序ノ一.彩の消えた世界にただひとり












 ムーンブルクの王女ミラは自分勝手でわがままである。これは国内外を問わず誰もがそう思っている。
 確かに見た目は美しい。将来はロト三国一の美人となるだろう。紫色がかったウェーブヘア、小柄な顔立ちにくりっとした丸い目。一目で人を惹きつける魅力をもった少女だった。
 ただ問題はその性格。人を困らせることが大好きで、そのくせ自分が努力することは人一倍嫌がるときている。現国王が甘やかしたせいだろう、と人は言うかもしれないが、帝王教育はしっかりと行われている。知識としてはあってもそれを実行に移すだけの我慢強さが足りない。
 したがってミラに振り回されることを喜んでいる一部の例外を除けば、誰もがこの王女に辟易していたというのが実情だ。
 勇者ロトと、最も古い王国であるムーンブルク。この両方の血を引く三国、ムーンブルク、ローレシア、サマルトリア。彼女にとって不幸だったのは、同時代に同世代の王子たちがいることだった。
 ローレシアの王位継承者であるアレスは彼女の一つ下だが、既に国王の右腕として立派に政治に参加しているということだ。
 また、サマルトリアの長男サイラスは頭脳明晰、容姿端麗の天才児。彼女の三つ上にあたるが、体の弱い国王に代わって国を動かしている。
 その二人と比べられるのだから、ミラとしては面白いはずがない。ローレシアとサマルトリアの王子たちはあんなに勤勉なのに、どうしてムーンブルクの王女は、と陰口を叩かれることも多い。
 だが、駄目なのだ。彼女は決して頭も悪くないし、運動神経も悪くない。だが、政治というものがとにかく嫌いなのだ。さらに言うなら大人たちが自分に媚びてくるのもいやだった。汚らわしかった。近づいてほしくなかった。
 この国にいたくない。
 それが彼女の偽らざる願いであり、望みであった。
 そして、思春期によくある考えが彼女を支配したとしても、それはやむをえないことであった。

『こんな国、滅んじゃえばいいのに』

 それがよもや現実のものになるとは、彼女は全く思っていなかった。






 ムーンブルク王女ミラが誕生日を迎える、三日前の夜のことだった。
 その日は空が曇っていて月がよく見えず、窓から見下ろす街並は暗闇に包まれていた。
 何もない。それなのに胸騒ぎがする。彼女の胸騒ぎはいつもよく当たる。何かが起きる前触れが感じられる。
 問題は、何かが起きるのは分かっても何が起きるのかは分からないということだ。これでは何の価値もない。中途半端な自分の力に苛立ちすら感じる。
 それがはっきりと形になったのは、それから間もなくのことだった。
 街中に響き渡る悲鳴と喧騒。そして上がる火の手。ここまでくれば何が起こっているのかは誰にでも分かる。
 襲撃だ。だが、誰に?
 彼女は夜着を脱いで普段着に着替える。動きやすい服を選んだつもりだったが、それもたいした問題ではなかった。
 彼女の部屋に、二人の重臣が飛び込んでくる。
 一人は王女付けの教育係。いつもと違って鎧を着ている。もう一人はいつも自分がわがままを言いつけている若い男。こちらは私服だ。
「どうしたの。何が起こっているというの」
 素早く尋ねると、返答も早かった。
「襲撃です。ロンダルキアのハーゴンが攻め寄せて参りました」
「ロンダルキアのハーゴン。噂には聞いていたけど、まさかムーンブルクを」
 唇を噛み締める。だが、攻め込まれた以上は戦わなければならない。その程度の覚悟は彼女にもある。
「戦況は?」
「城内に入り込まれています。陥落は免れません」
「なんということ」
「姫様におかれましてはただちに城から脱出されてください」
「逃げるというの。このムーンブルクの王女たるものが」
「逃げなければなりません。詳しいことは分かりませんが、ハーゴンの狙いは姫、あなたのようです」
「なんですって?」
 何を言われているのかが分からない。どうしてハーゴンが自分を狙うのか。
「ハーゴンは魔族の部下たちに『ムーンブルクの王女だけは必ず生かして捕らえること』と厳命を下しているようです」
「じゃあ……」
 王女の顔が青ざめる。彼女の頭は悪くない。その言葉の意味が自分にははっきりと分かる。
「ムーンブルクが襲撃されたのは私のせいだっていうの!」
「そうは申しておりません」
「そういうことじゃない! それなのに私だけが逃げるってどういうことよ!」
 屈辱だ。
 確かにこんな国なくなってしまえと何度も願った。だが、自分のせいでこの国を巻き添えにするなどあってはならない。それは自分のプライドが許さない。ちっぽけなプライドだが、それでもこれは王女としての最低限の誇りだ。
「姫。今回ばかりは姫のわがままを聞いていることはできません」
 若い方の男が立ち上がると、懐から小瓶を取り出して近づいてくる。
「な、何をするつもりなの。近寄らないで」
「姫を安全にこの城から救い出すためです。しばらくの間は不便ですが、必ず王女を助けてごらんにいれますので」
 無礼にも男は姫に飛び掛ると姫に組み付いて、その小瓶に入っていた液体を彼女の口に強引に流し込む。それが飲み込まれるまでミラは身動きが取れなかった。
「ご、ごほっ」
 それが飲み込まれた瞬間、彼女の体に異変が起こる。
 徐々に視野が狭く、色褪せていく。そして視点が定まらず、低くなっていく。
「うまくいったようですね」
 二人が頷きあう。そして若い方の男が懐からカツラを取り出してかぶる。
「すまぬな」
「いえ。姫に無事でいただくためですから。私の命など大したものではありません」
 その若い男は小さくなったミラを抱き上げて、男に渡す。
 何事かと思ってミラは声をあげた。
「キャン!」
 だが、うまく声が出てこない。いや、むしろ今のは声ではない。
(私、まさか)
 ただ小さくなったのではない。これは姿を別のものに変えられている。
「納得されたようですな」
 男は近くにあった鏡に彼女を映した。
「これが今の姫のお姿です」
 そこに映っていたのは犬。小さな小さなチワワの姿であった。
(どうして、こんな)
「とにかく今は脱出が最優先です。いきますぞ」
 そうして犬と変わった王女はムーンブルクを脱出していく。
 この城のどこで、どのような悲劇が起きているのかは分からない。だが、いずれにしても今、この城のどこにも不幸以外の出来事はない。
 ただ、人は死にゆく。






「ハーゴン様、捕らえました! ムーンブルクの王女です!」
 その報告を得たハーゴンは満足そうに頷いた。
 ずっと待っていた。この十八年間、ただムーンブルクの王女が成長するのを楽しみに生きながらえてきた。今の彼女であればもはや大丈夫。
 そう、ムーンブルクの王女こそ、邪神の像を手にすることができる唯一の人物。
 邪神シドーをこの地上に降臨させるためには彼女の力が必要なのだ。
「連れて参りました!」
 部下の魔族たちが一人の人物を連れてくる。
 だが、その相手を見た瞬間、ハーゴンは烈火のごとく怒り出した。
「この、たわけがっ!」
「は?」
 部下のガーゴイルがきょとんとした顔になる。
「これは──男ではないか!」
 そう。
 人間型ではない魔族にはなかなか分からないものなのかもしれないが、目の前の相手は間違いなく男。ただ紫のカツラをかぶった男だ。
「随分と浅はかだな、魔族というのは」
 若い男は鼻を鳴らした。
「まさかとは思ったが、本当に男女の区別もつかないとは、たいした部下だな、ハーゴン!」
 その男の拘束が突如解ける。そして五歩の距離を一気に詰めた。
「死ね、ハーゴン!」
 男は懐からナイフを取り出してハーゴンに突き刺そうとする。が、その体が上半身から大地に落ちる。
 下半身を何かに掴まれた──これは、大地の手、マドハンド。
「なるほど。貴様が身代わりとなっている間に王女を逃がすという算段か」
「そういうことだ。もはや王女殿下は脱出された。拷問しようと思っても無駄だぞ。俺はどこへ逃げられたのかなど知らないのだからな」
 ハーゴンの暗殺には失敗したが、それでも勝ち誇ったように言う男。その様子からすると確かにこの男は何も知らないだろう。
「つまり、死ぬ覚悟で来たということだな」
 ハーゴンの目が光る。それだけで放たれた火炎の魔法、ベギラマが彼の体を焼く。
「がああああっ!」
「人間ごときがこの私をたばかるとは、いい覚悟だ。貴様、名前は何という?」
 男は睨むだけで答えない。だが、自分の名前がないはずがない。それくらいならば拷問で簡単に割り出せる。
「早く答えた方が身のためだぞ」
「どうせ殺されるのであれば、何を話しても仕方ないだろう」
「ふむ」
 ハーゴンは少し考えた。この男の名前を使って王女をおびき出すことができるかと思ったが、そうでなくても王女を追い詰める方法がないわけでもない。
「まあ、名乗らぬというのならば無駄な労力をかける必要もなかろう。面を持て」
 男は何をされるのかと一瞬不安な様子を見せる。
「何をするつもりだ」
「容易いこと。お前を何も思考することのない、私の兵士として迎えるというのだ」
「馬鹿な。そんなことができるはずがない」
「失われた古代の技術をもってすれば可能なのだよ。今の一瞬の動きといい、兵士としては私の親衛隊の力を上回ろう」
 運ばれてきた面をハーゴンは手にする。
「これは般若の面。呪われているアイテムで、これをつけると本来は敵味方の区別がつかずにただ暴れまわるバーサーカーとなる。だがこれはそれを少し改良したものでな。私の命令だけは実行するようになるのだ。ただ思考ができないのは変わらないので、私の命令をただ実行するだけのカラクリ兵士のようなものになると思えばいい。もっとも、相手を捕らえるなどということはできぬゆえ、ムーンブルクの王女を探索することなどはできんがな」
「やめろ!」
「何、一度つけてしまえば恐怖も何もない。死ぬまで私のために働くがよい」
 そして、面が男の顔につけられる。抵抗していた男はその面が装着されると同時に、がくりと力がぬけた。
 マドハンドの拘束が解け、男が立ち上がる。
「名前がないと不便だな。まあ、バーサーカーでよかろう。よいか、バーサーカー。お前は私の命令だけを聞いて、私が命令した者だけを殺害せよ。斧を持て!」
 そして部下の一人が戦斧を持ってくる。それをバーサーカーに持たせた。
「最初の任務を与える。ムーンブルクの王女を連れてくることに失敗したそこのガーゴイルを見せしめに殺害せよ」
「は?」
 かしこまっていたガーゴイルが顔を上げる。
「ですが、ハーゴンさ──」
 彼の言い訳は最後まで聞こえなかった。一瞬で動いたバーサーカーが、そのガーゴイルを両断していたからだ。
「ほう、般若の面で力が上がるのは分かっていたが、これはまたなんという膂力」
 バーサーカーはその場に立ち尽くす。次の命令がなければ彼は動くことができない。
「これはいい道具を手に入れた。うまくすればムーンブルクの王女を手に入れることもできよう」
 そしてハーゴンは城を見る。火の手が上がったムーンブルク城。城の周囲は完全に方位している。脱出することなどできるはずもない。
 だが。
(地下からの脱出路はあるやもしれんな)
 そこまで部下たちに期待するのは酷というものだろう。ベリアルもパズスもアトラスも自分の仕事をしっかりとこなしている。未発見の脱出路まで塞ぐのは不可能だ。
(ムーンブルクの王女か。まあいい。いずれは世に出てくるだろう。そうすればこのバーサーカーを使えばいい)
 炎に照らされたハーゴンの笑み。
 そして、炎によって照らし出された影が、邪神の姿を模していた。






 世界は灰色だ。
 希望などという言葉は全くなくなってしまった。
 もう、自分が人間に戻ることなどない。
 自分は犬という姿のまま、ずっと生き続けるしかない。
(私はいったい、何?)
 人間としての意識が残っているのが悔しい。
 どうせなら犬のように、全ての思考を奪ってくれればよかったのに。
(もう、どうでも、いい……)

 その犬はもう何も考えることなく、ムーンペタの町の片隅で、小さく横になった。







序ノ二

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