「メールが来ていました」
「何だって?」
「暗号で『にいせもらせ』、それだけです」
「へえ」
響はそう言うと自分の机ではなく、ソファの方に座った。私は立ち上がり、氷つきアイスコーヒーをいれる。
「由紀、お前いい加減、暗号くらい自分で解いたらどうだ?」
渡されたコーヒーにガムシロップとミルクを入れてから、私に文句を言って、それから一口含んでいた。
「暗号は解きました。ただ暗号手段によってどれだけその情報が重要であるかということが分かると教わったので、とりあえず暗号のままお伝えしました」
「へーえ、よく覚えてたな。感心感心」
「子供ですか、私は。一度教わったことは忘れたりしません」
少し拗ねたような口調をしてみせると、響は「悪い悪い」と口だけは答えた。全くそう思っていないことは明白だ。
「情報元は?」
「分からなかったので、とりあえず保留してあります」
「それでいい。お前、随分使えるようになったな」
「毎日罵詈雑言を浴びせられましたから。4ヶ月もすれば慣れます」
「そんなにひどいこと、俺言ったか?」
「このタコ、脳みそ詰まってんのか、お前の頭は幼児レベルか、犬でも教えたことは忘れないぞ、ああ猫なら3日で飼い主を忘れるっていうからお前は猫レベルってことだな、小学校からやり直してこい、世間一般の常識も知らないのか、いいかげんにしないとたたき出すぞ、etc.etc.」
さすがに響は黙り込んだ。これだけでもまだ一例なのだから、私の方が随分抑えているだろうと心から思う。
「……それで、だ」
「話をそらすのは結構ですが、こう見えても私は傷ついていますから」
「それで──由紀、お前『ポンペイ』についてはどの程度知っているんだ?」
話を強引に本件に戻しながら尋ねてくる。
さすがに専門家だ。たった1分少々で、暗号の意味を正確に理解している。私なんか30分もかけてようやく解いたのに。
「尋ねられると思ったので、一応帰って来られるまでに予習しておきました」
「お、さすがにこの商売のコツを飲み込んできたようだな」
「でも傷ついてますから」
「……」
一言で黙らせておいてから、私はポンペイについて調べたことを簡単に口頭で説明した。
ポンペイ。紀元79年、ヴェスヴィオ山の大噴火によって火山灰に埋没したとされる、古代都市である。発掘された遺跡は、日常生活がそのまま停止したかのようであったことから、ほぼ一瞬の出来事だったと推測されている。
もともと溶岩流で形成された大地の上にあったことから、ヴェスヴィオ山が過去に何度も火山活動を行っていることが分かるが、同時にそこはブドウの栽培に適した肥沃な大地でもあった。
18世紀から断続的に行われている発掘作業によって、現在ではその8割が日の目を見ていることになっているが、今でもまだ発掘はなお続けられている。
「簡単にはこんなところですが」
「なるほど、要約としてはまずまずだな」
響は久しぶりに目を輝かせた。
宝を目の前にする、高揚感。それが全身からみなぎっていた。
「紀元79年8月24日の噴火以前に、この地方を何度も地震が襲っている。そのことは調べてみたか?」
「はい。62年2月5日に、ヴェスヴィオ山周辺が大地震に襲われたという記録が残っています。相当大きかったみたいですね」
「その時の地震は今でいえばマグニチュード8に相当するという。79年の大噴火の前に生じていた一連の予兆の、もっとも大きいものだな」
「よくそんなことまでご存知ですね」
「それくらいは知ってなきゃな。それで、当時のポンペイ人たちがヴェスヴィオ山をどう思っていたのかということだが」
「はい。危険なのは近くのエトナ火山であって、ヴェスヴィオ山は活動を完全に停止していたと考えられていたみたいです」
「……お前、小学校からやり直し」
響は突然不機嫌になった。何か、とんでもない間違いを私はしたのだろうか。
「お前、エトナがどこにあるのか知ってて言ってるのか?」
「地図で確認はしていませんけど……ヴェスヴィオ山とそんなに離れているんですか?」
「ヴェスヴィオはナポリの東、中部イタリア。エトナは南部イタリアのさらに南西、シチリア島だ。地図くらいは頭の中にいれておけ。何度もそう言ったはずだぞ」
返す言葉もない。しゅんとなって、はい、と頷く。
「まずこのカンパニア地方──つまりヴェスヴィオ周辺は火山灰の大地であることからブドウの栽培に適していた。そのためヴェスヴィオにはブドウの神、この場合はブドウ酒を伝えたとされる酒神バッコスがいると考えられていたんだ。だからポンペイ人たちにとってヴェスヴィオは神聖なる場所であって、危険なものではない。そう考えられていたんだな」
なるほど、と納得する。確かに古代においては、特に西洋においては神という存在はきわめて重要な地位を占める。
「ストラボンの『世界地誌』にはこうある。『以上の諸地域より上の方にウェスウィウス山。山は山頂以外ひじょうに美しい畑地が取り巻く。山頂は大半の部分が平らだが全体が不毛の地で、見た目には灰のような土である。薄黒い色合いをした岩石の、まるで火に焼き尽くされてしまったようなのが、穴だらけのくぼみを作っているさまが見てとれる。従って、この地が以前火災にあって火のるつぼとなり燃える材料が尽きたので噴火したのだ、と推量する人がいるかも知れない。山のまわりの地方がみのり豊かであるのも多分この火災が原因だろう』、つまりもう昔の話だ、とこう言いたいわけだ」
何もものを見ないですらすらと言えるあたり、この人の知識量が半端ではないことを改めて思い知らされる。
「過去に噴火していたことまでは分かっていたんですね。でも現実には生き埋めになってしまった人が何千人もいるわけですが」
「ああ。だがストラボンの描写はかなり正確で、ヴェスヴィオがいつまた噴火してもおかしくはない、ととれなくもない。そうは思わないか?」
「そこで生活していたわけではないですし、ストラボンなんていう地理学者が何を言っても町の人は聞かないんじゃないでしょうか。現に今だって日本でも危険な地域はそれこそ無数にあるのに、みんな見てみぬふりをして生活しているじゃないですか」
「それはそうだ。人間は都合のいいところばかりをとって都合の悪いところは無視する生き物だからな。ただそれでもけっこう鼻のきくやつはいたみたいで、市民の一部は土地や家を二束三文で引き渡してポンペイから離れたという。70年ごろに起きた連続する地震、これが原因だったようだ」
「でも全部の市民がいなくなったわけではありませんよね」
「当然だな。こういうときにこそ上手に立ち回る奴も出てくる。町に残った連中は安く土地と家を買い入れて、更地にして菜園にしたという。ただそれでもポンペイは深刻な社会不安に陥っていたようだがな。当然といえば当然だが」
「つまり、この地域は危険だと当時の人々は判断していたというわけですね」
「ああ。おそらくローマ帝国領内で最も危険な地域だというくらいの認識はあったんだろう。当時の皇帝ウェスパシアヌスは丁度この頃に行政官スエディウス・クレメンスという人物を派遣している。もっともこれは一般的には土地管理の乱れを正すために送られた人物、とされているが」
「土地管理というと、ポンペイを出ていった人たちの土地を巡るトラブルがあったということでしょうか」
「市が有する土地、つまり市有地だが、これを不法に占拠する輩が出てきていたらしい。それを罰することと、ポンペイの復興を一任されたというわけだ」
なるほど、と頷く。だがこの展開からすると、自分達の仕事はいったい何になるのだろう。
少なくとも、貴重な宝ばかりを狙うトレジャーハンターたちが動かなければならないことは何もない。
「疑問か?」
相変わらず見透かすような瞳。どうしてこうも自分の考えることが分かるのだろうか。
「疑問は疑問ですね。ポンペイ、だからといって宝捜しにはならないでしょう。まさか、発掘の手伝いでもするつもりですか? でもポンペイの遺跡は全て文化遺産ですから入手することは難しいと思いますよ」
「というか不可能だろ、それは」
何を考えている、と言いたげに顔を歪める。
「もっとも、発掘の手伝いはすることになるだろうけどな。イタリアのビザをとらなきゃな」
「いったい、何を探すつもりですか?」
響はにやりと笑った。獰猛な、猛禽類の笑みだ。
「ポンペイの秘宝、さ。まあ、説明は明日にするか。というわけで、明日出発だから、準備よろしく」
はあ、と私はため息をついた。
「今日の明日でイタリアに出発ですか」
「もたもたしてると他の連中に宝を奪われるからな。急がないと」
「分かりました。必要な材料を教えてください。今日のうちに用意しておきます」
そうして、私のこの会社での3度目の旅行が始まろうとしていた。
とはいえ、今回は前2回ほど辛い旅ではないだろう。インド、アフリカ。次は本当に南極にでも行くことになるのかとひやひやしていたところだ。
これでまた臨時収入が入る。そう考えると少しだけ嬉しかった。