金色の少女




 カイロ、エジプト国立博物館。ここの2階は黄金のマスクをはじめとするツタンカーメン王の秘宝が、12もの連続した部屋を占拠している。
 まさにまばゆいばかりの、黄金の宝物。10万点以上の美術品を収容する博物館の中でもひときわ輝かしい宝物ばかりである。

 まず必見なのは何度も繰り返すことになるが、黄金のマスクである。頭から、顔、首、そして胸にいたるまでを覆っているこのマスクは、金の板を打って形づくられており、宝石や貴石によって装飾されている。その重量は10キロ超。宝石の種類はラピスラズリ、色ガラス、紅玉、緑長石など。まさにこの博物館の『目玉』である。
 マスク後部には死者の書の銘文が刻まれている。これは王の魂が復活することを願って刻まれたもので、新王国時代以降のファラオのミイラとともに墓に納められるようになった。
 額部分にはエジプト支配のシンボルでもあるコブラとハゲワシの飾りがついている。コブラは下エジプト(ナイル下流域)の王権の守護神であるウアジェト神、ハゲワシは上エジプト(ナイル上流域)の王権の守護神であるネクベト神である。すなわち、ファラオが上下エジプトの正統なる支配者であることを意味している。

 次は黄金の人型棺である。人型棺とはその名の通り、人の形に似せてつくった棺である。新王国時代のファラオのミイラはこのような人型棺にまず入れられ、その人型棺を直方体の外棺の中に安置されるのが一般的である。
 ツタンカーメンの場合はその人型棺が三重になっていた。このうち第三の人型棺が黄金製で、第一、第二の人型棺は木製で、その上に金箔をはったものとなっている。
 黄金の人型棺と呼ばれる第三の人型棺は、実に総重量が100キロを超える。両腕を胸の前で×字に交差させるこのポーズは『オシリス神のポーズ』と呼ばれる。それぞれの手には王笏(おうしゃく)と殻竿(からさお)が握られている。
 大きさは長さ187センチ、幅51センチ、高さ51センチ。使われている金は22金。値段をつけるとしたら間違いなく天文学的数字となるだろう。

 そしてミイラに関連して非常に大事なものが『カノポス容器』を収めた厨子である。
 単純にミイラ=ひからびた死体、のように考えられている場合が多いが、事実はそうではない。死体にいくつかの作業をしなければ、死体はミイラとはならない。
 ミイラの製法は次のような順序である。
 1.まず、遺体を洗浄する。肉体に余計な傷がつかないように気をつけなければならない。足や腕に傷があるようだと、そこから霊魂が逃げると考えられている。
 2.脳、および内臓を除去する。脳、胃、腸、肝臓は、乾燥させた後に『カノポス容器』に収める。これらは永遠となったミイラには不要のものであると考えられたらしい。ただし心臓については乾燥させたのち、再び遺体に戻すことになる。心臓にこそ魂は宿る、と古代エジプトでは考えられており、この心臓に傷がついたならばそれがたとえ1ミリほどのものだとしても、完全なミイラは完成しないとされる。
 3.内臓を除去したのち、ナトロンを使って遺体を乾燥させる。全身にナトロンをまぶして、40日ほど放置しておかなければならない。このとき使われるナトロンとは塩のようなものではあるが、今日使われているような食塩ではない。天然塩と言うようなもので、炭酸ナトリウム、重炭酸ナトリウム、塩化ナトリウム、硫酸ナトリウムなどが成分として含まれたもののことを示す。このナトロンは産出量がさほど多くなく、きわめて貴重なものであると推察されている。
 4.完全に乾燥した遺体に詰め物をする。脳や内臓のかわりにナトロンを詰める。心臓は元通りの位置に戻す。
 5.樹脂を塗布した後に、亜麻布の包帯を巻く。これでミイラの完成となる。
 このようにしてミイラが造られるが、その過程で取り除かれた脳、胃、腸、肝臓はナトロンで乾燥させた後にカノポス容器に収め、ミイラと共に王墓に埋葬される。このカノポス容器は玄室ではなく、その奥の宝庫に収められていた。一般的に使われる容器は壷で、蓋をした後に方解石製の箱に収められ、金箔をはった木製の厨子の中に安置される。
 厨子の四方向の壁にはそれぞれ女神の像が刻まれファラオの内臓を守っている。それぞれ、ネイト、ネフティス、セルケト、イシスと呼ばれる。またはこの上には聖蛇ウラエウスの縁飾りが何十と置かれている。

 もうひとつ、黄金の玉座についても、ツタンカーメンを知る上では非常に重要である。
 無論、これは金箔がはられた木製の椅子である。この背もたれの部分に、ツタンカーメンとその后であるアンケセナーメの姿が浮き彫りになっている。だが、この記された王の名前が『ツタンカーテン』となっているのだ。
 これにはどういう意味があるのかというと、前王であったアメンホテプ4世の宗教改革に端を発している。前王はアメン神殿と不仲となり、それまでアメン・ラー信仰であったものを、アテン神一神教とし、都をテル=エル=アマルナに移した。この時代をアマルナ時代と呼び、写実的な芸術活動がなされたとして歴史的にきわだった時代となっている。
 この時代に生まれたツタンカーメンはもともと『トゥト・アンク・アテン』と名づけられた。意味は『アテン神の生きる似姿』というものだ。前王の没後、アメン神の神官たちの勢力が再び強くなり、アテン神信仰からもとのアメン・ラー信仰に戻ってしまった。それに従って王の名も『トゥト・アンク・アテン』から『トゥト・アンク・アメン』へと変わった。これがいわゆる『ツタンカーメン』である。

 ざっと博物館を見終わった私は、大きく息を吐いた。1階にあるカフェの椅子に座り、響が向かいの席で軽食を頼んでいる。

「疲れたか?」

「目がくらんでます。これだけの秘宝を見つけたカーターという人物がどれだけ感動に打ち震えたか、分かる気がします」

「確かにな。ここにあるのは発掘史的にみて最重要なものばかりだからな。俺も一回来てみたかったんだ」

「響はここは初めてなのですか?」

「まあな。エジプトに立ち寄ったことはあるんだが、そのときは時間もなくてすぐに王家の谷に行かなきゃならなかったからな。ようやくここに来られて、まずは満足というところかな」

 客が少なかったせいもあるのか、すぐに軽食と飲み物が運ばれてくる。
 ここからは中庭が見わたすことができる。人も見るものも多い館内に比べて、ここは随分とおだやかというか、ゆったりとしている。

「響」

「なんだ、あらたまって」

「聞いておきたかったことがあるんですけど」

「ああ、いいぜ。答えられることならな」

「響は南アフリカに行って何をするつもりなのですか?」

 コーヒーを飲みながら、響は私の疑問をしっかりと聞いている。

「エジプトから南アフリカへ。その暗号はわかります。ですが、実際にカーターの……その、秘宝の具体的な場所がわからないのでは」

「誰があの暗号を俺たちに送ったと思う?」

 言われて私は言葉に詰まった。

「その、情報屋……ではないんですか?」

「違うな。書いてあっただろ、ハワードって」

「ですがそれは暗号でしょう」

「暗号には違いない。だがハワードの秘宝について何らかの情報を握っているやつが、南アフリカにまで来てくれないだろうかっていう通信文じゃないかと俺は考えている」

「はあ……」

「つまり、南アフリカにまで行けば出迎えがあるってわけだ。きっとな」

「でも、相手にそのことが分かるかどうか──」

「わざわざ俺にメールを送ったんだ。こっちの行動は筒抜けだろうさ。きちんと指示どおりに、エジプトに入ってからわざわざ南アフリカに行こうっていうんだからな」

 私は改めて驚く。
 なるほど。響が直接南アフリカに行かず、わざわざエジプト入りしたのはそういう意味があったのか。

「ですがこの間の、涼子さんでしたっけ、裏の世界では有名になっているとおっしゃっていましたけど」

「そりゃ話題にもなるだろ。カーターの秘宝についてわずかにでも情報が流れたなら、裏の世界の連中には一気に知れ渡る。だがおそらく、直接メールを受け取った奴にしか『ハワード』はコンタクトを取らないんじゃないか。だとしたらこの間の『槍』みたいな奪い合いにはならないさ。少なくとも大掛かりにはな」

 納得と同時に不安にもなる。
 要するに、響は全くアテもなく、南アフリカへ行こうとしているのだ。

「もし出迎えというのがなかったらどうするつもりですか」

「そのときはそのときさ。南アフリカ観光でもしてから帰ろうぜ」

「いいんですか、それで」

「カーターの秘宝とやらの正体は推測しているけどな、俺の思ったとおりのものだとすれば別に放っておいてもかまわない。俺がわざわざここまで来たのは、カーターの秘宝の『実物』にちょっと興味があるからさ」

「興味、ですか」

「そうさ。わざわざ発見後80年も経ってから出てきた理由、といったところかな」

 私にはまだ分からない。
 いったい、カーターが横流しした秘宝とは何のことなのだろう。響にはその正体がつかめているというのだが……。

「教えていただくわけにはいきませんか」

「もう少し歴史と、今までの俺のヒントから答を導いてみせるんだな」

「響は私に少々厳しすぎます。考えるだけで、カーターの秘宝の正体が分かるんでしょうか」

「ああ。俺が考えているものにたどりつくヒントはもうお前にやっている。何とか推測してみせるんだな」

 と言われても私には分からない。分かるはずもない。80年も昔の人物が横流しした宝の正体など。
 まあ、たとえ分からなくても最後には判明しているだろう。今はまだヒントが少なくても、先へ進めばヒントも増えてくるはず。
 私はぱくりとパンにかじりついた。

「ヒビキ?」

 と、そのとき、日本語で私達に向かって声がかけられた。透き通った、綺麗な声だった。

「ヒビキじゃない。久しぶり〜。元気してた?」

 カフェに入ってきた女の子。金色のサラサラショートヘア、小柄な体格と顔立ち、見るものの心を奪うかのような微笑──可愛い、と女の私が見ても思ってしまった。

「げ」

 が、その少女を見た響は呻き声をあげた。心なしか、顔も青ざめている。

「な、なんでお前がここに……」

「ご挨拶。やっぱりヒビキもメールもらったんだね。私もなの。南アに行くんでしょ?」

「ジェシー……マジか?」

「マジ本気」

「マジ本気マジ?」

「マジ本気マジ本気」

 もう今どきそんな言葉を使う子もいないだろうに、などと私はついつい思ってしまう。

「ヒビキ、このヒトは? 新しいバイトさん?」

「あ、ああ……こっちは三鷹由紀。二ヶ月前から雇ってる」

「はじめまして、ユキ。私はジェシー・ランバート。よろしくね♪」

「はい。こちらこそよろしくお願いします」

 笑顔が可愛い少女だった。私でも思わず見惚れてしまうくらいに。
 しかも使っている言葉はまたしても完璧な日本語だ。響の知り合いは、みんな日本語が使えるのだろうか。

「ヒビキたちも、木曜の便で南アに行くの?」

「そのつもりだが……お前もか」

「そうだよ♪ ヒビキと一緒だね」

「音符をつけて話すな……やれやれ、涼子一人でも手にあまるってのに、お前まで一緒とは思わなかったぜ」

「リョウコ? あのヒトも来てるの? へえ〜、それじゃ今回知り合いが多いね」

「ああ。別行動だけどな。ジェシー、今回メールが送られたのってどれくらいいるか分かるか?」

「うん。全部で5人だけのはずだよ。名前まではわからなかったけどね」

「さすがは天才クラッカーだな。情報はなんでもお手の物か」

「やだ、褒めないでよぉ」

 今のは褒めたのだろうか……私は多いに疑問をもった。
 それにしても、この可愛らしい少女がクラッカーとは。世の中わからないものである。
 よく見ると少し大きめの鞄を持っている。おそらくはノートパソコンを持ち歩いているのだろう。

「で、何でお前がここにいるんだ?」

「せっかくだから博物館にでもと思って。ヒビキたちだってそうなんでしょ?」

「嘘をつくなよ。俺たちがここにいると知って、わざわざ来たんだろう」

 てへっ、と笑ってジェシーは舌を出した。

「エジプトに集まるトレジャーハンターの名前をチェックしてたらヒビキの名前があったから」

「あとはホテルを調べて、移動場所をしぼって追いかけてきたってわけか……その情熱には脱帽だな」

「ありがと。最近ヒビキに会ってなかったから私も寂しくて」

「寒気がする。やめろ」

「つれないなあ。こんなにヒビキのこと好きなのに」

 響がちらりとこっちを見た。
 どうやら困っているらしい。私に助けを求めても助け舟を出さないことは分かっているはずなのに。

(響が好き、か)

 目の前での告白シーンに、意外に冷静な自分がいることが分かる。
 響は顔も悪くないし、性格もまあ、悪い方ではない。ルックスもいいし、お金も持っている。女性にまるで興味がないような素振りだが──ああ、なるほど。
 響が困っているのは、ジェシーが響に本気だからだ、きっと。
 優しい響には、はっきりと拒絶することがためらわれているのかもしれない。
 まあ、拒絶したのに相変わらず追いかけられているという可能性もなくはないが……。

「とにかく、こっちはお前にかまっていられるほど暇じゃないんだ」

「こんなところでのんびりしているのに?」

 私は思わず笑ってしまった。確かにそのとおりだ。木曜の出発まで、私たちは特別やることはない。

「それじゃあ私は1人で観光してますから、お2人はどうぞごゆっくり。つもる話もあるでしょうし」

「ゆ、由紀?」

「ジェシーさん、がんばってくださいね」

「はい。ありがとうございます〜」

 やはり可愛い、と思う。何故か、この子の応援をしてあげたい気持ちになった。

「それじゃあまた後で、響」

「ちょ、ちょっと待て!」

 私は立ち上がると二人を置いて博物館を出た。
 一人でこの国を回るのも悪くない。
 私はタクシー乗り場へと向かった。



傾斜、30度

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