ポンペイの秘宝
『ポンペイ観光』
ローマからナポリへ鉄道で２時間弱。そしてヴェスヴィオの麓を海岸沿いに、ヘルクラネウム、ボスコレアーレ、そしてポンペイ。
この辺りはポンペイ同様、７９年の噴火によって埋没した都市の発掘が続けられている。
ヘルクラネウムはもともと１０人程度の犠牲者しか見つかっておらず、ほとんどの市民は脱出できたのだと考えられていた。このときヴェスヴィオが撒き散らした火山灰や軽石は、主として南東に、すなわちポンペイ方面に流れた。そのためこの地域の人々は北、すなわちナポリ方面へ避難していたと考えられていた。だが事実は異なる。１９８２年、ギィセッペ・マギィ指揮の発掘団は海浜に面した建物を発掘したときに、累々たる人骨を発見したのだ。その数は最終的には１５０体にも及んだ。
ヘルクラネウムからさらに南東のオプロンティスには、皇帝ネロの后となったポンペイきっての美女、サビナ・ポッパエアの別荘が発掘されている。この人物は５９年からポンペイで一時禁止されていた剣闘士試合の再開を皇帝に願い出て、それを認めさせている。この時市民は両陛下をたたえた文章を壁に書き記している。
「皇帝陛下の決定に万歳！ 両陛下の決定に万歳！ ポッパエア皇后陛下万歳！」
オプロンティスからさらに南東へ行くとボスコレアーレ。噴火当時は農園や別荘が数多くあり、その中の、１軒のインプルウィウム（雨水だめ）の中から多量の銀器が発見された。その数がなんと１０９個というから驚きである。当時、銀製品のゴブレット（足つきのコップ）が一市民の全財産と等しいと言われるほどであったから、このように一揃えになっているものは裕福な資産家だけの所有物、それも何代にも渡って集められたものである。
ここからさらに南東に数キロ行くと、そこがポンペイである。
もともとこのカンパニア地方の発掘はポンペイが最初というわけではない。１７０９年にヘルクラネウムで井戸を掘っていた農民が偶然大理石の柱を掘り当てたことがきっかけであった。
初期においては略奪同然の発掘であった。それはポンペイの発掘が始まる１７４８年以降も続いたが、Ｆ・ラ・ベガが監督となった１７６５年ごろから計画的な発掘が開始されるようになる。
現在では既に８割がたが発掘されてはいるものの、まだ北東部と南部の一部で発掘が終わっていない。資金難によって発掘が難航していることもあるが、近年ポンペイという噴火をも含めた過去の遺産を後世に伝えるためにあえて発掘せずに保存するべき、という決定がなされた。
ポンペイ市は６６ヘクタール。３つの大通りと７つの門、そしてそれを取り囲む城壁。内部にはいくつもの建物。市民広場、中央浴場、円形闘技場、体育場、音楽堂、ｅｔｃ．ｅｔｃ．……。
このポンペイに足を踏み入れると、何となく古代の風を感じることができる──が、それも一瞬のこと、実際には『かなり派手めの街』であり、観光客も多いので感傷にばかりひたっているというわけにはいかない。
「けっこう賑やかなところなんですね」
ポンペイ西側のマリーナ門傍のミステリ駅で降りて、私は響に話し掛けた。もっとひっそりしているものとばかり思っていたが、さすがに観光名所なだけはある。
「とりあえず見るものを先に見ておくか。アンリ、お前はどうする？」
ん〜、と考えてから答える。
「お前と一緒に行った方が面白そうだ。今回に限っては敵になることはないしな」
というわけで、私たちは３人でこのポンペイを回ることになった。
まず最初に訪れたのはヘルクラネウム門の外側にある『秘儀荘』であった。
当時の所有者が誰であったのか、はっきりとしたことは分かっていないのだが、裕福な資産家であることには違いない。
内部はほぼ左右対称になっており、正面玄関から入ると、まず列柱廊が出迎える。これは他の邸宅では見られない作りなのだという。
何カ所か壁や床が崩れたりしているが、それは発掘の過程で破損したのかもしれないし、６２年の地震で壊れたものが、７９年まで残っていたのかもしれない。そこまではさすがに分からなかった。
執務室の祭壇にはなんとエジプト神話に出てくるアヌビス神が壁に描かれている。
そして南側に位置する客間、この屋敷の名前の由来ともなった『ディオニュソスの壁画』はここにある。
「俺も実物を一度見てみたかったんだよな」
響がそんなことを言う。ポンペイは初めてなのかと尋ねると「当たり前だろう」と答えられた。
「仕事でもないのにこんなところまで来るはずないだろ。まあ、これは今後のためにな」
「……何か、ディオニュソスにまつわる宝物があるんですか？」
「う〜ん……」
ディオニュソスはギリシャ神話に出てくる神で、オリンポスの１２神の中で最後に加わっている。ギリシャ各地で布教活動を行ったという伝説が残っていて、その途中でブドウ酒を人間に伝えたとされている。
「バッカスの酒、ならあるはずだけどなあ。所在は分かってないんだよな、アンリ」
「相変わらず行方不明だな。多分、もう誰かの手に渡って出てこないんじゃないのか？」
とにかく、この秘儀荘とは関係のない代物らしい。
「それじゃあ、いったい何のために見学するんですか？」
「決まってる。少しでも多く知識を吸収する。それには実物を見るのが一番だからさ」
相変わらず勉強家である。自分も高校時代に比べるとはるかに勉強家になったつもりでいるが、それでも響にかなうはずもない。
「それで、この壁画が意味しているのはどういうことなんですか？」
それに答えたのはアンリであった。
「これはディオニュソスの秘儀を描いた連作だ。一般的な説でよければ、俺が説明してやるぜ」
そう言って、最初の絵から詳しく説明が入った。
�‘�信の儀式にのぞむ若い女性が物憂げな表情で座っている。
�⊇�性に見守られた少年によって式次第が読み上げられ、儀式にのぞむ若い女性は注意深く耳を傾けている。
��若い女性は腰かけたまま、２人の付添い人の手を借りて、神の怒りをしずめるための供物をささげている。
�ぅ妊�オニュソスとアリアドネのようすをみて上機嫌の老いたシレノスは、竪琴を弾きながら歌い、若いサテュロスは笛を吹き、バッコスの巫女は小鹿に乳を飲ませている。
�ゼ磴そ�性はディオニュソスと従者たちを見ておびえている。
�γ羆�では酒に酔ったディオニュソスが腰掛けたアリアドネに寄りかかり、その前ではシレノスが若い２人のサテュロスたちに酒をふるまっている。
�Ъ磴そ�性が男根のおさめられた秘教の聖具入れのおおいをとろうとしている。
�┣�感が去り、若い女性はバッコスの巫女たちが打ち鳴らすシンバルの音にあわせて有翼のデーモンに鞭打たれる。
��すでにディオニュソスの秘儀を授かった女性が、ケルビムの差し出す鏡をのぞきこんでいる。
「それでいったい、何の秘儀なんですか？」
「それが分かってれば『一般的な説』なんて言わねえよ。おそらくは若さを保つための秘儀だと考えられているが、正確なところはどうかな」
「実際にあったことというわけじゃないんですね」
「そりゃそうさ。ディオニュソスが生きてた時代なんて、ヘラクレスとかあの頃だぜ。それから１０００年も経ってるんだから、民間伝承と混じったり他の神話と混じったりで、どこまでが事実かなんてわからないさ。少なくとも、この秘儀荘だけではな」
意味ありげな台詞だ。
この人たちがこういう遠まわしな言い方をする時、それは裏に宝物の存在があることを意味している。さっきは響もあのようなことを言っていたが、おそらくこの『秘儀』に関する宝物が存在するのではないだろうか。
たとえばあの鏡。ケルビムといえば第２階に位置する天使のはず。その鏡となれば宝物としては相応しいのではないだろうか。
「ケルビムの鏡ね。それはちょっと考えすぎだ」
だがその考えは響があっさりと否定した。これだけはっきり言われるとなると、それは間違いないことなのだろう。
「では、いったい──」
「ま、それは今回の件とは関係ないことだしな。機会があったらゆっくり話してやるよ」
つまり、ディオニュソスについて勉強しておけということなのだろう。また宿題が増えた、と私は少しうんざりした。
次に私たちが向かったのは、南東に位置する円形闘技場である。つまり、北西のヘルクラネウム門から正反対の位置まで歩いたというわけだ。
それから体育場を見て、ヌケリア門へと向かう。この門の外側は共同墓地となっている。その墓地の一角に角柱があり、その前で私たちは足を止めた。
「これは？」
「スエディウス・クレメンスの角柱、と呼ばれている。スエディウスがこのポンペイでやったことの一部が書き残されているんだ」
そう言われて、改めてまじまじとそのトラバーチン（石灰華）の角柱を見つめる。だがもちろん、そこに書かれている文字は日本語であるはずもなく、読むことはできない。
「まあ、たいしたことが書いてあるわけじゃない。個人に不法占有されていた市有地を適切な手段でポンペイ市に返却させた、云々と書かれてあるだけだ。これと同様の碑文はヘルクラネウム門やヴェスヴィオ門、マリーナ門でも発見されている」
はあ、と頷く。ではいったい、何故この碑文だけをわざわざ見せたのだろう。そう尋ねてみると、響は満足そうに笑った。
「お前、最近いい読みをするようになったな」
でも明確な返答はなかった。
さらにいくつかの発掘現場を回った後、南西のマリーナ門に近いウェヌス神殿へと足を向けた。
いくつかの建物を回って説明されて初めて知ったことのひとつに、このウェヌス神という存在がある。ララリウム（神棚）に祭られている神様の中でも多かったのは、ポンペイの伝説の建設者であるヘラクレス、次に酒神バッコス、そしてこのウェヌス神であった。
ウェヌスとはこの地方を起源にもつ土地神で、本来は生と死をつかさどる、天界の神にして黄泉の神でもあるウェヌス・フィジカにまつわるものである。その後、愛と美の女神として信仰されるようになった。それはこの地方を支配したローマ軍によるものであり、殖民市ポンペイは『コロニア・コルネリア・ウェネリア・ポンペイアノルム』と名づけられた。
「ウェヌス神というのは、この地方ではどれくらい信仰されていたんですか？」
「今の日本人がクリスマスを祝うくらいには信仰されてただろうな。バッコスやヘラクレスも同じようなもんだろ。もちろん祭とかもあったが特別宗教色が強かったというわけじゃない」
そう言われると分かりやすい。
「ウェヌスはこの時代になると豊穣の女神ケレスと同一視されたりして、酒神バッコスと同じようにあがめられた」
「同一視、ですか。そんなことがあるんですか」
と言うと、響は露骨に嫌そうな顔をした。
「お前──」
「まあまあ、織宮。まだバイト始まって４ヶ月じゃねえか。大目に見ろよ」
私はそれほど無知をさらしたのだろうか。だが、知らないことは知らないのだから仕方ない。
「例えばな、中世──ありゃ近世か。魔女狩りの時代なんだが、月の女神アルテミスが死と氷の女神ヘカテと同一視されたことがある」
「アルテミスと、ヘカテが！？」
信じられないことだ。だがそれは事実であり魔女狩り研究では当然の了解事項なのだという。
「ゼウスがローマに行ってジュピターになるように、同じ神様がいろいろな名前・伝説を持つこともある。オリエントの神々はキリスト教の台頭によってほとんどが堕天使とされた。神話や伝説なんてでたらめなもんだ」
アンリの説明に私は改めて神話の奥深さを思い知らされた。
というより、アルテミスとヘカテの話がまだ私の頭の中には残っていて、それ以外のことはあまり頭に入らなかったというのが正しかった。
「ま、そんなわけでウェヌスも他の神と一緒くたにされてもおかしくはないってことさ。古代になればなるほどその傾向は顕著だったりするからな」
頷いて、改めて外側からウェヌス神殿を眺めた。
高台の上に建っているその姿は、６２年の地震、そして繰り返された略奪によって神々しさなど欠片も残ってはいない。
だが、そこに古代の息吹を感じることができた、と言っても言い過ぎではなかっただろう。
さて、いよいよ目的地の１つであるウェスパシアヌス神殿である。
飛行機の中である程度の説明は聞いていたが、話を聞くのと実物を目にするのとは全く別なのだとそこに行ってみて分かった。
入り口と寝室に挟まれた吹き抜けの中央部。その真ん中に位置する祭壇。その周りに、恐らくは観光用に芝が敷き詰められている。
祭壇正面の大理石板にはいけにえをささげる場面が描かれている。ヴェールをかぶった祭司が野菜をのせた三脚台の上で献酒の儀式を行い、神官と笛吹き、２人の官吏がその手伝いをする一方、祭司の助手がいけにえの雄牛を引いて、もう１人の助手が鉄槌をもっていけにえをささげようとしている。
神室の壁の一部にはこのような文章が刻まれている。
『プブリウスの娘である女祭司マミアが自分の土地に自費で神殿を建て、アウグストゥス帝の守護神（ゲニス）にささげた』
つまり、もともとこの神殿はアウグストゥスの存命中に皇帝にささげられたものだったが、後にウェスパシアヌス帝崇拝に転用されたものであると考えられているのである。
「ここで、本当に──」
と、響に話し掛けようとすると、視線だけで厳しく叱責された。
この神殿は、今回の『秘宝』と密接に関わる場所だ。すなわち、誰が聞いているか分からない。ここでその話はひかえろということなのだろう。
確かに軽率だった。今までですらかなり軽率に過ぎていたのかもしれない。反省して、ここではあえて何も尋ねないことにした。
何となく、寂寥感を覚えた。他の観光名所と比べて人が少なかったからかもしれない。
最後に、現在発掘中の場所へ私たちは足を踏み入れた。
現場監督とはあらかじめ話がついているということだ。協力する旨のメールを打っていたらしい。
とはいえ、一外国人がメールを送ったくらいのことで協力を受け入れてくれるのだろうかと疑問に思う。それを尋ねると、響はさも当然のように言った。
「そりゃ、金払ってるからな」
なんとも根回しのいいことだ。それでいくら払ったのかと聞くと、あっさりと「日本円にして１００万」という返答があった。
「これでも安いくらいだろ。こんなはした金でよく受け入れてくれたもんだと感心したぜ」
やはり響の経済感覚は異常だ。
さて、現場に到着すると響は私に命令して針金を取り出すように言った。言われたとおり、事前に用意しておいた針金を手渡す。
「ダウジングか。お前、そんなこともできるんだな」
「なんだ、アンリはできないのか」
「できねーよ」
呆れたような声で言う。正直、私も準備するものの中に針金と聞いた時にはいったい何に使うのかと首をひねったのだ。
「ま、ゆっくり見てろよ。ものの５分で発見してやる」
何を発見するつもりなのかは分からないが、とにかく私とアンリは響が針金を手にしてゆっくりと歩くのをじっと見つめていた。
響が持っているのはダウジングの本とかによくのっているＬ字型のものを２本使うやつではなく、１本の針金を中心がＶ字になるように３箇所で折って、その両端を手に持つというものだった。
ゆっくりと歩いている響を見ながら、私たちはただぼうっとしていた。不意に、アンリが尋ねてくる。
「そういやお嬢ちゃん。すっかり聞くの忘れてたけど、どうしてこんな仕事をやる気になったんだ？」
別に答える必要はなかった。当り障りのないところで答えておこう、と判断する。
「お金が欲しかったので」
「ああ、織宮んとこは羽振りいいからな」
「そうなんですか？」
「普通はバイトなんか雇わねえよ。金かかるし、足手まといだしな。お嬢ちゃんはわりと見所ある方だけど、それでもやっぱ１人でやる方が気楽だっていうのはあるしな」
「響は荷物運びとかに１人どうしても必要だって言ってますけど」
「だとしても、そんなに大きな荷物があるか？ 別にあいつ１人だって充分やっていけるはずだ。それなのに次から次へとバイトを取っては辞めさせる。何か理由あるのかな」
「辞めさせる？ バイトが自分から辞めるのではなく？」
「ああ。少なくとも俺の知る限りじゃ辞めさせられてるな。たいてい２年周期だ。２年以上織宮んとこでバイトしてる奴は俺は知らないぜ」
ふと、疑問に思った。
「響って、何歳なんですか？」
「ん〜？ そういや知らねえな。どう考えても俺より若く見えるけど、キャリアは俺と同じくらいか──ひょっとしたら俺より長くやってそうだな」
「響は同業者から見てそんなに優秀ですか？」
「あいつとタメはれるやつは、俺の他にあと何人かしかいねえよ」
改めて聞くと、響がどれだけすごいかが分かる。そしてさらに私が質問をしようとした時、
「おうい！」
響が現場の人たちに声をかけていた。どうやら、何か見つけたらしい。
「何があったんですか？」
尋ねると、響は得意そうに答えた。
「さあ」
私の顔は多分、相当ひきつっていたと思う。
「ただ、空洞がある。それだけはたしかだ」
響がそう言うと、現場の人たちが大掛かりな道具を持ってきた。何やら管のようなものを響の指示するところに突き刺し、地下へと進めていく。
しばらくしてからその管の中に何か長いコードがついている道具をいれて、慎重に下へ送る。
「管が空洞に達したから、そこを一旦清掃するんだ」
響がそう言うが、見ているだけでは今ひとつ分からない。
しばらくしてその道具を引き出すと、今度は溶かした石膏をその管から流し込んだ。
「フィオレッリが考案した石膏鋳型法だ。速乾性のを使ってるから、明日には掘り起こせるだろ。とりあえず、今日のところはナポリに戻るとするか」
そう言うので、思わず問い返していた。
「いいんですか？」
「ああ。今日はここにいてもすることはないからな。ナポリに戻って、お前にたっぷりとポンペイの歴史を教えてやる」
それはちょっと……と思うのだが、それを回避させてもらえるほどうちのオーナーは甘くはない。
それにしても、ポンペイの秘宝はかまわないのだろうか。何だかいつものような緊迫感がないので、少し気抜けしたまま、１日目が終わろうとしていた。
紀元７９年８月２４日
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