外伝9.Arisia

part C













 言葉を話すことを覚えたアリシアは、少しずつ感情も見せるようになってきた。
 ゾーマの言動に笑い、泣き、そして時には怒るような仕草も見せる。
 本来少女に与えられるべき感情は、こうして少しずつ取り戻されていったのだ。
 ある時、少女は自分の影の中に『別の意思』を発見することになるが、その影は自分に気づいてほしくないようであった。その影と話ができるようになるには、まだ数年の月日が必要だった。
 彼女は分かっていた。おそらくこの影は、自分を守ってくれているのだと。ゾーマが信頼のおけるものを傍に置くようにすると言っていた。おそらくこの影が、その信頼できる相手なのだ。
 公式には彼女の立場はまだゾーマが所有する奴隷でしかない。従って、彼女が社交の場に出ることはなかったし、ゾーマもアリシアもそのつもりはなかった。
 ただふたりは時間の許される時に会い、たわいのない話をする。それだけの関係だった。
 魔王にしてみれば、それは唯一心が安らぐ時間だったのかもしれない。王という地位はひどく孤独なものだ。サラマンダーは忠誠を誓ったとはいえ、いつ自分の寝首をかこうとするか分からない。バラモス・バラモスブロスが自分の周りを固めているとはいえ、それにとってかわろうとする魔族をあげればきりがない。そんな中で、シャドウの守護の下、何も考えずにアリシアと話ができる時間というのは彼にとって貴重だったのだ。
 だが、アリシアにしてみるとその価値観は全く異なる。彼女にとってはゾーマとの時間が全てだった。他に何もない、ただ時間が過ぎていくだけの毎日。彼女は優しく、強い魔王に焦がれていく。それに何の不思議もない。
 ただ、魔王が自分を女性としては見ていないということは明らかだった。
 奴隷上がりだからか。
 半魔族だからか。
 魅力が足りないからか。
 他に好きな女性がいるからか。
 いくらでも理由はある。その全てがあてはまると彼女は信じている。
 自分は、ゾーマとはつりあわない。それが分かっているだけに、彼女はその気持ちを表面に出すことは一度もなかった。家族として、ただゾーマに尽くしてきた。
 そう。あの、人間の襲撃の日が来るまでは。






 夜の世界となったアレフガルドに、ついに陽の差す時がやってきた。
 虹の橋をかけた勇者たちが魔王の城に乗り込んでくる。既にバラモスを倒していた勇者たちは、破竹の勢いで魔族たちを倒していく。
 先王サラマンダーも、勇者の父親と刺し違えて逝った。
 最後までゾーマを守っていたバラモスブロスも、勇者の剣に倒れた。
 竜の女王から『光の玉』を受け取っている勇者たちは、不完全な魔王であるゾーマの正体を暴くことができる。
 完全な魔王ではないゾーマは、もう既に長い時を生きてきた。不老と見せかけて実際は年老いているゾーマ。光の玉を使われた時に正体を見破られる。戦う力などほとんど残っていない、老人の体であるということを。
「シャドウ」
 私は、自分の守護者の名前を呼ぶ。
(ここに)
「お願い。ゾーマを助けてあげて」
(私が受けた命令は、アリシアを守ることだ)
「その命令した相手が危険なのよ。ここは大丈夫。勇者たちは魔王を倒しに来ているのだから、私が抵抗しなければ勇者たちは何もしないわ」
(だが)
「お願い。ゾーマを助けて。ゾーマを助けられるのはもう、シャドウしかいないの。私も頼れるのはシャドウしかいない。きっとシャドウなら、ゾーマを助けられるでしょう?」
 すがりつくように影に話しかける。
(──承知)
 しばらく熟考した後に、シャドウの返事があり、その気配は消えた。
 この選択が、私の未来を決定づけるなど、このときはまだ分かっていなかった。






 しかし、魔王は倒された。
 シャドウは間に合わなかった。
 人間たちは──私から、全てを奪った。
 ゾーマも。
 私、自身も。






 勇者たちに続いて、人間たちの軍が虹の橋を通って魔王の島へと渡ってくる。
 今まで魔族に虐げられていた人間たちが、反撃の機会を手に入れて侵攻をかけてくる。
 魔王の城に突入してきた人間たちは、そこにあるものを略奪し、魔族たちを殺していく。
 どんなに力あるものも、人間たちの数と勢いに負けて討ち取られていく。
 落日。
 いや、昇日の時、と言った方がいいのだろうか──?






 私の目の前には凶悪な顔をした男たち。
「おい、女がいるぜ」
 何をされるのかは分かっていた。
 この男たちは、奴隷市場に来ていた男たちと全く同じ顔をしているのだから。
「いい女じゃねえか。魔族にも女がいるんだな、おい」
「後から来たからもうぶん取るもんもねえかと思ってたが、いい土産が残ってたじゃねえか」

 笑っている。
 笑っている。
 獲物を見て、男たちは笑っている。

 もともと『私』はそのための存在だった。
 今まで長い間、その運命から回避できていた。
 ゾーマがいたから。
 ゾーマがいなくなったら、もう『私』は元に戻るだけ。
 ゾーマがくれた名前もいらない。
 ゾーマがくれた幸せもいらない。
 ゾーマがくれた感情もいらない。

「おい、さっさとやっちまおうぜ」
 男たちの声が聞こえる。
 服をはがされる。
 男たちの欲望がつきつけられる。

 もう、ゾーマは助けてくれない。

「おい、泣きもしねえな、こいつ」
「魔族だからな。俺たちとは違うんだろ」

『お前は絶望という言葉すら知らない娘のようだ』

 そう、ゾーマは言った。

『哀れだな』

 そう。
 ゾーマが『私』を哀れに思ったものは、『私』に何もなくすものがなかったからだ。
 何もない『私』を哀れに思ったゾーマが『私』を拾った。
 それは同情か、それとも単なる気まぐれか。
 いずれにしても『私』はもう、何も持たない存在ではない。
『私』には、ゾーマがいるのだから。

「ゾーマっ!」
「お、ようやく自分の立場が分かったみてえだな」
「いいさ。こうやって暴れてくれた方が楽しいってもんだ」
「ゾーマ! ゾーマ! ゾー……」

 もう、ゾーマは助けてくれない。
『私』の中に、異物感と激痛。

 助けて。
 助けて。
 助けて、ゾーマ。

「おい、早くしろよ」

 部屋には肉を打つ音と、男たちの笑い声。

「ゾーマっ!」

 そして『私』の泣き叫ぶ声が、別人のもののように聞こえてくる。

 どうして。
 どうして、人間たちは。
 何も知らないくせに。
 ゾーマがどれほど人間を思っていたかなど、何も知らないくせに──!

『私』の中で。
 人間であり、魔族でもある。
 その血が、目覚めてゆく。
 穢された自分の体が、黒く染まっていくのが分かる。

『破壊せよ』

 心の中の声に『私』は身をゆだねる。
 そう。破壊する。『私』からゾーマを奪った人間たちを。
 祝福されることのないこの世界そのものを。

「私は、死神」

 彼女の気配が変わる。
 男たちはそれに気づかない。

「私は、お前たちを殺す」
「何言ってやがんだ、こいつ」
「はは──、は」

 その男たちの中の一人が笑い声を止めた。
 首が飛んだのだ。

「な──」

 瞬時に、部屋は惨劇の場と化す。
 いや、粛正の場と言った方が正しいだろうか。
 ほんの数秒のうちに、自分に群がっていた男たちは全て死んだ。

『哀れだな』

 ゾーマの言葉が思い出される。
 そう。
 ゾーマも、自分自身も失い、全てがなくなってしまった今の自分は哀れだった。
 だから、哀れな『アリシア』の魂を安らげるために、鎮魂歌を捧げよう。
 ゾーマを殺した人間たちの、阿鼻叫喚の叫びをもって。

(アリシア)
 脳裏に語りかけてくる声。
(すまない)
「かまわない。お前が生きていただけでも嬉しい。私はまだひとりではないということを感じる」
(すまない)
「私のことを言っているのだとしたら、問題ない。もともとこの体はそのために生まれてきたもの。かわいそうなアリシアのためには黙祷をささげてやってほしいが、もはやこの身はアリシアではない」
 裸で、返り血を浴びた彼女の体はまさに死の女神。
(ゾーマを殺した者たちは許さない)
「そう。お前も同じ気持ちなのだろう。ならば、私に協力してほしい」
(協力?)
「そうだ。勇者は魔王になる。その魔王を操って、人間たちを皆殺しにする。協力してくれるか?」
(承知)
「返答が早いな。では、その最初の仕事をしよう。この城に入り込んだ人間たちを抹殺する。汚らわしい人間たちに、これ以上この城を蹂躙されたくない」
(承知──)
 影が盛り上がり、彼女の体をくるむ。
 影に包まれた彼女は、一瞬それがゾーマに抱きしめられているかのような安心感を得た。
(遺言だ。私には『アリシアを頼む』と。そして──)
「ゾーマから私への遺言なら、無用」
 彼女は影に抱きしめられたまま、そう答える。
「何を聞いても、くじけそうになるからな。人間たちが全て滅んだ後に教えてくれ」
(承知)






 昇日。
 朝日に照らされた魔王の城は、血でぬれていた。
 勇者たち以外の人間は、何とか逃れた一部の者を除いてほとんどが殺害された。
 もっとも、人間たちの軍は自然発生したもので、ラダトームの王が派遣したものではなかった。
 従って、その惨劇は勇者たちには伝わらない。ラダトームにも伝わらない。
 ただ、魔族の影がアレフガルドから消えた後、多数の行方不明者が判明したが、そのほとんどは魔王の島へ向かったことが判明している。






「勇者ロトですね」
 小高い丘の上。見晴らしのいいその場所。
 赤黒の鎧を着た彼女は、仇でもあるその人物に声をかけた。
「人違いだ」
 魔王となる人間というのは、こういうものなのだろうか。
 今の勇者は、どこかゾーマと影が重なった。
「ですが、そこに見えるのはロトシリーズですね。ロトの剣、ロトの鎧、ロトの盾」
「そうだ。これを装備できるのはロトか、その子孫のみ」
 その三つの装備品は空中に舞い上がり、三方向へ光となって消えた。
「俺はあれを装備することはできない。だからロトではない」
「なるほど。やはり勇者であったものは全て、その運命を投げ捨て、新たな運命を手に入れるものらしい。あなたも魔王を望むのですか?」
「それがいいだろうとは思っているが、そんなことを尋ねるお前は何者だ?」
 小高い丘の上。見晴らしのいいその場所。突風が駆け抜け、無数の花びらが宙に舞う。
 名前。
 そういえば、そんなものも必要になるのだと、この時思い至った。
「私はゾーマの参謀を務めていたシリウスと申します」
「なるほど。ゾーマがいなくなったらすぐに次の主を探すというわけか」
「ええ。勇者は魔王を目指すもの、ということは知っていますから。ゾーマがそのいい例でしたからね」
「何を知っている?」
「何もかもを。ゾーマが魔王になろうとして、それがかなわなかったことも。そしてあなたが真の意味での魔王になろうとしていることも」
 不完全な魔王は、不老の力を手に入れることができなかった。
 人間を見捨てることができなかった魔王は、アレフガルドを夜の世界に閉ざすことで世界を守ろうとした。
 そして、目の前にいる新たな魔王は、人間を滅ぼす覚悟を既に決めている。
 彼女の、望み通りに。
「お前の望みは?」
「望み?」
「そうだ。そこまで分かっているのであれば、俺が何をしようとしているのかは分かるはず。決して魔族のために戦うのではない。結果としてそう見えたとしても、だ。お前は何を目的に動いている?」
「簡単です」
 シリウスは答え、その仮面を取った。
「私を蹂躙し、私からゾーマを奪った人間たちに復讐する」
「復讐……そうか、お前はゾーマの恋人か妻といったところか」
「いいえ。家族、でした。そして、私にとってたったひとりの家族を殺したあなたを、最後には殺す。それが望みです」
 新たな魔王は笑った。






次へ

もどる