四十四.仮面が外れる
魔王が次に目覚める時は、完全な魔王となった時だと聞いた。
そして、今こうしてリザとレオンの目の前で彼は目を覚ました。
間に合わなかったのか。
絶望的な感情が二人の心の中にこみ上げてくる。
「まさかここまで人間たちが踏み込んでくるとはな。フィードも、ローディスも、シリウスも敗れたということか」
「フィードが敗れたのは確認しましたが、あとのふたりは分かりません」
淡々とルティアが答える。ふむ、と魔王は頷いて台座から降りる。
そして、同じように台座に置かれていた『魔王の剣』を手にする。
「みんな、いなくなっていくのだな」
魔王は寂しそうに呟く。
「ウィルザ」
その彼に声をかけたのは、無論リザであった。
「リザか」
「止めにきたわ、ウィルザ」
ゆっくりと、相手に届くように、一語ずつ心をこめて話しかける。
「そうか。だが、たとえお前でも止めることはできないだろう。俺も後悔している。最初から、俺ひとりで実行していれば良かったのだと。いや、そう思ったからこそ、クリスとグランを最初に殺そうとしたんだけどな。結局、俺の甘さがこの事態を招いてしまった」
魔王は傍らに立つルティアを見つめる。
「俺の傍にはもはやルティアのみ。そしてお前たちも二人だけ。こんな結果を求めていたわけではなかったのにな。全て俺の甘さだ。もしお前たちに俺を止められるのなら止めてほしいと微かに思って、ミラーナに封印の解除キーを渡したことが最大のミスだった。だが、もういい」
魔王は剣を抜く。もはや語る言葉はない、というように。
「お前たちを倒して、全てを終わりにしよう。ルティア。援護せよ」
だが。
その言葉に、白い魔族は反応しなかった。
「ルティア?」
動きのない魔族をちらりと見る。彼女はうつむいて、表情をこわばらせていた。
「魔王陛下。一つだけ、お聞きしたいことがあります」
ルティアが抑揚のない声で尋ねる。
「あなたは、今でもまだリザのことを想っていらっしゃるのですか。完全な魔王となった、今でも」
それは、眠りにつく前に聞いた質問。
魔王は答えた。
「そのような感情はもはや不要だ」
「いいえ、私にはその感情が必要なのです。結局、あなたは私をひとりの女性としては見てくださらない。心の中にはいつでも彼女がいる。私はもう今では、あなたをひとりの男性としか見られなくなっているというのに」
「そうか」
魔王は苦笑した。
「結局、いつまでも中途半端だったのは俺の方か。リザがいない寂しさを紛らわせるためだけの……」
「私に感情があるとは、あなたに出会うまでは思いもしなかった。弟を自らの剣で貫いた時すら、私には何も感情というものが浮かばなかった。ですが、今は」
彼女は小剣を抜いて魔王に向けた。
「俺と戦うか、ルティア」
「はい。あなたを全て手に入れるには、もうこうするしか方法はありません。私はずっとあなたの傍にいました。あなたが眠りに落ちる度にうわごとで彼女の名を何度呟いたかご存知でしょうか。二九六回、私はその名を聞かされたのです。もう、充分です。私はこれ以上、苦しみたくない。ここで彼女を殺したとしても、あなたは毎夜その名を呼ぶのでしょう。私の目の前で、私に聞こえるように。私はもう、そのような苦しみは受けたくありません!」
泣きながら、ルティアはついに感情を爆発させた。
全く感情のない、ただ剣を振るうだけのキラーマシンとして存在していた彼女の、初めての心からの叫び。
「分かった」
魔王は答える。
「ならば、最後くらいはお前のために戦うとしよう、ルティア」
魔王から殺気があふれる。
「──こい。完全な魔王の力、どれほどのものか一番に見せてやろう」
「僕のことも忘れるな、魔王ウィルザ」
そして、ルティアの隣にレオンが立つ。
「レオン」
「ルティア。君はひとりじゃない。僕ではウィルザの代役は務まらないかもしれないけど、新たな魔王として、精一杯努力する。だから、今度は僕の傍にいてくれ」
レオンは、そのためにこの魔王城まで来ていた。彼女に自分の気持ちを伝えるために。
「少し考えさせてください。今はまだ、自分がどうしたいのかが分かりません。ですが」
ふたりの目の前に、最強の魔王が殺気を放っている。
「ふたりで、ウィルザを倒しましょう」
「ああ」
勇者と魔族、そして魔王。
二対一の戦いが始まろうとしていた。
「ま、待って!」
そこに割って入ろうとするリザを、ルティアが冷たく見つめる。
「あなたは魔王陛下とは戦えないのではないのですか」
氷のように冷たい言葉がリザの足を止める。
「勘違いはしないでください。私は人間のためや、あなたたちのために魔王陛下と戦うのではありません。むしろ逆です」
彼女の視線が、寂しげに魔王に向けられる。
「魔王陛下を私の手で倒し、彼の全てを永遠に私のものにする。リザさん。あなたには、魔王陛下のお心以外は何も渡しません。陛下は、私だけのものです」
「俺を殺して、俺を手に入れるか」
魔王は笑った。
「以前は剣ではお前に一日の長があった。だが、今の俺にお前の力でかなうと思っているのか」
魔王はゆっくりと剣を構えた。
「来い。お前の望み、かなえてやろう──お前の考えとは、少し異なるかもしれないがな」
レオンとルティアが、同時に動いた──
「いつまで、逃げ回っているつもりですか」
クリスの背後を取り、鋭く剣を繰り出す。
ここまで、クリスはまだ一太刀あびせるどころか、ろくに攻撃すらできないでいた。それほどにこのシリウスという騎士の動きは早く、鋭い。
たとえ『光の剣』を発動したとしても、当てられないのでは意味がない。
あと残る回数は二回。無駄にすることはできない。
(ウィルザとの決着で一回分、残しておかないといけないからね)
この光の剣を発動させると、彼女の戦闘意欲が削がれていく。フィード戦で一度使った結果として、彼女はウィルザと戦わなければならないという気持ちがさらに弱まっていた。
自覚しているならば、戦うことはできる。
人間の未来を守るとか、そんなことは彼女にとってさほどどうでもいいことだった。仲間たちのため、そして何よりウィルザ自身のために、彼を止めなければならない。
それは自分の願いでもある。
それなのに。
(こんなところで足止め受けてるわけにはいかないよ!)
狙い済ました剣の一撃がシリウスを襲う。だが、それを難なくかわした死神は袈裟に斬りつけてくる。
「くっ!」
間合いを取り直し、呼吸を整える。
やはり、強い。
あのラダトームで見たとき、今までに出会った騎士たちの中でも最も強いと感じたあの直感は間違いではない。
七騎士の筆頭。その実力は伊達ではない。ルティアやローディス、フィードなどこの騎士にはまるで及ばない。
騎士はこれでも全力を出すどころか、まだ様子見、いや遊んでいるようなものだ。
圧倒的な実力の差。
それが目の前に広がっている。
「さて、私の方も急がなければならない理由ができました。『死神』としての仕事をしなければならなくなった」
「死神?」
「ええ。もし魔王陛下を裏切る者がいれば始末せよ。それが私に課せられた使命」
裏切り者。
それが一体誰のことを意味しているのか、クリスには分からない。
だが、魔王の傍で何か変化があったことだけは分かる。
リザか、グランか、レオンか。誰かが魔王の下までたどりついたのだろう。
「そろそろ、本気の半分くらいの力は見せておきましょう」
直後、死神から殺意があふれる。
瞬間、彼女の体が震えた。
ラダトームで金縛りにあったのとは違う。今感じているのは、明らかな『恐怖』。
バラモス、ゾーマ、そしてウィルザ。魔王たちと戦ってきたときと同じ感情を、目の前にいるただの騎士から感じるのだ。
「な、何者だ、あんたは」
「私の力が少しは分かるようですね」
間合いに入らない遠距離で、騎士は『死の剣』を振るう。
それだけで、剣圧が彼女の頬を裂いた。
「な」
「私にはもともとこれほどの力がなかった。ゾーマ様が亡くなったあの日、私は無限の力を得ることができた。今では、私は」
その姿が消える。
殺気もない。
どこへ──と振り向いた彼女の背後。
そこにいた。
「魔王ウィルザよりも、強いのです」
『死の剣』が振り下ろされた。その剣先が彼女の肩に落ちる。
そのとき、彼女の纏う『ルビスの鎧』が緑色の燐光を発し、『死の剣』を弾いた。
「これは」
さすがにシリウスもその現象に驚いた様子を見せ、一度距離を置く。それ以上に当のクリスの方が驚いていた。
(こんな機能があったなんてね)
さすがはルビス製である。装着者の命の危険を読み取って、咄嗟に防御フィールドを展開したに違いない。
だが、それでも戦況は有利にはならない。圧倒的な実力差をもって攻めてくる相手に、自分は何の打開策もない。
オルテガの使っていた名剣『覇者の剣』、その内は『光の剣』。それを当てられるかが勝敗の分かれ目だ。
「ルビス、どこまでもこの私の邪魔をしないと気がすまないようですね」
ようやくシリウスにも怒りの感情が見え隠れする。
仮面の奥で光る瞳が殺気を帯びる。
それだけで、クリスは言葉にできないほどの恐怖感に包まれてしまう。
(くそっ、これを乗り越えないと、あたしに勝ち目はない)
ただでさえ実力差が顕著な相手だ。精神的に優位に立たない限り勝機はない。一流の戦士であるクリスだからこそ、それがよく分かる。
それなのに、この体はちっとも言うことを聞いてくれないのだ。
(何故だ。何故、あたしはこんなにもこの魔族を怖がる?)
確かに強い。だが、畏怖というようなものではない。
恐怖とは微妙に違う感情。それが混ざっている。
「何度もルビスに助けられると思ったら間違いですよ」
シリウスが動き出す。
間合いに入ってきて、鋭く剣を打つ。今度は覇者の剣でしっかりと受けた。
受けたはいいが、力比べでも押されているのが分かる。このままでは、負ける。
「あんた、いったいゾーマの何だっていうんだい」
浮かんだ疑問は、そこにあった。
ゾーマの代から仕えていたという魔族。だが、その噂は聞いたこともなかった。
ゾーマの三魔将といえば、バラモス、バラモスブロス、サラマンダー。シャドウという影の騎士がいることはガライから聞いていたが、その上を行くこのシリウスという騎士の存在など聞いたこともなかった。
「その名を、軽々しく呼び捨てにしないでください」
さらに力が強まる。そのまま押し倒されてしまい、死の剣が落ちる。顔面目掛けて落ちてきた死の剣を咄嗟に避け、地面に刺さった剣を抜く間に距離を取った。
間一髪だった。まさに死のすぐ傍に自分がいたことを自覚する。
「あなたがたは私からゾーマも、そしてシャドウも奪った。私とゾーマの関係など、あなたにはどうでもいいこと。私はただ、その復讐を果たすだけです。そう、ずっと、ずっと殺したかった。あなたたちを。あの滅びた魔王の城で、力のなかった私はゾーマの助けになることもできず、ゾーマが滅びていくのをただ見ているしかできなかった。私は、私は、私はっ」
間合いがなくなる。ゼロ距離でシリウスの拳がクリスの顔を打つ。
だが、彼女も一歩後退すると、下から剣を大きく振り上げる。
覇者の剣が、死神の仮面を弾き飛ばしていた。
「あ、あんた……」
その仮面の下の素顔は。
「私とゾーマとの関係を知りたいのですか」
美しい、女性のものであった。
「私は、ゾーマのたったひとりの家族」
「本名を、アリシア、と言います」
次へ
もどる