのは、古代エジプト史ということだろうか。
 それに問題はまだある。
 響が気にしている“呪い”とはいったい何を意味しているのか。
 久しぶりに、私も興奮して眠ることができなさそうだった。



「さて、何から話をしようか」

 私の机の上には100枚以上の資料の山。
 きっと、私に一から教えるために昨日のうちに準備しておいたに違いない。

「先生、よろしくお願いします」

「あいよ。じゃあまずは、漫画を読んだ感想から聞かせてもらおうかな」

「はい」

 私は頷いて答える。

「立場が反対だと思います」

「立場?」

「はい。普通、少女漫画なら主人公の恋人の方が苦境に立たされていて、ライバルは権力を持っているということの方が多いのに、この漫画だと主人公の恋人はヒッタイト国王なのに、ライバルはエジプトの1将軍にすぎません。ですから、立場が反対だと」

 たっぷり10秒は間があった。
 ようやく解凍された響は頭をかいて私を睨みつける。

「おーまーえーにー、聞きたかったのがそんなことだとお前は本気で思ってるのか?」

 響が右手で私の頭をがっしりと掴んで締め付ける。

「響っ、痛いですっ!」

「だったらもっとマシなこと言ってみろ。お前の頭は幼児レベルか」

「響の質問の仕方に問題がありますっ」

「ようし、ならお前が漫画を読んで気になった点を言え」

 響の手が頭から離れる。ものすごい握力で締められた私の頭は手が離れてからもまだ痛みが残っていた。
 見た目は華奢……というほどでもないが、そんなに筋肉質というわけではない。それなのにいったいどうしてこんなに力があるのだろう。

「気になった点は2つあります。まず、物語全般にいえることなんですが、どこまでが事実でどこからが物語かということが分からない点です」

「ふむ。先に事実と物語とを区別しておいた方がよさそうだな」

 響は頷くと、ペンを持ってホワイトボードに向かった。

「じゃあ先に、ヒッタイトの方から整理しておこうか」

 B.C.1370〜1336 シュピルリウマ1世
     1336〜1335 アルヌワンダ2世
     1335〜1315 ムルシリ2世

 そう書いてから、響ははっきりと言った。

「全部実在の人物」

「はあ」

 ある意味驚きだが、ある意味では納得がいく。
 実在の歴史に従わなければ、物語としては成り立ってもその後の歴史にひずみが生じる。それでもいい、と言うこともできなくはないが。

「では、ミタンニの方はどうなんですか?」
 ミタンニとは、B.C.15世紀から勃興した民族系統不明のフルリ人の国である。このミタンニ王国が滅亡した原因は不明。だがその時代は14世紀であり、この3人の国王が治めていた時代に滅びているのは間違いのないことである。

「ミタンニまで行くとな、やはり問題はある。最終的にはシャティワザ──漫画ではマッティワザだったか。このマッティワザとシュピルリウマ1世とで結ばれた『宗主権条約』についての文書がヒッタイト王国の首都ボアズキョイで見つかっている」

「そうしゅけん条約……?」

 私が分からないという顔をしていると、響はあからさまに『無知』と言いたそうに顔を歪める。

「申し訳ありませんね、無知で」

「何も言ってないぞ。被害妄想じゃないのか?」

 そうからかってから、響は説明を始めた。つまり、ヒッタイト王シュピルリウマ1世が自分の娘をマッティワザに嫁がせ、ヒッタイトの庇護を受けてミタンニの存続を認める──要するにそういう内容らしい。
 その後、ミタンニがどうなったかは資料がないために分かっていないが、事実上ムルシリ2世の時代には滅亡していた。

「では問題の、エジプトはどうなっていたんですか?」

 すると響はエジプト国王の名前を書き出していった。

 B.C.          アメンヘテプ3世
     1364〜1347 アメンヘテプ4世
     1347〜1338 ツタンカーメン
     1338〜1334 アイ
     1334〜1306 ホレムヘブ
     1306〜1304 ラムセス1世(第19王朝始祖)

「ま、こんな感じだな」

 問題となるツタンカーメン王は、ヒッタイトでいえばちょうどシュピルリウマ1世の晩年の時代にエジプトを治めていた王ということになる。

「一つ、うかがいたいのですが」

「なんだ?」

「ツタンカーメン王の王妃アンケセナーメが、王の死後自分の夫としてヒッタイトからザナンザ王子を迎えようとした話がありましたけど」

「ああ、その話か。史実だぞ」

 私はさすがに驚いていた。そこまであの漫画は歴史に忠実に書かれていたのか、と。

「エジプトに向かう途中で王子が殺されたことまで実話だ。だから史実を知ってるやつなら、ザナンザ王子が婿としてエジプトに行くことが決まった時、もう死ぬことが分かってたはずだ」

「……では、いったいどこからが物語ということになるんですか?」

「時間だな。これは間違いない。あの漫画は時間をかなり短縮している」

 例えば老王アイの治世が本来ならば4年はあるところ、漫画ではわずかに1年から2年しかない。その点がまず1つだと言う。

「……もう1つは?」

「主人公がエジプトに行って、ラムセスの妻になろうかっていう話があっただろ。あの時に名乗った名前がネフェルタリ。あれがよくない」

「よくないって」

「あれはラムセス2世の妻の名前だ」

「……?」

「つまり、作者はわざとラムセス1世と2世を同一人物として描こうとしている」

「何のために?」

「さあ。だがもしかしたら、カディシュの戦いを時代を変えてやるっていう手はあるだろうな」

 カディシュの戦い。
 紀元前1286年ごろ、オリエントの覇権をめぐってヒッタイトとエジプトとが激突した、古代オリエントにおける最大の戦いである。
 時に、ヒッタイト王はムルシリ2世の息子、ムワタリ2世。
 一方のエジプト王は『大帝』の異名を持つラムセス2世であった。
 この戦いの決着は、双方が『勝利』と吹聴して回っているため、おそらくは痛み分けであったのではないかと言われている。

「ムルシリ2世とラムセス1世とで……?」

「歴史を知らないやつなら、それでも別にかまわないだろ? まあ、いくらなんでもカディシュをやるまでにはあと何十年ってあるからな。さすがにやるかどうかは分からないが。それに漫画では結局ラムセス1世と主人公ネフェルタリとは結婚していない。同一人物と断定することもできないしな」

 響はそうしめくくってから「まあ、とにかく」と続ける。

「事実と物語の違いっていう点では、時間のズレ、ラムセス1世と2世の同一化。まあミタンニは仕方ないとして、大きな問題はこれくらいだ」

「……だいたい、理解しました」

「ああ、それでいい。で、もう1つ気になったことってのは何なんだ?」

「あ、はい。ネフェルティティ王太后の、片目の胸像です」

 響の顔がぱっと明るくなる。分かりやすい人だ。自分が伝えたいことが伝わると、とたんに機嫌がよくなる。

「どうしてそれが気になったんだ? 少し詳しく説明してくれないか」

 どうしてと言われても、そんなに大層な理由があるわけではない。何と答えたものか、さすがに返事に詰まった。

「何故左目がないのか──あれは、あの作者なりの回答なんでしょうね」

「そうだろうな」

「もちろん、あんな物語が実際にあるはずもないでしょうし、だとしたらいったい何故、あの片目が入らなかったのか、気になります」

「なるほどな」

 ふむ、と響は頷いた。

「……何か、あるのですか?」

 私は、慎重に尋ねた。
 響がこれほど気にしているもの。それが秘宝に関係していないはずがない。

「……まあ、先にエジプト王家の話を終わらせておこうか」

 ネフェルティティの胸像について、響はそれ以上何も言わなかった。
 後で教える。もしどうしても気になるというのなら自分で調べろ。
 この態度は、つまりそういう意味だ。

「エジプト王家の話──と言いますと」

「今回のメールがツタンカーメンの財宝に関係するってことは、もう察しがついてるだろ?」

「それくらいは、まあ」

「つまり、そのツタンカーメンっていう王様がどういう経緯で即位し、また亡くなったのか。その辺りを明らかにしておかなければ、目指す秘宝も見つからないからな」



珍客、襲来

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