三十六.散らばる影が人間の希望を襲う












「もう一度繰り返して言うけど、絶対障壁を解くための方法はたったの二つ。俺が直接解除するか、それとも俺を殺すか、どちらかしかない。そして、俺は今この城の中にはいない。つまり、みんなにはもうどうすることもできないということなんだ」
 宝箱の鍵は宝箱の中に。
 絶対に開くことができない鍵の神話。魔王はそれを忠実に実行したというのだ。
「ラダトームの攻略にはきっと時間がかかる。あそこはルビスが手を入れた城だからね。魔族にとって一番の鬼門だ。一年か二年、かかるかもしれない。でも安心していいよ、その城の中を探せば人間用の食料なんかもあるから。いつか俺と戦うときのことを考えて、ゆっくり鍛錬していてくれればいい。全ての人間を殺し終えたら、そこにいくから。最後の仕上げにね」
 魔王の目が細まる。
「グラン──ルビスの封印を解いたようだけど、もう遅いよ。俺がルビスを封印したのは『あるもの』を手に入れるためなんだ。そしてそれは今俺の手の中にある。もうグランを急いで殺す必要はなくなった。だから、そこでゆっくりしていてくれ。それから、ミラーナもそこにいる。簡単に見つかるところにはいないけれど、みんななら見つけることもできると思うよ。何しろ、他にすることもないだろうしね」
「ウィルザ」
 ぐっ、と拳を握りしめる。いったい何故、彼がミラーナを連れ去ったのか、その理由が聞きたかった。
「クリス──多分、君にこそ一番辛い思いをさせてしまったと思う。ごめんよ。でも、俺はもう引き返したりはしない。もしも魔王であるこの俺を許せないと思うのなら、全力で戦ってくれ。多分、俺を殺すことができるのは君だけだと思う。その剣、報告を受けているよ。父さんの光の剣。それを使わないかぎり俺を殺すことはできないだろう。戦いたくないという気持ちは分かる。俺も同じだ。でも、もうそろそろ覚悟を決める時期なのかとも思う。じゃあ、そのときを待っているよ」
「……」
 剣を握る手に汗がにじむ。彼をそこまで駆り立てているのは何なのか、そこまで人間が信じられないというのか。
「リザ」
 そして、最愛の女性の名が呼ばれる。
「君にかけてあげられる言葉は多くない。というより、たった一つしかない。たとえどれだけ立場が違ったとしても、敵味方に分かれてしまったとしても、俺の気持ちはそれだけだ」
 それは偶然だっただろうか。
 魔王の影の視線と、リザの視線が重なる。
 これはただの、記録のはずなのに。
「愛している」
 思わず、涙がこみあげてきた。
「君ほど愛している女性はいない。俺にとっての真実は多分、それだけだ」
 そう言って魔王は苦笑した。
「ウィルザ」
 そして彼女は近づこうとするが、それより早く魔王は首を振った。
「それじゃあみんな、またしばらくしてから会おう。今度は──会ったときから、殺し合いだよ」
「ウィルザ!」
「──ここまでが、魔王陛下からのご伝言だ」
 突然口調が変わる。そして魔王の姿が奇妙に歪んだ。映像がぼやけ、徐々に色あせていく。
「魔王陛下を待つまでもない──お前たちの命は、このシャドウがもらいうける」
 瞬間、その右手がクリスの方へ向けられた。
「クリス様!」
 咄嗟にマリアがクリスを突き飛ばす。そのマリアの左肩を、シャドウの右手から伸びた『影』が貫く。
「くっ」
「マリア!」
 致命傷ではない。素早くグランがベホマの呪文を唱えたが、その間にもシャドウの姿は変容していた。
「お前はあのときの」
 初めてユリアと戦ったときに現れた影。リザもグランも、その姿には見覚えがあった。
 そしてクリスもだ。あの大灯台。罠にかけられたときのことは今でも覚えている。
「お前たちに魔王陛下と会う権利などない」
 ゆらり、とその影が揺らめく。
「ここで死ね」
 すると、その影が消えた。
「どこへ!?」
 レオンがあわてて見回す。だが、影の姿はどこにもない。
「そこの門の影だ! グラン、危ない!」
 その声に導かれたかのように、門の影からシャドウが現れる。
「くっ!」
 グランは後ろを振り返ることなく飛びのく。そこを先ほどマリアを貫いた『影』が通り過ぎていった。
(これより先は我が闇の領域……お前たちに逃げ延びる手段はない)
 はっ、と気づいてクリスが空を仰ぐ。
 かなり日が西に傾いている。影が伸び、城壁の影が大地を全て覆い隠すまで、さほど時間はかからないように思えた。
 影の中に入ることになれば、おそらくなぶり殺しにされるだけだ。
「城に入るよ!」
 クリスは全員に号令をかけた。
「でも、城の中に入ってしまうと──」
「このまま外にいたらなぶり殺しにあうだけだ! とにかく中に入るんだ!」
 五人は全力で建物の中へと入っていった。
(……中でも外でも、同じこと)
 シャドウの姿が、再び消えた。






 城の中は、意外にもかがり火がたくさん焚かれていた。
 いや、それも罠なのだろう。火があるということは同時に影が生まれるということでもあるのだから。
「奴はいったい」
 レオンが状況を確認するために尋ねた。
「おそらく、影騎士。旧魔王軍の中でも最強を誇る強さをもった奴だよ。影の中から現れて暗殺を繰り返す。奴に狙われたら絶対に助からないとまで言われたものさ」
 そう。それがウィルザの配下になっていることは分かっていた。今まで寝首をかかれなかったのが不思議なくらいだ。
 それはおそらく、ウィルザが止めていたからだ。
 だが、今回はその影騎士、シャドウが自ら動き出した。
 シリウスやルティア、ローディス、フィードといった強敵の他に、まだこれだけの戦力がある。
 なんと陣容の厚い軍なのだろうか。
「では、我々の影からも──」
「それはないはずだよ。意思あるものの影には入り込めない。それは相手の体の一部になるということだからね。少なくとも前の戦いのとき、ガライからはそう聞いている。だから無機物の影に入り込むのが奴のやり方さ」
「では、かがり火を背にしていれば」
「そう、問題はないよ。少なくとも不意打ちは受けない」
 そうして城の中央ホールに出る。あちこちでかがり火が炊かれており、中心に燭台と、その上に火の灯った大きめの蝋燭が置かれている。
「あれを使おう」
「同意見です」
 クリスの提案にレオンが同意する。そして五人はそれぞれ蝋燭を背に囲うようにして死角をなくす。
 後ろには灯り、そして全方位を見渡すことができるこの場所でならば、間違いなく不意打ちは受けない。
 床は一面大理石か何かをしきつめられていたが、壁は整っておらず、岩肌がそのまま現れている。天井は高く、ドーム状になっているようだった。
「奴はいつやってくると思いますか?」
 レオンの心配ごとはクリスも同じだった。
「さあね。でも持久戦になるのは間違いない。奴は私たちが疲労しきったところで襲い掛かってくるつもりだろうさ。一日、二日、三日。へたしたら一週間、一ヶ月だっていうこともありえる。一時たりとも安心できない。油断をしたらその場で、さっきの影に貫かれる」
「休息は交互に取らないといけないですね」
「ああ。常に二人以上が起きて、交代で見張りをしないといけない……長引くよ」
 リザがつばを飲み込む。それがどれだけ苦しい戦いになるか、想像するだにおそろしい。
 何しろ敵は、何もしなくてもこちらの体力を奪うことができるのだ。それこそ、見張っていることすらしなくていい。常にこちらの場所さえ把握しておけば、一日や二日、放っておいても何も問題はないのだ。影騎士はゆっくり昼寝でもしていればいい。それを知ることのない自分たちにとっては【何も起こっていない状況こそ脅威】なのだ。
「でもウィルザはオイラたちのことは最後に殺すって言ってたよね」
 グランは既に全身に汗をかいていた。それだけ緊張しているということなのだろう。
「多分それはウィルザの意思だろうね。単にあの影騎士がウィルザの命令を破って攻撃をしかけてきているだけさ。もう少しリラックスしな、グラン。いざってときに戦うことができないよ」
 もちろんクリスも完全に緊張を解いているわけではない。だが、自分の中でいつでも回復できるゆとりを持っていなければ、このまま焦燥していくだけだ。
(こいつは、まずいね)
 クリスは一番冷静にこの状況を分析していた。リザもグランも、今までにない戦いに完全に戸惑い、我を忘れている。レオンは落ち着いてはいるが、気負いはぬぐいきれていない。マリアもそこまで精神が強い方ではない。長持ちはしないだろう。
(三日もすれば、こっちは全滅だね。それまでに仕掛けてくれればいいんだが)
 それよりも、相手が仕掛けてきやすいようにこちらから動く方がいいか。全員がかがり火を持って、城の内部を探索する。その方がまだしも気がまぎれるかもしれない。
 だがそれには危険が伴う。相手はいつどこに現れるか分からないのだ。無闇に行動していても意味がない。相手に決定的な隙を与え、気づけば殺されている。そうなるのは目に見えている。
(ウィルザ。あんたならどう戦う?)
 彼ならば鉄の自制心でこの難敵とも五分に渡り合えるのだろう。自分もその覚悟はある。だが、リザやグラン、マリアにそれが耐えられるかとなると、非常に難しい。
 やはり進んだ方がいいか──と、クリスが後ろのレオンに話しかけようとしたときのことだった。
 その彼女の目に映ったのは、影。
 蝋燭の灯りが燭台に影を作り、その小さな小さな影から、音もなく大きな影騎士の姿が生まれ出て、影の剣を振りかざしていた。
「レオン、避けろ!」
 その切羽詰った声に、レオンは確認することなくその場に倒れこんだ。一瞬遅れて、その場所を影の剣が通り過ぎる。
「こいつっ!」
 クリスが影騎士を斬る──が、何故かその剣には手ごたえがなく、影騎士の体をするりとすり抜けていった。
 そして、影は消えた。
(倒せない──)
 どのような理由なのかは分からない。だが、この剣では致命傷を与えることができない相手なのだということはわかった。
 相手はいつでも自分たちの死角を突くことができ、こちらは相手の居場所も分からない。なおかつこちらの武器が相手に届くこともない。
(もしかしたら)
 クリスは背筋に悪寒を覚える。
(さっきからずっと私たちの後ろに控えていて、自分の力を見せつけるためにわざと斬られた……?)
 こちらをさらなる不安に陥れるために。
 唇を噛む。これは──厄介だというレベルの話ではない。強者が弱者をじっくりといたぶりながら、苦しむのを楽しみながら殺していくという、最悪のパターンだ。
 逆に言えば、この数分間、奴はいつでも自分たちを殺すことができた──ということだ。
(勝てる──のか?)
 ぞくり、と震えた。
 このままでは、何があっても勝てない。
 相手はいつでも自分たちの命を取ることができる。そして、こちらは相手を倒すための策すらない。
(どうする──)






「よっ、元気してっかい?」
 一旦軍を引いて態勢を立て直していた竜騎士のテントを尋ねたのは、おしかけ友人の獣騎士であった。仮面で隠れていても、その顔が引きつるのが見て取れた。
「何の用だ。お前のところも態勢の立て直しだろう」
「もう終わったよ。俺っちの能力甘く見てんじゃねえだろうな」
「いや」
 フィードにしてもそれは確認しただけのことだった。こちらの軍もほぼ再編成は終わりつつある。だとすれば自分より編成能力の高いローディスが終わっていないはずがない。
「ま、お前さんがまだ本気を出してないのが気になってな」
「本気ではない、だと?」
「違うのか? お前が本気出してたら、もうとっくにこの城落ちてるぜ。何のための竜部隊だと思ってんだ?」
 物量で攻める獣部隊に対し、機動力で攻めるのが竜部隊の特徴だ。
「他部隊の援護に回れと?」
「でないといつまでも消耗戦が続くぜ。早いとこ勝負決めないとな。ま、お前さんがそこまで頭が回ってないのはだいたい想像がつくが」
 ぴくり、と竜騎士の体が反応する。
「あの人間の女の子のこと、気になってんだろ」
「何のことだ」
「別に隠さなくたっていいじゃねえか。いくら人間だとはいえ、同じ名前であんな線の細い子だ、重ねるなっていう方が無理なんじゃ──」
 最後まで言うことはできなかった。それよりも早く竜騎士の槍が獣騎士をとらえていた。もちろん、その槍は鋼の左腕で防がれていたが。
「それ以上言うな」
 殺気であふれた竜騎士に、配下のリザードマンたちが怯える。
「殺すぞ」
「怖いぜ、フィード」
「黙れ」
 フィードは槍を治める。もちろんそれとて、相手が防ぐことを前提に攻撃している。本気で殺すのであれば、手段を選んでいる暇はない。
 何しろ、相手は自分より強いのだから。
「一つ聞こう」
「なんだい?」
「何故お前が彼女のことを知っている?」
「それが分かった方には豪華ザハン島三泊四日の無料招待券がっ!」
「……」
「最近ノリが悪いんじゃねえか? 一人でやっててもつまんねえじゃねえか」
「言うつもりはない、ということか」
「ま、世の中には知らない方がいいこともあるってことさ」
 ローディスは肩をすくめた。
「別にあの人間の娘がどうなろうと私の知ったことではない」
 竜騎士はそう言い残すと、訪ねてきたローディスを残してテントを出た。
「やあれやれ、もう少し詰めないとまずいかな」
 部下のリザードマンたちがあわてているのを見ながら、獣騎士は苦笑をもらした。






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