外伝一.魔界の森の姉弟
彼は追われていた。
魔界の森は、凶悪なモンスターが数多くいるところ。魔族とモンスターでは魔族の方が強いのだが、この魔界の森だけは違う。魔王ですら手をやくモンスターが有象無象にいる。
いつからここにいるのかは覚えていない。物心ついたときにはここにいた。
捨てられたのか、それともここで生まれたのか。
彼には分からない。ただ、彼はここで生きている。
モンスターに追われながらも細々と生き長らえていた。
どうして今まで生きていられたのかは、今考えるともう分からない。
運がよかった、とするのが一番だろう。
モンスターに追われたことなど、当然何度もある。
だが、今度も逃げ切るのは少々難しかった。
だいたいどこにモンスターがいるのかは分かる。後ろから追いかけてくる二体の魔族、前で待ち伏せしている二体の魔族。
このまま駆け続けても、逃げ切るのは難しいだろう。
だからといって、戦って勝てるとは思えない。
(どうする)
時間はもう残り少ない。
方向転換を図っても、この森の中でどこまで逃げ切れるかは分からない。
だが、このまま逃げ続ければ前にいる魔族の待ち伏せを受けることは間違いない。
それならば、今追われている二体と戦うのが一番といえば一番だ。だが、一匹でも倒すことができないのに、二体を相手に倒せるはずがない。
どうする。
だが、そう考えているうちにも待ち伏せしている二体との差は詰まってきている。
もう間に合わない。
ついに足を止めた。後ろから来る二体と、前にいる二体との挟み撃ちになる。
四対一。
どうやら、自分はここまでらしい。
(死ぬとどうなるんだろうな)
逃げ出す場所をそれでも探しながら、そんなことを思う。
巨大なサルのモンスターが、キシシシ、と笑った。
奴らにしてみると、力のない魔族は絶好の御馳走だ。
(だが、ただでは死なない)
生きのびるための努力はやめない。
最後の最後まで、絶対に生きることをやめない。
「ぐうっ!」
右腕に裂傷。
背中に裂傷。
魔族の紫色の血が、魔界の森に落ちる。
(まだだ)
絶対に諦めない。
死にたくない。
こんなところで、いたずらに何かの餌になる運命など、ごめんだ。
「死ぬもんか」
泣きそうになるのをこらえながら、敵を見つめる。
キャキャキャ、という笑い声が四方から聞こえる。
そして、動いた。
敵の長い腕が、自分の顔めがけて振り下ろされる。
早い。
もう、間に合わない。
目を閉じることすらできず、自分の死を目前に見た。
(死なない)
体が硬直し、避けることができない。
(死なない!)
意思だけでそれがかなうのなら、誰も死ぬことはない。
そう、死は全ての者に平等に与えられる。
そんな心理を、彼は悟った。
瞬間、
「ギェェェェェェェェェェッ!」
そのモンスターの口から、絶叫がほとばしる。
振り上げられていた腕に突き刺さる小剣が、彼の目に映った。
「……なに」
彼はあたりを見回す。
そこに、いた。
白い肌、白い髪の少女。
自分と同じ、魔族。
彼女は無表情のまま駆け、その小剣を引き抜くと、一閃してモンスターの首を刎ねた。
その神技に残りの三体が怯む。その時点で決着はついた。
彼女はさらにスピードをあげ、順に三体の首を刎ねていった。
力が違いすぎた。
(強い)
魔界の森しか知らない彼にとって、モンスターは常に魔族にとって脅威となる相手に他ならなかった。魔族がモンスターを倒すなど、到底考えられなかった。
だがここに、それを実行する少女がいる。
彼女は自分を見ると、興味をなくしたかのようにまた歩き出した。
呆然とそれを見送る彼。
しばらく彼女が進み、やがてぴたりと止まって振り向く。
感情のこもらない整った象牙細工の顔に、思わず胸が高鳴る。
「死にたいの?」
それだけを彼女は言い残し、また歩き出した。
どういう意味なのか、と疑問に思う。
そして、気づいた。
(ついてこい、という意味なのかな)
どのみち、ここにいても仕方がない。
右腕と背中の痛みは残るが、それでも彼女についていった方が生き残る可能性は強い。
彼は歩き出した。
彼女の後を、十歩ほど離れたところを。
魔界の森に太陽は差さない。そのかわり、大木にびっしりとはりついたヒカリゴケのおかげで完全な暗闇になるわけではない。それどころか結構明るい。
だが逆に、そのヒカリゴケがついていない大木を見たら、そこには『何かがいる』と思わなければならない。モンスターが潜んでいる可能性が高いのだ。
大木が立ち並んでいるおかげで、地面には丈の高い草はほとんどなく歩きやすい。毒をもつ草花もほとんどないため、その意味では安全だ。
つまり、モンスターさえいなければ魔界の森はそれなりに過ごしやすいといえる。
だが、この森から出ることができれば、危険と隣り合わせの生活はしなくてすむのだ。
とはいえ、ずっとこの森で育っている彼にとっては、世界というのはこの森しかなく、生きているものは凶悪なモンスターと脆弱な魔族、それしかない。
きわめて狭い世界を、彼は生きていた。
絶望することなく、ただひたすら自分の命を長らえるために生きていた。それも本能ではなく、理性で。
やがて彼女は立ち止まり、近くの安全そうな大木の傍に腰を下ろした。
休憩、ということだろうか。
どうしたらいいものか、彼はその場で立ち尽くした。
「休まないの?」
彼女から尋ねられ、仕方なく隣まで行って腰かける。
「あ、あの」
緊張して声が上ずる。
「何」
「さきほどは助けていただいて、ありがとうございました」
彼女は無表情で頷く。
「気にしないで。私は当然のことをしているだけだから、ルシェル」
彼は目を見開いた。
「どうして僕の名前を?」
彼女の表情に少しだけ変化があった。
「そう、覚えていないの」
「え……」
覚えている。
何を。
自分は、この女性を知っているというのだろうか。
「私はルティア。あなたの姉にあたるもの」
「姉? お姉さん?」
「そう。あなたに言葉を教えたのも私。一緒に森に落とされて、もう八年。あなたがちょうど物心つくかつかないかの時期だったわ」
彼は動揺した。
何を言われているのか分からない。この森に落とされたとはどういうことなのか。
だが、一つだけ覚えていることがある。
はるかな昔。
見上げると、真っ赤な空が広がっていたことを。
あの空は、自分がいつか見た光景。
自分の認識に残るよりも昔に見た光景なのだ。
「ご、ごめんなさい」
「何が?」
「お姉さんのことを、覚えていなくて」
「気にしないでいいわ。それから私のことはルティアと呼びなさい」
彼は少し照れながら、微笑んでうなずいた。
「はい、ルティア」
彼にとって最初の出会いは、こうして訪れた。
この後、彼はルティアに剣を学び、この森でモンスターを倒しながら生きていくことになる。
その上達ぶりはすさまじかった。教える側がうまかったのだろう。大木の枝から作った木刀でも十分にモンスターを倒せるくらいに強くなった。
やがて、魔族の死体から少し大きめの鉄剣を手にし、彼はさらに力を上げていくことになる。
だが、どれほど努力しようともルティアにはかなわなかった。
スピード、パワー、テクニック、ありとあらゆる面で彼はルティアにかなわなかった。
やがて、彼の中に一つの欲望が芽生えていた。
それは、魔族として唯一の、そして最大の欲望であった。
「ルティア」
ついに耐えられなくなって、彼は姉に相談を持ちかけた。
「何」
出会ってから三年。彼女が笑うところはいまだに一度も見たことはない。
感情を表さない女性だった。だが、自分のことを悪く思っているというわけでもない。
単に、表現することが苦手なだけだと、随分前に気づいた。
「心が苦しい」
「苦しい?」
「何か空虚で、満たされない。自分の中に、何かが欠けている気がしてならない」
「なるほど……そう」
彼女は言った。
「それは、あなたの中にある唯一の欲望」
「欲望?」
「そう。魔族にとって唯一の欲望は、支配欲。誰かを支配し、また誰かに支配されること。それが魔族にとっての欲望」
「支配されること」
「魔族は自分が誰かに支配されることによって、その相手から力を譲り受ける。あなたは、私に支配されたいのね」
支配される──
それは、彼にとってひどく魅力的だった。そうすることで、この欠けた空虚なところが埋まるような気がした。
「そう、その通りだよルティア」
「駄目」
だが、間を置くことなく返ってきた答に、彼はひどく落胆した。
「何故?」
「私は何者も支配するつもりはない。私の望みは、何よりも強い魔王に支配されることだけだから」
「魔王?」
「そう。魔王に支配され、今よりもさらに強い力を手にする。だから私は、この欲望に負けたりはしない。魔王に会うまで生き延び、魔王の支配を受ける。だから、ルシェル。あなたもそうなさい」
「僕も?」
「ええ。自分が一番強くなりたいと思うのなら、半端な相手に自分を任せてはいけない。最も強い相手、魔王にだけ自らを許し、他の誰にも心を許してはいけない。そうしないと、自分の力はそれ以上に高まることがないから」
「ルティアも、欠けているのか?」
「支配を受けていない魔族はみんな欠けているのよ」
「魔王っていうのは、どこにいるんだ?」
「この森にはいないわ。サラマンダー陛下は」
「じゃあ、どこにいるんだ?」
「この森から出たところ。私はこの森を出るために、ずっと行動しているのよ」
彼にも、少しずつ世界が見え始めていた。
この魔界の森が、決して世界の全てではないこと。
モンスターよりも魔族の方が優れているということ。
そして、自分にとってもっとも大切なことが何であるかということ。
「分かった」
「そう」
「僕も、魔王に会うまでは誰にも心を許さないようにするよ」
「それが一番ね」
相変わらず彼女は笑わない。
だがもし、魔王に出会ったなら彼女は笑うだろうか。
十一年間、一度も笑わなかった彼女。
十一年間、魔王に会うことだけを追い続けていた彼女。
(嫉妬、しているのだろうか)
彼女にそこまで思われる魔王とは、いったいどんな相手なのだろうか。
そのときだった。
前方から歩いてくる二つの影。
モンスターではない。
姉弟は咄嗟に剣を構えた。
「まさか」
彼女の目に困惑の色が映る。
片方は魔族だ。それは分かる。
だが、この魔界に。しかも、魔界の森に。
「──どうして、人間がこんなところに?」
……そうして、彼はこの森で二度目の出会いをすることになる。
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